◆ 藤真利子 「狂躁曲」 ◆ 藤真利子 「ガラスの植物園」 ◆ 小林麻美 「GOLDEN J-POP」 ◆ 小林麻美 「GREY」 ◆ 戸川京子 「涙。」 ◆ 研ナオコ 「Naoko VS Aku Yu」 ◆ 研ナオコ 「DEEP」 ◆ 研ナオコ 「弥生」 ◆ 研ナオコ 「花火」 ◆ ジュディ・オング 「ベスト・ナウ」 ◆ ジュディ・オング 「白の幻想 〜エーゲ海のテーマ〜」 ◆ 高橋真梨子 「FANTASIA」 ◆ 鰐淵晴子 「らしゃめん」 ◆ 和田アキ子「もっと自由に 〜Set Me Free〜」 ◆ 小柳ルミ子 「蛍火」
泉鏡花とか谷崎潤一郎とか、ああいう世界をパンク・ニューウェーブ的に再解釈したらどうなるか?みたいな感じ。つまり「お耽美」主義。 プロデュースは鈴木慶一と藤真利子自身。作詞は寺山修司、山口洋子、辻井喬、赤江瀑、吉原幸子と、すべて詩人・小説家に依頼して各二曲ずつ。これは彼女のお父様、藤原審爾の人脈? 作曲は鈴木慶一、高橋幸宏、大村憲司、沢田研二、彼女自身も微美杏里名義で作曲している。編曲は鈴木慶一、岡田徹、白井良明で分担と、サウンド的にはムーンライダース全面協力。(――この時期のムーンライダーズのアルバム「マニア・マニエラ」に藤真利子が参加しているのは、そういう経緯だったりするわけですな)。 てわけで、血みどろ和風情念ニューウェーブ ? みたいな、えもいわれぬ世界が広がっている。 正直言って、作家先生方の「詞」は、慣れていないせいか、どれも微妙に言葉が音符にうまく嵌めこまれていないんだけれども、そのかわりに、「歌謡曲」のお約束完全無視で、「花まみれのお前〜」とか、妙にフックの強いお耽美な語彙が飛び交っているし、それにあわせるように、ムーンライダースの面々(含む藤本人)はちゃんちき三味線が鳴りまくったりとやりたい放題。 なんか物凄いリビドーが銀盤から感じられます。アルバムまるごと奇妙な不協和音というか、予定調和など破壊だ、という感じ。 つまりはですね、このアルバム、どう考えてもプロフェッショナルな豪華メンバーなのに、着地点としては、中二病的なお化粧ビジュアル系バンド――しかもマイナー、というそういうテイストなのですね。聞いていても、冗談なんだか本気なんだか、さっぱりわからない。 ま、「耽美主義+ニューウェーブ=ビジュアル系」なのは、その後の日本のポップスの歴史が示唆している当たり前の事実なわけで、それを豪華メンバーで、82年段階で体現した、と。そういった作品なんじゃないかなと、私は解釈しますです。 ビジュアル系という概念が生まれる以前にあるビジュアル系のアルバムとして中森明菜の「不思議」とともに是非ともおさえておきたい一枚かと。必聴。(――って、ここで藤真利子と中森明菜を並べるというのも、なんだか近藤真彦を想起させてなんなんですが) (記・08.07.09)
いわゆる女優仕事的なアルバムなわけだけれども、セルフプロデュースでそれしちゃうあたりが彼女の強み。高品質で、かつ、前二枚にあった破天荒さもなく、安心して聞ける1枚。匙加減が最高。 それにしても藤さん、幼女になったり、妖女になったり、いい演技してます。ブルージーななかにひとしずく甘さの漂う「Big Fat Mama」がベストトラックかな。 ちなみ00年に前作「アブラカタブラ」とあわせてCD化されたが、今はこれも廃盤。 ところで「アブナイ彼」の「SUZUKAのレースではじめて見かけた」年下の彼って当時、レース場でいっしょにフライデーされたマッチのこと? 明菜様が黙っていませんよっ。 (記・08.10.21)
万事低血圧な彼女の芸風とは相反して、歌唱はなかなか温みのある声。ウィスパー気味にセクシーにアンニュイに、時には可愛らしくと聞き手の妄想をかき立てるように変幻する歌唱に、意外にも女優の片鱗が垣間見える。 82年、井上陽水が沢田研二のアルバム『Mis cast』の全楽曲の作詞・作曲を担当した時、「するすると楽曲ができて楽しかった。今日もモテて明日もモテてという曲を臆面なく作れたから(意訳)」ということをインタビューで語っていたけれども、つまりは、この作品におけるユーミンもそう。 当時のユーミンは理想的な美少女を麗美の楽曲に、理想的な大人の女性を小林麻美の楽曲に、それぞれ仮託していたんだろうな。 それぞれの作品が高品質なのは確かなんだけれども、小林麻美の楽曲で云わんとしていることはつまりは「私って、いい女でしょ」これのみ。 とはいえそれがまったく嫌味にならないのは、当時の小林の美貌と存在感あってこそなんだろうな。 いまやマーケティングとしてはあまりにも陳腐化している「F1層」というターゲット、それに照準を絞ったはじめての歌手がユーミンであり、タレントが小林麻美であったわけで、このタッグは80年代の必然といっても過言ではないのである、というと大袈裟すぎるか。 ファッション誌で自分語りしたり、化粧品のCMでいい感じに撮られたり、なんとなくエッセイやら写真やら自分を表現してみたり、寿司屋で『あたし、納豆巻き』と闊達に応えたり、などなど、なんとなぁく漂っていた、華やかで、それでいて気さくな一面もあって、自分に正直に生きている都会的ないいおんな、 みたいなそういう実体のない彼女のイメージは80年代中頃の芸能界において異質ながらも、今で云うファッションリーダー的な立ち位置として、確かな存在感を示していたわけだし、それを楽曲という形で定着させたということにおいてとても意味がある作品集なんじゃと、思う。 ――てわけで、ソニーからリリースされた三枚のオリジナルアルバムをはじめ、その後に出されたベストアルバム含めどの作品を聴いても問題ないんだけれども、 なんでこれかというと、ついにCD化となった「哀しみのスパイ」の12インチ・ロングバージョンが素晴らしすぎるから、なのです。ラフマニノフ風のピアノソロから始まり、劇的に展開するオーケストレーションはスリリングな短編映画のよう。 他、キャンティーを舞台にユーミンと麻美の友情が結晶した「飯倉グラフィティー」、一輪の花が散る様をスローモーションにしたような「アネモネ」などいい曲だらけ。ただひとつ言わせていただければ、このベスト盤、「幻惑」と「月影のパラノイア」が入っていないのは、納得いかんぞっっ。 (記・08.09.10)
後藤の音作りは、当時の原田知世や河合その子で見せたサウンドに近い質感かな、所々ヨーロピアンなロマンチックさを醸し出しつつも、仕上がりとしてはわかりやすいポップスという感じ。 ユーミンの曲も、歌うトレンディ・ドラマとして全開バリバリだった当時のそのままのテイストで、都会暮らしの三十歳前後の独身女性のありそうでありえない日々を私小説的に切り取っている。 前2作のいかにもな絵空事然とした虚構ではなく、手に届きそうな、現実味のある、今の自分よりも一歩ラグジュアリーな、虚構。 出るはずのない恋人にかける深夜の電話の呼び出し音を「夜の響きを聞いているの」とか言えちゃう、しゃらくさく、乙女ちっくでバブリーな、これがまさしく80年代であったのだな、と。今あらためて聞くと妙になつかしくも感じる。 ユーミンの「DA DI DA」や「ALARM a la mode」、「ダイヤモンドダストが消えぬまに」のラインが好きならこれもんの世界だけれども、高飛車でエロティックな雰囲気があるのが、麻美のバブリー三部作と当時のユーミンの諸作との大きな違い、かな。「ルームサービス」と「GREY」なんて、並べて聞くとほとんど事前と事後のよう。 ハイライトは「夜の響きを聞いている」〜「昼の三日月」〜「I miss You」〜「飯倉グラフティー」の中間部。「昼の三日月」のサビ前のブリッジの意識が失墜するような感覚、「I miss You」の間奏のロマンチックにスリリングなエレピの音色、「キャンティ」を根城にしていたユーミンと麻美の若く鼻っ柱の強い少女だった頃を懐かしくちょっとスノッブに歌った「飯倉グラフティー」など、いい曲並んでます。 もうちょっと歌ってもよかったように思えるけれども、歌仕事はこのアルバムで終了。その後は、CMやら女性誌やらのいつもの定番の場で数年活動したあと、事務所の社長と結婚・引退。 (記・10.07.08)
音からほんのりとアイドル臭が漂っているのが、これまた凄く好みだぞ、こういうアルバム。 「動物園の鰐」に萌え。姉貴に負けず妹もいい仕事していたんだなあ。ご冥福をお祈りします。 (記・07.02.22)
大ヒットした前作「Naoko VS Miyuki 〜中島みゆきを歌う〜」に続いてリリースされた阿久悠作詞限定のアルバム。79年にリリースされた。 「ざんげの値打ちもない」「たそがれマイラブ」「北の宿から」「街の灯り」「あざやかな場面」などのカバー他、「陽は昇り陽は沈み」「口紅をふきとれ」などナオコのオリジナルシングルも収録。 同じ作詞家という縛りのカバーメインのアルバムってこれしかないんじゃなかろうか(――と思ったら、坂本冬美も95年に阿久悠作品のカバーアルバム出してるんだって)。 阿久悠の詞のいくつかある特徴のひとつ、それはクールネスだと思う。 対象にぐぐっと入り込まずに距離を置いた感じ、あくまで客観的で乾いているのだ。 演歌も、演歌的ないかにも湿った世界を描いているようで、 まるで、長編小説のワンシーンを切り取っているというか、その画に「――という世界がありましたよ」というキャプションがついているというか、 そういう感じで、結構その世界を対象化している。 これが研ナオコの歌唱にベタはまりしている。 研ナオコも、涙混じりに湿っているようでいて、実は結構醒めている部分があるのだ。 研ナオコの歌はふっと呟きのようにさりげなく歌の世界に入って、感極まって泣き崩れる寸前のところですっとずらしていくところがある。 この歌唱による「たそがれマイラブ」「あざやかな場面」「別れの旅」あたりは絶品。 オリジナルアーティストよりも、私はこっちのほうが好きだぞ。 ただ「陽は昇り陽は沈み」「口紅をふきとれ」といったオリジナル作品は微妙な出来。作曲は全て都倉俊一なんだけれども、 研ナオコにはアクトクコンビでなく、三木たかしとか、小林亜星のほうが良かったんじゃないかな。 (記・07.08.04)
研ナオコ、歌、上手いっっ。 歌い上げまくって聞き手を圧倒するような上手さでなく、気づくと、そっと聞き手に寄り添っているような、小憎らしい上手さのある歌手。 歌との、聞き手との距離のとり方が抜群に上手い歌手だと思う。 「夏ざかり〜」の阿久+筒美コンビに始まり、売野+後藤コンビの「ヴェネツィアの情事」売野+吉田拓郎の「六本木レイン」、 松本+細野コンビの「日本人形」、ユーミン作の「帰愁」、さだまさし作「デ・ジャブ(予知夢)」、五輪真弓作「ジェラシー」と、超豪華作家陣による競作といったアルバムで、 こうなると勢い散漫になりがちなものだけれども、 しかし、これが上手くまとまっているんだよな。 これはまさしく、彼女の、歌の距離感の取りかたの天性の上手さによる成功といっていいんじゃないかな。 すっと、歌の世界に憑依するんだよね。で、歌が終わると、これまたさらっとその世界から抜けて、テレビでお馴染みの「研ナオコ」になっている。 手ごわい歌手だなぁ。 キャリアのわりにきちっとしたアルバムらしいアルバムが少ない彼女だけれども、がっつりアルバムで聞きたい――世界観を構築できる歌手だと思う。 (記・06.06.07)
このアルバムはとにもかくにもタイトル曲「弥生」が傑作過ぎる。途中「かごめかごめ」「竹田の子守唄」「さくらさくら」といった童謡を挿入した10分にも及ぶ大曲なのだが、テーマは堕胎。とはいえ、社会問題を厳しくアジテートするような気配はなく、夜桜の散るがごとく儚げで哀しみのこぼれる歌唱に引き入られるようにしてじっと耳を傾けると、世界がクリアに見えてくるといった作り。 なにがどうしていった微細を全てを直接的に表現せず、「かごめかごめ」は女郎の流産・堕胎を歌ったという説や、「竹田の子守唄」は同和問題を孕んでいるといった件を読み込んではじめて輪郭をくっきりとさせる阿木燿子の詞作も、山口百恵らに大量に詞作していた時期からまったく衰えることなく、いまだに鋭く光っている。 年月の流れのままに心は移ろいながら、しかしもう一方の心は時の淵に取り残されたままいつまでも弥生の宵に佇むひとりの女。ラスト、さくらさくらの詠唱に、全ての人の業は、清く洗いたてられる。西行の「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」を想起させる傑作といっていいだろう。インディーズだからこそ、ここまで踏み込んだ曲が歌えたのかもしれない。 重厚な「弥生」から一転、お互い大人過ぎて成就できなかった恋をさりげないフォークロックで表現した「シャイだった」の小粋な軽さもよく、内藤やす子の巻き舌っぽい歌唱を残しながらもよりブルージーに迫った「想い出ぼろぼろ」、諦念具合のほどよさがいい「TOKYOワルツ」もよく、ラスト飾るロックナンバー「煌めく河」も時の流れを力強く掻いて泳いでゆく姿が好印象。 そっぽを向いていると間近に顔を寄せて、逆にぐいとつめよるとはぐらかす。でも、はぐらかしたように見えて、本当ははぐらかしていない。そんな研ナオコらしい距離感も相変わらずで、レコードアーティストとして14年もブランクがあったとは思えない。世間的にはすっかりバラエティータレントと思われている彼女だが、地道に地方でのコンサート活動を続けた甲斐のあった作品といえる。最近の中島みゆきはがなり歌唱で押し付けがましくなっちゃってトゥーマッチなんだよなー、という御仁には最適の女流フォークロックアルバムだ。 (記・10.11.27) ◆ 研ナオコ 「花火」 (94.07.06/ランクインせず) 研ナオコのレコードアーティストとしては最末期のシングル。作詞作曲は虎舞竜の高橋ジョージ。研ナオコ・高橋ジョージと並べると宗教的なつながりを想起せずにはいられないが(――まあ、実際そうなんだろうけれどもね)楽曲自体は、いい。 なにもない安アパートに暮らしている幸薄そうな二人、男の「親に会って欲しい」の一言に女は私たちも幸せになれるのだろうかと思ったのだが暗転、男は雨の高速道路で帰らぬ人に。女は留守番電話に残された男の最後の言葉――「これから急いで帰るから」を今でも消せずにいる。そして、あなたは花火。夏の日の花火だった、のリフレイン。 という詞・曲は完全に92年に大ヒットした「ロード」のガールズサイド。おそらく研サイドから「ロード」みたいな曲を、というオファーだったのだろうが高橋ジョージは愚直に期待にこたえている。さすが「ロード」で十三曲も作った男だぜ。 ただ「ロード」が情念ほとばしるままにハイタッチに涙にむせび泣いてるのと比べて、研の「花火」の歌唱はどこかかわいて、距離がある。心をきちんと歌に寄りそわせながらも「――という話でしたとさ」と客観で見ている視点があるのだ。そこがいい。わたしは「ロード」よりも「花火」の方が好きだ。 悲しみ歌歌いとして圧倒的な訴求力のある研ナオコだけれども、常にある悲しみの断崖のぎりぎりで踏みとどまるクールネス、そんな粋さがこの歌にもあった。 (記・10.02.01)
ジュディといえば、彼女を時代劇の端役から一躍スターに仕立てあげた「魅せられて」(――もちろんこのベストにも再録音で収録)に尽きるわけだけれども、つまりはこのアルバムもそういう楽曲が中心。 この時期「ミ・アモーレ」やら「桃色吐息」やら、ああいったエトランゼポップスが再びヒットしていて、ここはジュディ先生にも登場していたただかなくては、という感じで再び歌手活動が活発化したんですね。 そんなこんなで、異国を舞台にした絢爛豪華な女の美とエロスの世界を高らかに表現した歌たちがずらりと並んでいるんだけれども、改めて聞くに、なんというか、そんなにエロエロじゃないんだな、ジュディのボーカルって。 これはもう「性交そのものです」としかいいようのないようなサウンドや詞で、いくら煽り立てても、ジュディは燃え上がらない。なんだか、軽いのだ。 聞いてても、粘液質にねっとりと耳に絡みつくという所がない。さらっとしてる。 彼女って、本質的には、さっぱりとして、あんまり肉欲に執着のない人なんじゃないかな。 阿木燿子の描く頽廃的で豪奢で肉に溺れきった世界を、「理解して演じている」という感じで、自らのものとして血肉化していない。実にどの作品に対してもクールに等距離を保っている。 だから、聞きつづけていても、魅力が深まっていかないし、これこそがジュディ・オングという存在の核にあるものなのだと、はっとするところがない。 実際、彼女の歌以外の活動を見ると、典型的な華僑的国際人って感じで「女の魔性」ってのとは違うものなあ。 子役から活動しながら、歌手としても女優としてもこれといった光のあたることのなかった三十路手前のジュディ・オングの、いちかばちかの背水の陣――それが「魅せられて」であり、だからこそあの過剰なパフォーマンスに水際立った美しさがあり、見る者の心を打ったのだと思うけども、結局今度はその「魅せられて」に縛られてしまったのだろうな。 それもこれも「魅せられて」が、あまりにも傑作過ぎるのだから、仕方ない。 ジュディだけでなく、阿木燿子も筒美京平も、「魅せられて」を超える作品、どれだけその後生みだしたかとなるとなかなか難しいものね。 ――って、収録楽曲のこと何にも語ってない。 とはいえ、なんだかんだありつつも小手先でぐちゃぐちゃせずに、目指せ「魅せられて」で思いっきりフルスイングで勝負した楽曲のほうが私が好きです。 「エスメラルダ」「ひとひらの雪」「セゾン・ド・ラムール」「愛の堕落」「上海椿姫」とかね。 「魅せられて」の逆転満塁サヨナラ場外ホームランほどの威力はないんですけれども、やっぱりジュディに歌わせるとなるとここになるよなぁ。 このあたりのハンドリングって難しいものです。決して下手な歌手じゃないんだけれどもなあ。 (記・09.01.23)
いきなり個人的な思い出で恐縮だけれども、このアルバム、ソニーが一枚1500円という破格でLP作品をCDに復刻する「CD選書」シリーズの第一弾として91年に再発売されたもののひとつで、その第一弾のなかには久保田早紀「夢がたり」もあったのね。そういえば「異邦人」いい曲だよね、と、ふらりと手にとって聴いたこの「夢がたり」がもう大傑作。あまりもの完成度の高さに驚き、同時期の「異邦人」と同系統のヒット曲っていえば「魅せられて」だよな、とばかりに当時中学生のわたしはこの「白の幻想」に食指をのばしたわけですよ。 印象的なインストゥルメンタルから、朝の目覚めのような気だるい「白の幻想」という導入部、そしておもむろにいきなりクライマックス、華麗なる超名曲「魅せられて」と、ここまでのくだりは「夢がたり」とまったく同じ。うおお。これもやっぱり当たりアルバムか!? とおもいきや、一転ブラスが歌謡チックに咆哮する「ミコノスの謎」でわたしゃずっこけた。 うん、結局、「歌謡曲」なんだよね、このアルバム。「エーゲ海」の部分はあくまでちょっと観光してきましたレベルというか。同時期の筒美京平が担当していたアダルト向けフェミニン歌謡――梓みちよ「リラックス」とか、岩崎宏美「10カラットダイアモンド」とか、のラインに「エキゾチック」要素をスパイスとして使いましたって感じ。 「魅せられて」のごとく圧倒される世界に満たされてはいなくって、わたしゃ萎えたよ、萎えましたね、ええ。シングルでは「魅せられて」〜「惑いの午後」〜「麗華の夢」で三部作と言っていいほどかっちりとした世界を作り出していたのに、アルバム作りはあんまり本気じゃなかったのね。 ラストを飾る三島風「少年と海」から、ボサの「白い風」の流れに、派手さはないが夏の黄昏の海のような素朴な抒情を感じさせて手堅い良さがあるけれども(――下手に派手モノを入れるくらいならこのラインで統一してほしかった)、「ミコノスの謎」「オリンボス・ハネムーン」「クレタ島の夜明け」あたりは70年代後半の筒美歌謡の世界で、ソレ風を求めると厳しいかと。阿木の歌詞も珍しく咀嚼が足りなく、どこか観光パンフレット風。ジュディのナレーションによる「ギリシャにて」なんて、かなり赤面モノ。 手を変え品を変えの職業作家の筒美・阿木コンビに歌手としての自意識の希薄なジュディと、エスニックを追求しつづけた久保田早紀だと、思い入れの深さの時点で、ま、違うよなあ。「魅せられて」が大傑作なのは間違いないけれども、このアルバムに関しては、中山美穂「エキゾチック」(86年)、河合奈保子「さよなら物語」(84年)など、その後にリリースされた筒美京平作曲の世界旅情テーマの傑作アルバムの習作という位置づけではないかな、と。 可能性を秘めながらも、結局ジュディのエキゾ路線は「麗華の夢」までの三部作でいったん終了。再びソニーからは演歌・歌謡曲系の作品をリリースすることになるのだが、それが一転するのが、85年の東芝EMIへの移籍。移籍後初のオリジナルアルバム「うたかたの夢」は、ジュディのエキゾ路線の決定版的な作品といっていいかと。「魅せられて」風を求める人は、ソニーでなく、むしろEMIの作品をチェックした方がいいかもよ、とアドバイスしておしまい。 (記・10.10.23)
んで、そんな彼女のアルバムで一枚選ぶとしたら、コレ。90年発表で、彼女のアルバムではこれが一番エトランゼポップス色が強いんじゃないかな。「桃色吐息」や「はがゆい唇」路線が好きなら、まずこのアルバムかな、と。 大津あきら+鈴木キサブローの「For You」コンビでありながら、「AL-MAUJ」と「DESIRE」を混ぜたようなロック衝動の強い明菜異国路線の「ヒ・ラ・ヒ・ラ淫ら」(――ちなみにこれ、明菜の「AL-MAUJ」の原曲のサビと同じで「AL-MAUJ」のキャッチコピーとも同じね)で最初にガツッと掴んで、以降は真夏の南欧あたりを逍遥するような佇まい。恋の終わりを軽くいなすように粋に歌った「しばらくはRainy Day」、猥雑な港町を舞台に苦さを伴った懐かしみを歌った「ノスタルジア again」(――wink「真夏のトレモロ」の工藤崇作曲)、熾火のようにいまだ火照る恋情をダンサブルに歌い上げた「DANCEはひとり」、PWL系なユーロアレンジが今となってはちょっと懐かしいダンスポップスな「時計仕掛けのエモーション」と、しっとりと大人の恋の遊びを描いた曲が並び好印象。みんな大好き歌い上げ系バラードも「TENDERLY」「遠いProphecy」「Every time I feel Your Heart」と、平均点越えてます。 バランスがほどよく統一感があって、ヒット曲は一曲もないけれども、オススメな1枚。ま、コレに限らず84年の「桃色吐息」から92年の「はがゆい唇」までの間の彼女って、シングルヒットは一切なかったけれども、アルバムは総じて出来のいいものが多いので、是非。 このアルバム以外だと87年の「Bluesette」(――「ジョニーへの伝言」とか「5番街のマリーへ」あたりの路線が好きならコレ)、86年の「FOREST」(――久石譲が半分アレンジで、打ち込みサウンドが面白い)あたりもいいかと。質もいいけど、売上も常に五万枚前後の安定した結果を出していたり、と、ちゃっかりアルバムアーティストだったりするんだよね。 (記・10.08.12)
全体は物語仕立てになっているのだが、没落士族の娘が売られ、らしゃめんとなり、望みなき愛欲の夜を重ね、足抜けするも連れ戻され、私刑され――といった救いもなにもあったものではない。特に云わんとするストーリーはなさげで、つまり親父のエロ妄想。タイトルからしてアレげな「しばられて」なんて、加藤和彦の手によるファンキーなディスコビートに、鞭の鳴る音と「ああん」と悶える鰐淵晴子の声が二分半延々と続くだけという、もうお好きな方にはたまらない、そうでない方にはうんざりする一曲に仕上がっている。 とどのつまり、このアルバムって「ハプスブルク家の末裔の鰐淵晴子をらしゃめんにしちまおうぜ」という白人コンプレックスのおっさんのいやらしい意趣返しがもともと動機なのだろう。元々女優の鰐淵が歌えていないのはいいとして、全体に漂うおっさんのねっとりした性欲に、げっぷが出る。池玲子や畑中葉子の世界をワンランク上品にした、という親父エロの世界。 その中、タイトル曲「らしゃめん」シングル「黒いらんたん」の二曲が、段違いにいい。ともに加藤和彦の作曲エキゾチック・フォークともいっていいテイスト。 フォークの叙情性はかつてのフォークルっぽくもあり、テーマ的にはミカバンドの「黒船」に近しく、白人コンプレックスを逆手に取った異国情緒は、後の安井かずみとのコンビによる一連のヨーロッパシリーズにも通じている、実に加藤和彦らしい傑作。猥雑な空気が全体に漂うアルバムだが、この二曲だけ、泥沼に咲く蓮の花のように、白く浄化されている。 この二曲と、当時の彼女のダンナ、タッド若松の手によるジャケットやインナー写真の、妖気ただよう彼女の姿だけのためのアルバムかと。コンセプトとしていい所ついてるんだけれどもな。加藤・若松両氏を除いて、男の性欲だけで埋まっちゃった感がもったいない。 (記・10.09.27)
◆ 和田アキ子「もっと自由に 〜Set Me Free〜」 (75.05.30/ランクインせず) まだまっとうな歌手だった頃の和田アキ子のシングル。作詞・阿木燿子、作曲・宇崎竜童。ダウンタウン・ブギウギ・バンド「スモーキン・ブギ」のヒットがこの年の春、続けての「港のヨーコヨコハマヨコスカ」の大ヒットが、このシングルの発売直後――ってわけで、今もっとも旬なロックアーティストに曲を書いてもらおうという趣向だったのかな。初期のDTBWBは作詞=阿木と定着していなかったので(――初ヒットの「スモーキン・ブギ」は新井武士作詞)、阿木・宇崎ゴールデンコンビとしても超初期。この流れがホリプロ後輩の山口百恵とのコラボに繋がっていくのだろうけれどもそれはまた別の話。 90年代末に宇多田ヒカルやMisiaなどがデビューした頃、「和製R&Bの元祖といえば私」と和田自身よく語ってはいたが、その証明になるようなブラックテイスト漂う佳曲。オリコン100位以内にランクインはしなかったもののこの年の紅白歌合戦で歌唱している。ちょっとリズムに後ノリ気味ながらもそれが独特のグルーブ感となる歌唱も、肩を怒らせて客席を挑発するような歌唱スタイルも、決めの咆哮も、実に黒っぽい。一節泣きの入る「Set me free」なんかも絶妙。 詞は自由を求め男と別れる女という設定なのだけれども「私をいかせてほしい」なんて科白にエロチックなダブルミーニングが漂うあたりはさすが阿木燿子。ずとんとしていかついけれども、ちゃんと和田アキ子を「女」として扱っているのだ。だから迫力満点なのに、きちんと色っぽい。 さながらアマゾネスの求愛といった佇まいで、こういった詞を書ける人はおそらく当時阿木燿子しかいなかったんじゃないかな。「男に愛されやすい可愛い女」しかなかった歌謡界に女性の実存を初めて持ち込んだのは、阿木燿子だと私は思う。ありていではなく、きちんと体臭漂うリアルな女性像があるのだ。阿木の作詞家デビューとユーミンのブレイク、中島みゆきの登場がほぼ同時期でこの75年前後、この3名の登場でがらっと変わったなという印象をもつ。 閑話休題。ともあれこのリアルな筆致が、和田のような、男性からみていささか規格外なパーソナリティーを持つ女性歌手にはベタはまりだったようで、半年後には同じく歌手としては低迷し三枚目のテレビタレントでくすぶっていた研ナオコに「愚図」を提供、こちらは初のヒットとなり、研はここで歌手としての自分を掴む。和田アキ子の歌手としての不幸をひとつあげるとすれば、このシングルが売れなかったこと、ってのもあるんじゃないかな。どうやればその歌手が輝くか、という直感力に関しては敵う者のなかったこの時期の阿木・宇崎コンビをして「いいおんな」になりかわっても尚、大衆に受け入れられず、結果、大味なおっさんシンガーの道へと駒を進めることになるわけだから。 (記・10.10.10)
◆ 小柳ルミ子 「蛍火」 (80.07.05/第96位/0.5万枚) もいっこ、更に古めの認知度の低いシングル。80年7月発売。作詞は門谷憲二、作曲は出門英。いわゆる80年代以降の小柳ルミ子の世界がいよいよ露わになったシングルといっていいかもしれない。 全体的なつくりは久々にスマッシュヒットとなった前作「来夢来人」を更に発展的に踏み込んだといっていいかな。前作同様、和風テイストを保ちながらもディスコテイストを軽く盛り込んでサウンド面も強化。雰囲気としては前作が桜吹雪の中をいく汽車のイメージだったので、今回は夏の夜の水辺の蛍の乱舞のイメージ。 「――何千何万の蛍の海があなたの魂を迎えに行きます――」 一方歌詞は、「来夢来人」では「見た目は大人だけどもまだまだ心は未熟なの」と、「わたしの城下町」や「瀬戸の花嫁」などのかつての清純派少女歌謡路線を引きずっていたものの、今回は「蛍」という言葉が象徴するように死と愛欲の気配が漂って妖しく、サビもびしりと「あなたに抱かれます」と言い切り、堂々の和風エロス。 後の中森明菜「二人静」「月華」などに通じる、妖艶に和を描きつつも演歌ではなくポップスに踏みとどまった一曲で、意外とこういった曲ってありそうでないんだよね。 これを中森明菜「AL-MAUJ」やジュディ・オング「魅せられて」もかくやの豪華コスプレ衣装を華麗に身にまとって、優雅にダンスしながらテレビ歌唱に臨んだ。こういった演出もそれまで清純派を売りにしていた彼女にとってははじめて。 曲・歌唱・ダンス・衣装、全てのベクトルは妖艶なる女性美へと向かっている。金鳥のCFやら映画「白蛇抄」やら「愛のセレブレーション」やら、80年代の毎年の紅白歌合戦で見られた絢爛ダンスショーやら、その後の小柳ルミ子のカードがここでようやく全て揃ったのかな。と。リリース時にはいたってフツーの衣装で歌っていた「来夢来人」もこの年の年末の紅白歌合戦では、「魅せられて」金色バージョン的な豪華な衣装を着て披露している。 ただ、レコードをつぶさに購入するファン的にはどうやら清純派に留まってもらいたかったようで、低迷をしながらもなんとかオリコンウィークリーベスト100に毎回登場していた彼女のシングルが、この曲を最後にしばらく途切れることになる。 その後は83年にカラオケ需要を狙い撃ちした盛り場歌謡「お久しぶりね」がヒット、超がつく泥臭ドメスティク歌謡になぜか小柳は華麗なダンスをプラス、いい女を通り過ぎて「面白艶っぽい」シュールでヘンテコなルミ子最終形態へとついに進化してしまうわけだけれども、まあ、本人が幸せそうだから、いいんだろうな。 (記・10.10.17)
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