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まこりんのつれづれなる日々



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2006.06.30

 なんとなくサイトを開いて、気がつくと、3年以上経っている。
 まぁ、10〜20代の3年というのは、誰だってそうだろうけれども、3年という時は「自分」というのものをかえるに充分すぎる時間なわけで、 自分にとってのこのサイトの意味も、開設当初の頃と比べるといくぶんか、かわっているのは間違いなく、 「どうするべか」と、ふと振り返って考えたりすることが実に多い。
 近頃、日記の更新、テキストの更新がスムーズでない大きな要因の一つが、実はそれだったりする。
――ま、ただ単に忙しいとか、 なにかを語らずにいられないとあからさまに熱っぽさを表に出すのでなく、それよりも無口な受け手でありたいと思うほうが、今はちょっとばっかり勝っていたり、とか、まぁ、他にも色々あるんだけれどもね。



 ネットの言葉って、不思議だよなぁ、と、近頃改めてよく思う。
 電話や手紙なら、どこの誰か、とその言葉にはあらかじめ宛名が記されているし、 本にかかれている言葉は、宛先はなくても、出版社の編集者やら、印刷所など、作り出させるまでにさまざまな人を介しているわけで、少なくとも「不特定多数に送り出す価値がある」となんらかの人が思った言葉のみが、世に出されるわけで、 それと比べると、ネットの言葉ってのは、とても孤独だ。
 誰に宛てるともない、誰が認めたというわけでもない、つまり目的のない、ひとり言の呟きみたいな、ぽつねんとした言葉だ。 そんな、ある面においては、純粋なる言葉を、誰かが書いて、それを誰かが読んでいる。 誰かに届くと信じて誰かが書いて、誰かがそれを受け取る。
 それは、ひとつの奇跡だと思う。

 ネット上には、それこそ嵐のように、穢い、どうしようもない、嫉妬と憎悪と欺瞞に満ちた、愚劣な、人を惑わす、悪魔の言葉が、吹き荒れている。そういうところもある。 けれども、その汚濁を踏み越えて、出会えてよかったといえる、奇跡といえる言葉を、わたしはつづっていきたいし、そういう言葉に、私は出会いたい。 近頃の私はしみじみ思う。



 そんな気持ちの私が、過去のテキストを見ると、なんとも品性のよろしくない未熟なもので、足りない部分が実に多く、 では、今の私がそんな質の高いテキストが実際書けるのか、というと、これまた、無理です、無理というしかありません。 と、いよいよ混迷を深めていくわけで。困った困った。



2006.06.26

 近頃、親子の葛藤をめぐるさまざまな事件が起こっている。
 わたしは、マスコミから流されるそれらさまざまな情報に耳をふさぎながら、 しかし、時折、ふさいだ耳をすましてみて、聞きいる。
 報道が流す事実といわれるもの、それがどれだけ真実であるというのだろう。 わたしたちは、当事者でない限りにおいて、決して真実を知ることは出来ない。
 そう思いながら、ひとつの不幸にある、なにか、を感じ取ろうとする。

 親子の間で起こる悲劇。
 そこに、ただひとつだけ、確かなことがある。
 それでも親は子を愛し、子は親を愛している――ということだ。
 現実が見えなくなるほど、すべてが憎しみに変わるほど、愛している、ということだ。
 彼らの愛しあうその方法は、結果を見るに、間違っていたのだろう。
 彼らは、「愛しあう」ということに対する見識が、浅かったのだ。
 しかし、それが正しかろうと、そうでなかろうと、子は親を親は子を愛してしまう。
 理由は、ない。
 そして、それは永遠に捨て去ることが出来ない。

 だから、わたしは、その愛が怖い。
 母親が、自らの血肉を分け与えるように、乳飲み児を育てる姿――それを美しい、崇高だと思う反面、わたしはぞっとするものを感じずには、いられない。
 愛は、残酷な神が支配する世界だ。
 情け容赦のない、圧倒的な支配の世界だ。
 その愛が、甘やかだろうと、陰惨だろうと、崇高だろうと、その構図自体残酷である、それは変わらない。
 親と子は、永遠にもろともの囚人だ。見えない鎖でつながれて、それが外れることはない。

 わたしは、愛から自由になりたい。どこまでもひとりで歩きたい。そう思って、いつも逃げている。
 しかし、時折、ふと、ふりかえり、あの息苦しい世界を、なつかしく思う。
I goin' back to New Orieans To wear that ball and chain
(俺はニューオーリンズに帰るのさ あの鉄球と鎖をはめるためにね)
(Animals「朝日のあたる家」)
 
 古い歌の一節を、思い出しながら。



2006.06.20

 ここ一週間ずっと、ひそかに宇多田さんの「ULTRA BLUE」を聴きまくっては、「完璧、このアルバム、完璧。この絶対的な流れっっ、ありえない」 と、感涙しているまこりんの元に、こんどは明菜サマの新譜が届けられたのだけれども……。

cover

 ふはははははは。
 正義は勝つぅっっっ。
 やったやったやったやりやがったたぁーーーっっっ。
 ありがとう、神様。
 ありがとう、明菜。
 最高です。これです。これですよ、明菜サマ。



 えとね、このアルバムはね、 「昔の明菜は好きだったんだけれどもね、おしゃれでカコよかったし。でもあの事件以降の明菜って、ぶっちゃけ重いし、痛々しいし、聴いてて辛いんだよね」 と、90年代に脱落した元・明菜ファンに是非とも聞いていただきたいっっ。
 重くない明菜だよ。カッコいい明菜だよ。黒っぽい明菜だよ。おされな明菜だよ。



 アーティスト自身が求める音楽、ファンが求める音楽、今のポップシーンが求める音楽。 ざっくりいうと、この三要素の引っぱり合いで、あらゆるコンテンポラリーミュージックってのは、生まれものだと思うんけれども、 このアルバム、その三要素のバランスが最高、かつ、実に高い水準のところで融合している。
 明菜の追求したい音楽で、かつファンは大納得の音楽で、かつ、今のポップシーンにあって、まったく遜色ない音楽。 中島美嘉とか、安室とか、宇多田とか、浜崎とか、のあいだに流れて、全然違和感無し。
 是非とも、このアルバムは、非ファンに聴いていただきたい。  そして――、わたしと同様、感涙したファンのみなさんはこう叫ぼう。明菜、大好きー――っっっ。てね。

 あ、ここで、各曲のダイジェストが聞けるので、興味の湧いた方は、是非とも、聴いてみてみて。(youtubeだけれどもね)

http://www.youtube.com/watch?v=6cGT1wanAMY

 しかし、アルバム曲のほとんどの曲の編曲し、実質的な音楽監督の役割を担っている佐々木友祐さんって、はじめて聴く名前だなぁ。
 検索かけたら、「佐々木友祐(ささき ゆうすけ) 安室奈美恵のシングル作品のボーカル ディレクション。 アジアンカンフージェネレーションメジャーまでのプロジェクトに参加」ってのがでてきたけれども、これがこの人なのかなぁ……。 ともあれ、いい仕事しています、佐々木さん。



2006.06.19

 今更感たっぷりだけれども、和田義彦氏の盗作疑惑の話を……。

 ワイドショーやネットなどで、オリジナルのアルベルト・スギ氏の作品と和田義彦氏の盗作の作品を並べ検証しているところが多くあった。

 http://plaza.rakuten.co.jp/maou2006/10000

 それを見るに、彼の盗作は、火を見るより明らかである。構図、色使いなど、どのようなフォローも無意味と思えるほどまでに、見事な盗作だ。
 が。
 あらゆる先入観を排除して、和田氏の盗作作品を観賞する。
 ――結構好きだな、この絵。

 アルベルト・スギ氏のオリジナルと和田氏の盗作、予備情報まったくなしで、どちらの絵のほうが好みか、といわれたら、わたしは和田氏の盗作の方を、選ぶだろう。 筆遣いや、色調など、些細な点なのだが、和田氏の作品のほうが、わたしの感性にしっくりくるのだ。
 なぜ、といわれても、こたえようがない。そう思ってしまうんだから仕方ない。これが、美術・音楽・文学などなどあらゆる「表現」の、面倒くさいところだ。

 盗作は、アリジナルアーティストへの礼を欠いた、表現者として恥ずべき行為、である。おのれが表現する側に立ったとき、もっとも細心の注意をはらわねばならない部分、だとも思う。
 が、一転、観賞する側として、純粋に作品に対峙したとき、そういった細かい事情というのは、どうでもいいものでも、また、あるのだ。

 作品とわたしがそこにある――その作品がわたしの心を響いたか、あるいは、響かなかったか。作品の観賞は、ただ一点、それのみの勝負であって、後の部分はすべて、ザップだ。 作者の品性が下劣だろうと、作品自体が盗作だろうと、どうだってかまわない。知ったことではない。そんな世俗のルールは観賞に必要ない。 そのとき、わたしの感性は、アルベルト・スギ氏ではなく、和田氏の作品を選ぶのである。わたしにとっての勝者は、和田氏なのだ。

 こんなわたしの感性を、「審美眼がない」といわれても、わたしはわたしの感性を曲げられない。
 この面倒くささがわからずに、うだうだしたり顔で語る田舎漢が多いのに、わたしはうんざりする。

 選者が、和田義彦氏の作品がほんとうにすばらしい、アルベルト・スギ氏のオリジナルよりすばらしいと思ったのであれば、賞を剥奪する必要などない。綿貫民輔の肖像も、飾りつづければいい。
 作家だって、パクりたいなら、パクればいい。
 ただ一点、出来あがった作品がすばらしければ、それで、いいのだ。
 筒美京平も、浜崎あゆみも、倉木麻衣も、作品が素晴らしいかぎりにおいては、わたしは認める。

 とはいえ、盗作騒動の和田氏の対応は、「みっともない」のひとことにつきるし、彼へ加えられた制裁は当然のものと、また思う。擁護するつもりはさらさらない。
 是非とも、これから盗作する方は、覚悟と矜持をもって、盗作にのぞんでいただきたい。 そして発覚した時は、右往左往せず、堂々と、自らのまいた種ときちんと刈り取っていただきたい。 と思う、そんな私なのであった。



2006.06.16

 なんとなく心が薄暗い。
 特に懸念するものごとが心を占めているわけでもない。ただ漫然とした、あまり居心地のよくない感情が、梅雨の垂れ込める雨雲のように、心を覆っている。
 なにごとにも集中できない。
 さまざまな出来事は日々おこっているが、そのほとんどはモニターの向こうのどこかの誰かの出来事。 自分には関わりのないもので、とりたててなにかをいう気にもならない。
 せめてこの感情になにか言葉を与え、明確にできるのならば、と思うのだが、 こういう時に限って、あまり意味のある言葉は綴れないものだ。

 毎日更新しているブログはすごいな、と、改めて思う。
 私のような、心がうつろいやすい人に限らず、 なにもいうことのない1日、なにもいうことの出来ない1日、というのが、誰にだって年に何日かはあるものだと思う。
 そういう状況をおして更新しているのか、はたまた、内面的にも社会的にも、まったくもって平穏で安定した生活をおくっているのか。

 「見知らぬ何百人もの人たちに文章が読まれるのって、なんか不思議じゃない?」
 と、ある日、友人に言われた。このサイトのことだ。
 確かにアクセス数などを見るとそれは事実そのものなのだが、その事実にさしたる実感はない。 このモニターの向こうに何百人のあるいはそれ以上の人々が、それぞれの感情をもって、これらわたしの文章を読んでいる、それはなにかの冗談のように思えて仕方ない。
 またまた、そんな嘘をついて俺を騙したって、なにもでやしないよ。

 わたしはいつもひとりよがりで、時にぼんやりと、時に熱くなりながら、モニターに向かっている、ただそれだけだ。
 そして、時折、冥界からの使者のように、あるいは、なにかの巧妙な罠のように、見知らぬ誰かから、メールが届く。
 私にとってのサイト運営というのは、つまりはそういうものだ。
 つかみ所のないふわふわと曖昧な世界――。

 さりとて、実生活は、手ごたえのしっかりとある、本質的で、濃密な世界なのか、というと、少なくとも私にとってはまったくそうではない。 何事もおこらず何事もおこさず、ただ砂時計の砂が少しずつ目減りするように自分が目減りしている(――ように感じる)だけで、 生温い絶望と希望が、穏やかにまざりあっている、うんざりした世界、としか思えない。
 だからといって、実生活で良くも悪くも「無理にはじける」つもりも毛頭ない。その一瞬のためのリスクを背負う蛮勇も、またなにかに対する恨みもない。  つまるところ、なにごとにおいても中途半端な奴――それが私なのだな、としみじみ思う。

 どんな場所にいてもどこか場違いのような感情にさいなまれ、なにをしても確かさを感じることが出来ず、 ただ自分のなかにある「ズレ」を意識しながら、しかし、どうすることもできず、ただ生きるために生きている――。

 「ま、でも、それもいいんじゃないかな。それが私の妙味ということで」

 繰り言をひねくりまわすと、不思議と最後は、よくわからないポジティビティーが身のうちから湧き上がってくるから面白い。 最終的な局面で、どうにも自分を投げ出せない。明日も仕事早いしね。と、現実に戻ってきてしまう

と、いうことで、今日の日記は、繰り言オンリー、うざくてごめんね。



2006.06.10

 ♪ ふうふっふ、友達夫婦  ふうふっふ、恋人夫婦

 「家庭内デート」が頭から抜けないよぅ。
 「うたばん」で久しぶりにトークの斉藤由貴をみたけれども、 昔と変わらず眼のとろんとした危うい天然さんなのが、ちょっと嬉しかった。
 立派なおかぁちゃんになっても、腐女子っぽな挙動不審。いいです。 ドラマOPでも着ているブルーのチェックのイタタな衣装――腐がイベントで着そうだよね、もお似合いです。

 そういえば、遠い昔、こんなテキストかいたけれども、 今回の「吾輩は主婦である」の音楽担当。その福島祐子さんなんだよね――。 「モンナシーヌ」の唄とか、「魚は目を閉じて眠る」の唄とか、6/21発売のサントラには、収録されるようだし、かっちゃおうかなぁ。 いいんだよね、モンナシーヌ。

 ♪ 知らない人に〜五千円〜 知ってる人には二万円〜

 って、さりげに斉藤由貴、歌が上手くなってる。

 ドラマも、斎藤さん女優魂炸裂。 ドラえもんのように首に鈴つけられたり、メイドコスプレさせられたり、鼻にテッシュつめられて、それを鼻息でふって飛ばしたり、 なんというか、凄い。でも、不思議と色物感はしないんだよな。
 チェベックス、ってなかなかいわない(――ってか、一度言ってほしい)レッド吉田、とか、他の面子が濃すぎていつもの濃さなのにまったくうざくない川平慈英とか、 由貴ちゃんとほぼ同じ速度での暴走演技でつっぱしる竹下景子&池津祥子とか、 庶民くささがはまっている王子様、及川光博とか、他キャストも、いいよなぁ。 まこは吾輩で毎日潤っております。来週も楽しみだわーー。



2006.06.08

 以前テキストで、「オリコンの1970年から現在までの「CD・LP・CTアルバム総合チャート集」が欲しい」 と書いたけれども、その祈りが通じたのか、 オリコン2000号記念と称して、まさしくそのもの「ALBUM CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1970〜2005」が、「SINGLE CHART-BOOK COMPLETE EDITION 1968〜2005」と、同時発売。

http://www.ns-shop.jp/oricon/

 やったね――って、ちょっとまて1冊22000円って、どうゆうことよ?
 シングル編とあわせると、計五万円。って、あ、ありえなーーーいっっ。97〜98年頃に出たチャートブックは、アルバム編とシングル編あわせても12000円くらいだったやーーんっっ。
 この半額なら、速攻注文していた。 けれど、二万。本に二万。ブックオフ常用の人間が、本に二万。考えられない。 の、喉から手が出るほど欲しいっっ、アルバム編、だけどっ、この価格っっ。どうしろとゆうのかっっ。  あー、もうっっ。 別に二万くらいなら自由になるお金、ありますよ? でもですよ。それにしても、ですよ? ってかさ、この価格設定、ぼってません ? オリコンさん、どうよ?
 なんか、こう、今チャートマニアとして試されているよ、自分。



2006.06.03

◆ 加藤和彦  「VENEZIA」

 加藤和彦+安井かずみコンビのアルバムは、76年の「それから先のことは」 にはじまり、91年の「Bolero California」までの九枚、全部が名盤だと思うけれども、一番好きなのは、コレ、 84年リリースの「VENEZIA」。
 なんで、このアルバムが好きなのか、というと、多分、彼のアルバムの中で一番少女漫画的だから、なのかも。 アルバムにおける世界観の強固な構築は79年の「パパ・ヘミングウェイ」以来、確固たるものがある加藤・安井コンビだけれども、このアルバムも徹底して「VENEZIA」一色のアルバムとなっていて、 で、このふたりの視線によるベニスの街が、 いわゆるゴスというか、耽美というか、ロマンチック過剰なダークネスというか、どんだけ腐女子向けなんだよ、という、そういう領域に入ってしまっており、最高です(笑)。
 歌詞だけ引っ張り出しても、 「鏡のサロンに閉じ込めた亡霊たち 過去の夢と踊りつづける(「トパーズの目をした女」)」とか「ハープの影から忍び寄る 蛇のような死神の手 近づくフィナーレ アラベスク 真夜中のバレリーナ(「真夜中のバレリーナ」)」とか、「首のないマドンナの すすり泣きが聞こえる夜は…… (「首のないマドンナ」)」とか、 もうね、一体どんなマリスミゼルですか、っていう、このゴテゴテのお耽美。素敵過ぎます。 もちろん箸休め的な「ハリーズBAR」「ピアツァ・サンマルコ」あたりもしっかり上質。
 森川久美のイタリア漫画(――ヴァレンチーノシリーズとか、「花の都(フィレンツェ)に捧ぐ」とかね)を読みながら、聞きたい、そんなアルバム。 その昔、June少女だったというあなたに、是非とも手にとって欲しい一枚か、と。
 ちなみにサウンド的には、「うたかたのオペラ」〜「ベル・エキセントリック」と続いたテクノ系の打ち込みメインのサウンドだけれども、今回はいつもの教授やハリー細野の手を借りずに、 Mark Goldenbergが打ち込みを担当。同時期のMark本人のアルバム「鞄を持った男」とか、彼のプロデュースした加藤登紀子「エスニック・ダンス」とサウンドは近いかな。 モダンなのに、シックでクラシカルでノスタルジックって雰囲気は、さすが安井+加藤コンビという感じ。

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