◆ 中島みゆき 「孤独の肖像」 ◆ 中島みゆき 「あたいの夏休み」 ◆ 中島みゆき 「やまねこ」 ◆ 杏子 「Naked Eyes」 ◆ 越美晴 「ゴールデン☆ベスト」 ◆ コシミハル「覗き窓」 ◆ 尾崎亜美 「10番目のミュー」 ◆ 尾崎亜美 「POINTS 2」 ◆ 尾崎亜美 「Kids」 ◆ 泰葉 「Transit」 ◆ 麗美 「ゴールデン☆ベスト」 ◆ 飯島真理 「ROSE」 ◆ 伊東真由美 「美人声」 ◆ 坪倉唯子 「Loving You」 ◆ クミコ 「愛しかないとき」 ◆ 東京エスムジカ 「World Scratch」 ◆ 坂本美雨 「Dawn Pink」 ◆ 大野愛果 「Secret Garden」 ◆ Singer Songer 「初花凛々」 ◆ Cocco 「音速パンチ」 ◆ IL VENTO E LE ROSE O.S.T (書上奈朋子) ◆ 志方あきこ 「Harmonia」 ◆ 障子久美 ゴールデン☆ベスト ◆ ゆいこ「地平線上の遠い鐘」 ◆ 高橋鮎生+太田裕美「Red Moon」 ◆ 門あさ美 「ベラドンナ」 ◆ 渡辺美里 「My Revolution」 ◆ 八神純子「サマー・イン・サマー」 ◆ 中島みゆき 「孤独の肖像」 (85.09.18/第6位/7.1万枚) 85年9月発売のシングル。二ヵ月後に発売のアルバム「miss.M」の先行シングルという形でリリースされた。 77年の自身はじめてのヒットシングル「わかれうた」以来、このシングル発売以前まで、中島みゆきはアルバム制作とシングル制作を殊更に分けていたように思われる。アルバムでは既に毒々しさを強烈にふりまく曲や孤独の暗闇で咆哮するような曲、あるいは透徹した哲学や、壮大な物語を想起させる曲を発表し、彼女の個性を存分に発揮していた一方、シングルは、なるべく大衆的でわかりやすく、酒場の有線から流れてしっとり馴染むような、悪く言えば下世話で「歌謡曲」の典型たるような曲作られていたし、それらがアルバムに含まれることも稀だった。 結果、「わかれうた」以来アルバムからのカットとなった「あした天気になあれ」を除いた全シングルが10万枚を超えるシングルヒットを手にしていたし、なかには「悪女」「誘惑」「ひとり上手」のごとく大ヒットを記録したシングルも生まれた。80年代前半までの中島みゆきは、アルバムアーティストでもあったが、シングルアーティストでもあったのだ(――このあたりが、シングルヒットは散発的であったユーミン・陽水との大きな違い)。そうした安定が、このシングルでついに破られる。前年ツアーの「明日を撃て」で、エレキギターを手にしたのをきっかけにはじまった「ご乱心時代」の初めてのシングルでもある。 はじまりは深海の底のような陰鬱な空気が立ち込め、そこから一転激しくサウンドが鳴り始める。アレンジは後藤次利で、彼が当時Fitzbeatからリリースしていたソロアルバムのテイストに近い、工場の大型機械がガチャガチャと鳴り響くようなバキバキのインダストリアルサウンド。 「Lonely Face 愛なんてどこにもないと思えば気楽 Lonely Face はじめからないものはつかまえられないわ」 そのサウンドをバックに感情を叩きつけるように荒々しく中島みゆきは歌う。どこか甘さややさしさの漂っていたこれまでのシングルとは一線を画している。 特異なのが曲の構成で「Aメロ・Bメロ・サビ」が1セットになって、それの繰り返しで一番・二番といった歌謡曲のお約束を破壊。特に二番のサビ終わりと思った途端、シームレスではじまるもうひとつのパート「隠してこころの中〜」の部分は、圧巻。杉本和世・中山ミサの力強いコーラスに呼応するように中島は闇から這い上がり、光へと向かっていく。 「悲嘆→激情→光へ」といった感情の起伏をドラマとして構成するといった佇まいで、六分弱という長尺ながら、すべて聴いてはじめて成立する作りになっている。通常の歌謡曲のごとくワンハーフに縮めるといったことを不可能たらしめ、結果それまでのラジオや有線でちらっと聴いただけで成立していたシングルとは、ここにおいても一線を画している。 この曲、実は元々出来上がっていた曲をアルバムコンセプトや当時の方向性を考慮して再構成した曲なのだそうで(――元の曲は「孤独の肖像 1st」として93年のアルバム「時代」に収録された)、これらの試みは後の「夜会」にも繋がるアプローチともいえよう。 既成のルーティーンな枠の中に感情を収めるのではなく、立ち上がった感情にあわせるがごとく自分用の新たな枠組みを作る――それが中島みゆきの世界だとわたしは思うのだが、今作以前の中島みゆきは、シングルにおいては、どこか既製品的なわかりやすさを捨てきれずにいた部分があった。それをここで脱ぎ捨てた。 もちろん今作は最高6位・7.1万枚とブレイク以降では最低の売上記録し、また今作以降、現在に至るまで、シングルのセールスは大型タイアップ曲以外は低迷するようになる中島みゆきだけれども、以前のようにアルバムとシングルが分裂するようなことはなくなっていく。彼女がより彼女らしくあるためには、必要なシングルだったのだろう。 (記・10.10.18) ◆ 中島みゆき 「あたいの夏休み」 (86.06.05/第14位/5.2万枚) 86年6月のシングル。半年後のアルバム「36.5℃」にも収録されている。 多分、舞台は夏の伊豆か清里か軽井沢。平凡な庶民の若い女性の「あたい」が、夏休みに二泊三日で大混雑の避暑地に訪れ、粗雑な観光スポットやら安普請のペンションやら安っぽい土産品などをそれなりに楽しみながら、「今年のあたしは勝ってるわ」とほくそえむ、という、サウンドはせっかくクールに決まっているのに、あまりにもリアルで夢のない一曲に仕上がっている。 ライバル・ユーミンは「ホリデーはアカプルコ」などとバブリーにドリーミーにしゃらくさくなっているっていうのに、こんなもんを夏向け勝負シングルに切る中島みゆきは、ホント、どうかしてる。しかも、ニューヨークのパワーステーションでレコード作っちゃうもんね、キーボードなんて、スティービーワンダーに弾いてもらっちゃったんだから、という一曲なのに。ここまでくると故意犯としか思えない。 「どんだけ着飾っても、どうせあたし北海道の田舎モノだもの。土臭いもん。でもあんただってホントは似たようなものでしょ?」 もしかしたら、そのように中島は聞き手に問い掛けたかったのではなかろうか。 85年のプラザ合意を契機に、日本のバブルの狂騒は始まるわけだが――アルバム「36.5℃」もまさしくそうしたバブル景気を背景にした豪華海外録音アルバムだったともいえる――この曲は、そうしたお祭り騒ぎに対する、自らへのそして周囲への警句だったのかもしれない。 この歌の詞の視点が、うかれる庶民の「あたい」にありながらも、全体の印象としては、どこか引いたような、ドキュメンタリー的な中立のカメラ・アイに感じるあたりも象徴的だ。 (記・10.10.19) ◆ 中島みゆき 「やまねこ」 (86.11.21/第43位/1.6万枚) 甲斐よしひろプロデュースのアルバム「36.5℃」からのカットとなった86年11月シングル。サウンド面ではボニー・タイラーの 「If you were a woman」を下敷きにしている。流行りモノ洋楽を参考にするなんて中島御大には珍しいことだけれども、これは甲斐よしひろの影響なんだろうな。 硝子のように繊細で傷つきやすく、ゆえにどれだけのやさしさで贖われようとも傷つけずにはいられない。誇り高く、美しく、愛したくとも愛しかたを知らず、ふるえ、怯えている、悲しい獣。 いわゆる「森田透」的な――わかるひとにはわかるよね――思春期には誰でも一度ははまる、愛を渇望する中二病的アンチヒロイン像を描くことにおいて、女性では他の追随を赦さなかった当時の中島みゆきの決定版的一曲。尾崎の「卒業」と双璧なんじゃなかろうか? 剥き出しのナイフのように中島は鋭く尖っている。 冷静に考えれば「嵐あけの如月の壁の割れた産室で、生まれ落ちて最初に聞いた声は落胆の溜息だった」とか、ありえない壮絶なドラマ性も、そういうジャンルなのだからと、少女漫画やJUNE小説を読むように「可哀想な自分」の悲劇に酔うのが、一番健全な楽しみ方かと。 この過剰で装飾的な虚構性あってこそ、中島はメジャーたりえたのだろうな、と、しみじみ。このあたりがマイナーフィールドの歌姫にとどまった山崎ハコや浅川マキなどとの大きな違い。 本当は全然不良なんかじゃなかったけれども、心の中では不良だった――そんな世の中の大半の人たちに、中島の歌はフィットするのだろうな。もちろん、わたしもそのうちのひとり。 「どんなにやさしくされてもわたしは手なづけられないわよ」なんて、いかにもチャイルディッシュな粋がりに共感するにはおっさんになりすぎたわたしも、10代の頃はフェイバリットソングでしたよ、ええ。 (記・10.10.20)
バービーボーイズのセクシー姐御、杏子のファーストソロアルバム。92年11月発売。銀座じゅわいおくちゅーるマキのCFソングとして大量投下された先行シングル「DISTANCIA 〜この胸の約束〜」(作曲/玉置浩二)は意外にも高橋真梨子風の異国情緒路線だったもののアルバムは割りとバービーの路線の延長。作詞は杏子本人で、曲は川上シゲ、大沢誉志幸、大平太一などなどが担当。 バカスカのロックビートに載せて、ED気味の恋人に「言葉より硬いアソコを突き刺して」(「夜の非常識」)と、アジってみたり、エロティックなきわどさを全面にふりまきながら、いろいろあったりなかったりの大人の女の本音大胆曝露、という、これってわりと後の大黒摩季路線に近かったりもして。とはいえもちろんただ過激なだけでなく、その裏側にある孤独の影が漂い、それでいて重すぎにならないのが杏子の良さ。まぁ、いろいろあるやね、生きてると。と、口笛吹いている身軽さがあるのだ。 事故死した友人を悼んだ「彼女の事故(アクシデント)」にしても、情に水浸しにならずに乾いた質感。不倫を歌った「二番目に愛されて」にしても、眼差しは相手ではなく内へと向かっていく。「スペアの男だっているのよ」と破局間近の恋人相手に強がりを重ね、重ねるほどに滲み出る哀しみがいい「なし崩しの週末」、言葉遊びの面白い「ビデオと不眠症とPOSY RING」あたりも良作で、ラストを飾る「Down town Christmas」も華やかな年末の雑踏を少し粋にひとり歩きする姿がよくって傑作。ジャケットやインナーのアラーキーの写真もいい感じだよね。 三十路女性ロッカーの実存の滲み出る良盤。手に職つけてひとりで生きてる女性にはリアルに響くアルバムでは。次のアルバム「別天地」もいいんだよね。 (記・10.09.28) 越美晴時代の音源は一度も聞いたことがなかったのだけれども、はぁ、こういうコトなさっていたのですか。 ほとんどの作品が自作だけれども、以後の路線とここまで違うというのも、なんだか凄い。全然テクノでも耽美でもないやんっっ。そもそも声が違うしっっ。 第一印象としては、矢野誠とコンビを組んでいた頃の矢野顕子。ヨーロッパ路線を敷く前の大貫妙子。 つまりのフュージョン色の強いシティポップス。初期の矢野や大貫と比べると、歌謡色が強いかな。 とはいえ、コシミハルを愛している人種からすると非常に愛しにくい一枚。まぁ、別人だと思えばいいんだろうけれどもね。 アーティストには、色んな履歴を持つ方がいるものです。 とはいえ、この音楽性でNHK「レッツゴーヤング」のサンデーズの一員っていうのもちょっと異端な感じがあるかも。 当時の彼女、居場所のなかったろうなぁ。そんな試行錯誤の青春の蹉跌の一枚ですな。 てわけで、これからちょっと口直しに「父とピストル」聞いてきます。 (記・06.11.10)
乙女は誰しも一度は耽美の森の迷い人になる。けれども、彼女らのほとんどが、いつしかその迷路から抜け出し日常へと回帰していく。耽美は少女が大人になるためのちょっとした通過儀礼なのだ。 久々にコシミハルを聞いた。彼女は、15年前にまだ私が10代だった頃にはじめて聞いた彼女となにひとつ変わらず、耽美の徒であった。 そのあいだに私は自らが耽美たることはすっかり諦めてしまっていたのに、彼女はそのままであった。その事がとても嬉しく、少しばかり切ない。 「夜の雫に濡れた唇 薔薇の蕾で包んでおくれ」 こんな言葉に陶酔できるほどわたしはもう純粋ではない。 彼女はこれからもずっとそこにいるだろう。そして私はどんどん彼女の場所から遠去かっていくだろう。 それでもわたしはほんの少しの甘い痛みとともに時折振り返り、彼女を確かめる。変わりゆくことの残酷さと救いをかみ締めながら。 (記・08.08.31)
これは大ヒット曲「天使のウインク」をコンセプトの中心に据えたアルバムといっていいかな。 おっちょこちょいで出来損ないの10番目の女神が地球に舞い降り小さな悪戯と愛を世界中に振りまいていく、そんなストーリーが見えてくるよう。 一曲目「小さな神話」は彼女の本来の住まいである天界の歌、続いて「天使のウインク」で静かに下界に舞い降りていって、「Drago Ride」では中国の深山で竜に乗ってひと暴れ、最期はしっぽにふり飛ばされ辿りついたは揚子江の河口近い上海湾、ということで「上海湾物語」、 さらに「あまのじゃくにきをつけて」では天邪鬼と戯れ、「笛の聞こえた夜」では日本の古の物の怪たちの百鬼夜行に参加する。 ――と、縦横無尽に駆け巡りなから、最後は「ここが楽園」〜「鐘を鳴らして」で「今いるその場所こそがあなたの楽園なんですよ」と回答を提示。このあたりは実にユーミンの「天国のドア」的。綺麗にまとめております。 可愛くって楽しくってわくわくする一枚。傑作。 ベルカント唱法に和太鼓がぼこぼこいっているびっくり楽曲「Drago Ride」は聞くべき。こんな歌も作るのね、尾崎亜美さん。 (記・08.03.24)
自身名義の作品での大ヒットはシングル・アルバムともにあまり多くはないが、提供曲でのヒット曲のなんて多いこと。 「POINT 2」はそんな提供曲のセルフカバーアルバム。86年の春発売。 収録曲は、松田聖子の「ボーイの季節」「夏の幻影」をはじめ、河合奈保子「微風のメロディー」、松本伊代「時に愛は」「恋のKNOW-HOW」、岡田有希子「Summer Beach」などアイドルに提供した有名どころがずらりと並んでいる。 海外の新聞風のジャケットにF1レーサー、王女様、田舎の女子高生、割烹着姿のおっかさんと七変化しているのが面白い。そういう芸の細かい部分が音源でも光っている。 アカペラでの歌唱にこんなにいい曲だったのかと思わず驚く「曇りのち晴れ」にはじまり、全篇英語詞でハードロックで攻めたの「恋のKnow How」、ひたひたと寄せる波のような美しいアレンジの「夏の幻影」、意外にも甘さの中にシャープさが出ている「微風のメロディー」など、原曲だとちょっと退屈に聞こえるようなものも見事にリアレンジして、実にいい感じなのだ。 これで編曲もすべて尾崎本人の手によるものというのだから、まいってしまう。 んてもって、尾崎さん、アイドルだと松本伊代との相性がいちばんいいのね。あらゆるアーティストの中で一番曲提供をしているだけあって、伊代には直球でも変化球でも、与えてしまう感じ。 80年代のアイドルシーンを語る上でおさえておきたい一枚、かと。 (記・08.03.22)
スリリングな「Come on Mamy」ではじまったら、ドリーミーな「そばかすうさぎ」でぴょんぴょんはねる。 後半「お待たせKids News」からの怒涛の展開が圧巻。ラストは「Kids」、「大人になった今も なくしたくない わたしの心の Kids」と綺麗にクロージング。この時期の尾崎さん、ノリノリですな。 (記・08.12.18)
いわゆる八神純子、渡辺真知子、庄野真代、大橋純子のラインといえばわかりやすいか、70年代末期に流行ったテレビ向けニューミュージックの歌姫たちの世界。A.O.R系の瀟洒なサウンドで、20代前半の都会暮らしの女性の日常を私小説的に描く、といった感じ。 泰葉のボーカルは、舌っ足らずで年齢よりも幼い印象があるけれども、しかしそれがきにならないほどにパワフルでどの曲もぐいぐい聞かせる。とにかく陽性でハイエナジーなのだ。 シングル「フライデイ〜」はもとより、スローからアップテンポにシフトチェンジするのが心地いい「ミッドナイト・トレイン」、サンバの「Love Magic」、ロック的なアプローチを見せる「モーニング・デート」など、とにかく明るい。しかも「Bye Bye Lover」の超絶スキャットで爆発したと思ったら、ジャジーな「空中ブランコ」で繊細にゆらいだり、と、ボーカル・作曲ともに表現力の振幅が激しい。ゆったりとスイングする「アリスのレストラン」もなかなか。 というわけで、デビュー盤にして完成度の高い佳作なのだが、81年という時代は、80年代ポップスの怪獣・松田聖子がデビューして、日本ポップス界のベクトルを一気に変革して後、という頃。聖子の登場によって、八神・真知子・庄野など、先行していた彼女らがシングルアーティストとしての命脈を絶たれるのに、泰葉がその影響を受けないわけもなく、デビュー以来さしたるヒットをモノにすることなく、低迷。バラエティータレントとしての活路を見出したりと、色々あったが、88年に春風亭小朝と結婚し、芸能界引退。このまま静かに暮らしていくかと思ったら、以下は皆さんご存知のとおり。 つまりここでわたしが云いたいのは、早く彼女を病院に連れていってあげなさいよ。ということなのである。彼女はひとまずまっとうな歌手では、あったのだから。悪趣味な見世物小屋も、楽しい人にとっては楽しいんだろうがね、心の病んでしまった人を嘲笑っているようで私は気分が良くない。 ちなみにこのアルバム、井上鑑編曲作品は彼の当時のバンドのパラシュートサウンドど真ん中。彼のソロアルバム「予言者の夢」が好きな御仁は楽しめるのでは。 (記・08.11.08)
マージャンで言う「来ると思った牌がぴたりとやってくる」状態が80年代中頃のユーミン。LPの売上は出すごとに右肩上がりで成長するし、「ビジュアライブ」と標榜した自身のコンサートも開催するたびに話題となったし、「パールピアス」以来のいわゆるF1層ターゲット戦略もどんはまり、松田聖子、薬師丸ひろ子、原田知世と言ったアイドル勢に楽曲提供を行い、それぞれが大ヒットもした。 とかく派手派手しい活動であったけれども、それらは決して虚ろには映らなかった。それを支えるに充分なクオリティーを持つ作品を彼女は次々とドロップしていたのだから。とにかくこの時期のユーミンは、濃いのだ。 売上はもう少しあとのバブル期に爆発的に飛躍するけれども、作品クオリティーや勢いを総合的に見ると、ここが彼女の黄金時代だったんだろうな。 そんなユーミン黄金時代を象徴した麗美のベスト盤。才気ばしっております。本気汁でまくりで、がっちりかっちり作りこんでおります。「ノーサイド」「残暑」「霧雨で見えない」など、実際セルフカバーした楽曲もてんこもりだぞ。 ただまあここまでユーミン謹製になってしまうと、麗美がこれらの歌を歌う意義というのがよくわからないというのもあったりして、まぁ、この時期こそセールス的には成功したものの後には低迷してしまう麗美を思うとほんの少し可愛そうな感じもする。とはいえ、名曲だらけであることは確実。 全盛期のユーミンのソングライティングが好きな方で、麗美の「外人が無理して日本語歌ってます」的な舌ッ足らず唱法が気にならなければ、是非。 とにかく「星のクライマー」と「Time Traveler」が名曲過ぎる。「Time〜」は「reincarnation」系のSF+恋愛テーマのアッパーチューンで盛り上がること必至。「星の〜」は植村直巳をテーマにした壮大な、これは祈り歌だね、「ボイジャー」の系譜。後にユーミンがセルフカバーしたけれども、絶対アレンジはこちらの方が正解でしょ。 (記・08.06.21)
しかしミンメイ、可愛い声だな、おい。ロリータボイスとテクノポップの相性が抜群なのは、伊藤つかさや安田成美、宍戸留美などなどで既に証明ずみ。 ってわけで、これはもう外しのない磐石な一枚。萌えます。乙女が過剰すぎて「これはやりすぎだろ」と、思わず声を荒げてしまうところも各所に散らばっているけれどもね。 このミルキーな――アイドル声優声そのものな歌声と、「まりン」とか「おでこにKISS」とか、タイトルだけで、もうなんだかフリフリでブリブリの少女趣味な言語感覚、 そこに玄人じみたメロディー、コードのセンス、このアンバランスが飯島真理の魅力。 それは、いわゆるアイドルと声優とアーティストをごたまぜにしたような中庸路線なわけだけれども、 この路線を本人はブレイク早々拒否。事務所とレコ社移籍、さらに渡米、と連打をかけてしまう。 サーモンピンクの衣装着ながら、教授や吉田美奈子のプロデュースを受ける、それでいいではないか、と。 このアルバムを聴くにビクターの敷いた路線はおよそ、正解だったと思うんだけれどもなぁ。 彼女の存在は、当時で言うなら、河合奈保子あたりの裏面として、充分機能しうるポテンシャルはあったと思う。 若い子ってのはいつの時代でも無鉄砲であつかいに難しいものです。 (記・06.2.16)
ただ、調べると女優仕事なんかもしていたみたいで、謎。現在の芸能活動も謎。 とはいえこのアルバムに関しては、意外な好盤。 テーマは、都会に住む独身女性のシュールレアリズムだな、これ。 ブランド品とか意味もなく転がってる生活感のない1DKの板張りの床の片隅にふわふわと幻影が浮かんでいる、という感じ。 ありきたりの現実ようでいて、どうも別世界のようでもあり、という不思議な浮遊感。 「ドラキュラ感覚」とか「電車の中に咲く花」といったあたりが、彼女の独特の感覚と見る。 アイリッシュテイストの「月の小舟」、ファンタジックな「この街の夜は……」あたりもなかなか。 孤独で、なんだか満たされていて、ふらふらと人気のない夜の街を散歩している感じ。 ただ「Dear Friend」の大胆なリアレンジはちょっとびっくり。 「Dear Friend」に詞にある単純なポジティビティーは、どうやら彼女の表現したい世界ではないのだな。 詞がわかりやすいぶん、サウンドでひとひねりふたひねりしてある。 声はセクシーでアンニュイでみずみずしい。アルバムタイトルにたがわぬ美人声であった。 (記・07.10.06)
なんかこう、超高層ビルのスカイラウンジで、ワイン燻らせちゃう ? みたいな、メロウでアダルティーで夜の匂いがむんむんな、ある意味なんも変哲ないAORを、 歌うんまいおねぇーちゃんが、時に熱く、時にクールに歌い上げ、って、高橋真梨子となにが違うのか、と。 「貴方がそばにいるだけで世界中の人の飢えを救っている気分になれる」と歌ういかにも稲葉節な「Heaven in my Heart」の桃色妄想っぷりも、 「365日、初めて会った日のように貴方を愛するわ」と歌う、これまたみゆき節な「365の昼と夜」の恋愛偏執狂っぷりも、割とフツーに耳に響いてきます。 とはいえ、どうあがいても高品質なのは、やはりビーイング。つるっと耳に入って、心地いいです。歌上手い人はなに歌ってもいいもんやね。安心できます。 ベストは「Let Your Love Glow」かな。これは土方隆行の80年アルバム『Smash The Glass』からのカバー。 ちなみに、彼女がBBクイーンズを結成し(――というか、させられ)「踊るポンポコリン」をリリースするのは、このアルバムリリースのわずか二週間後のこと、です。 (記・07.01.12)
実際の女性のそれ以上に、くねくねしなしなして、デコラティブに女性性を主張している。 だから日本のシャンソンは、いまいち、浸透しない。そんな問答無用に、女の情念でドロドロされても、ねぇ、と、一般の人はひく。 で、クミコ。 この人のいいところは、シャンソンなのに、おかまっぽくない。女性性が過剰でないところにある、と思う。 愛をねっちり歌ってもさほどドロドロしない。ほどほどの情感でおさえている。 クミコの歌う女性は「手におえない」という印象はない。 シャンソン好きの人からしたら、物足りないのだろうけれども、それをトゥーマッチと思っている多くのリスナーには、ちょうどいい匙かげんなんじゃないかな、とわたしは思う。 クミコのシャンソンは「おかぁさんのシャンソン」という雰囲気なのだ。 松本隆、鈴木慶一、筒美京平、あがた森魚、細野晴臣、平井夏美、久世光彦、谷川賢作、かしぶち哲郎、萩田光雄、サンプラザ中野……、と、彼女の作品に男性作家――それも豪華作家陣、が集まる秘密は、そこなんじゃないかな。 彼女の歌声には、男性の求める「母性」がある。 女性から見れば、それはちょっとうそ臭い母性なのだけれども(――母性の裏面は表現されていないからね)、でも、まあ、いいじゃないの。男はみんなそんなもの。わたしだって、子守唄を聴くように癒されます。 このアルバムも「太田裕美のシャンソンバージョン」という感じで、手堅いです。こりゃ、松本隆さん、気に入るはずだわ。 (記・06.06.27)
世界各地に散らばる音楽をミックスさせ、もうひとつの、新たな時代の民族音楽を、世界中の人々に響く、「民族主義を超越した民族音楽」を、この民族意識の漂白しきった国は日本、街は東京から発信する。 「東京エスムジカ」のコンセプトは、ま、こんなものなんじゃないかな。いわゆる80年代的、ポストモダン的なコンセプト、わたし嫌いじゃないです。YMOのファンだし。 ただ、こういう路線の、民族音楽&クラッシックサンプリング系ポップスって、結果、どれもこれもアニメ音楽っぽくなるのな。アニメ音楽っつっても、深夜にやったり、OVAとかになったりするヤングアダルト向けアニメの主題歌的っつーか。 ZABADAKとか、新居昭乃とか、遊佐未森とか、木屋響子とか、(一部の楽曲の)谷山浩子とか、エキセントリックオペラ(書上奈朋子)とか、ね。 それだけ日本のアニメってのは、ポストモダンで、ポスト歴史時代的な表現で、世界規模で現代的で普遍性のある、世界に誇る文化なのかな、とおもったりする(――けど、わたしはアニメを見ない)。 この手のアーティストは、上手くアニメオタク層を取り込めば、結構地味ながらも磐石の活動ができるものなので、東京エスムジカ(――のスタッフ)は早くアニメ仕事をブッキングした方が吉か、と。てか、それを百も承知で、アニメ音楽に力入れているビクター所属なんだよね。そうだよね。 あ、そうそう、今の東京エスムジカは詞が弱いね。なんかそれっぽい言葉の羅列という感じで、音源と比べると、ちょっと素人くさい。 もっとうそ臭いほど壮大で、浪漫あふれるドラマチックな詞が――それこそいにしえの吟遊詩人の歌うサガのような、そういう詞のほうが、いいと思う。今度の詞は、外注だな。うん。 (記・06.06.17)
泣く子も黙る大御所・坂本龍一もやはり人の親なんですなぁ。 「娘のため」と、趣味じゃないV系アーティストと一緒に苦笑いしながらレコーディングしている坂本教授のお姿がもう、銀盤から見えてくるよう。 「awakening」のコーダのギターソロなんて、V系特有の保守的な湿った美意識がびんびん。これ、教授は嫌だったろうなぁ……。 と、は、い、え。そんなSUGIZOの参加が、実は、このアルバムの坂本龍一のオーバープロデュースを一定の地点でとどめ、「坂本龍一のボーカルアルバム」でなく「坂本美雨」の作品たらしめている、というこの不思議。 綺麗に掃き清められた日本庭園のごとく冷徹な美意識を感じる坂本必殺のオーケストレーションが涙腺直撃の「Child of Snow」や、アッコちゃんのヒューマンソング「ひとつだけ」、「色彩都市」を髣髴とさせる大貫作詞「I’ll believe the look in your eyes」など、 教授の目論見としては大貫妙子・矢野顕子を21世紀的に再構築したクリスタルボイスの癒し系路線ってことで、まぁこのあたりは磐石なんだけれども、聞く前から計算できるというか、ををっっ、という驚きは欠けるわけで。 逆にそうでないSUGIZO参加作品「etarnal」「internal」などのほうが、なんというか、へんてこな部分があって、面白いです(笑)。 こっちのほうが、追求していく意味がありそう。 以後も、「彼と彼女のソネット」や「ネバーエンディングストーリー」をカバーしたりと、大貫妙子・矢野顕子的な「オーガニックでスローライフで癒しで、平明でわかりやすい、いい子な坂本美雨」って顔していますが、ほんとはV系バンギャルなんでしょ、美雨ちゃんっっ。素直になっちゃえよっっ。 わかりやすい「癒し」を歌うと、正味な話、ちょっと退屈なんだよね、彼女。大貫や矢野と比べると悪い意味で透明というか、エグみや毒気がなさ過ぎる。透明でもいいけれども、それは深みのない透明で、無味無臭という感じなんだよね。 ここは本音をさらして、美雨ちゃんにはぜひとも「V系で癒し」という、新たな路線に入って欲しいです。ゴスな衣装で、爆音ギターで、しかし、癒し、みたいな ? ラルクさんあたりがいいかなぁ。あるいはYOSHIKI様とか、あ、黒夢でもいいや。 (記・07.01.12)
ものすご、匿名性。 BGMとして部屋で音量を低めで流すためにある音楽という感じ。まったくもって主張しない、何者をも邪魔しない、しかし間は埋めてくれる、そんな高品質サウンド。 大野の歌唱は、オリジナルアーティストよりさらに低血圧というか、低テンションというか。より意識が漂白されている感じ。だからこれだけ盛りだくさんなのに、全然胃もたれしない。 もうね、なんのために歌っているとか、なんのための音楽とか、そういうこと問い自体が愚問なんだな、と。ビーイングの底知れなさに身震いすら感じる。 これだけのクオリティーを保ちながら「ファンになんなくても別にかまわないですよ」っていう冷めたスタンス、結構好きです。Winkとか好きな方は、いいかも。 (記・07.02.22)
あらかじめ「Coccoが帰ってくる」なんてテキストを挙げて予防線を張っていたわたし。「ふーん、どんなものかね」なんて斜にかまえたフリをして、聞いたのだが…………なんだろう、この目からこぼれてくるあたたかい液体的なものは。 不覚にも、感動してしまった。たかが2、3分で持ってかれてしまった。 ……やばい。やばいよ。ついに、ついに、ついにっっっ。本当にCoccoが帰ってくるっっ。 あのCoccoがひとまわり成長して、長い髪の毛をばっさり切り落として、戻ってくる。 サビの「Hello hello」の連呼がもう心の奥の奥にまで響いてくる。まさしくセカンドバースという感じ。生まれ変わりの朝のように清新。「おかえり」と、心の底からいいたい。 あと、2番のひら歌の「無差別級に祈った 暗い夜も 悲しい朝も 世界のどこかで消えてく」の部分(――もちろん聞きかじりなので、違っているかもしれないが……)もかなりぐっと来た。これはファンでぐっとこない人はいないでしょう。 やだなあ、もう。もう彼女のことは物語にして忘れたつもりでいたのに。結局また飲みこまれてしまいそう。 (記・05.04.23)
本格的な活動再開するのは、それぞれの事情があってのものだし、とやかく言っても意味のないことだからいわない。とはいえ、個人的には、デビューから活動中止までの「Coccoの物語」があまりにも完成度が高すぎて、新生Coccoに関しては、恐る恐る、というのが正直なところ。シンガーソンガーのアルバムも、正直、びみょーだったしね。 サビの「錆びついた手で 明かりをともせ」という部分を、「Cocco、第二章スタートの号令」と解釈してもいいけれども、それでいいんだ、よ、ね。と周りの空気を読もうと視線を泳がせる自分がいる。 3/3のMステのCoccoさんは、昔と変わらない挙動不審なCoccoさんだったけれども……、うーーーん。ともあれ、あのカタカナの詞、あれはなんか椎名林檎っぽな演出過剰で、やめたほうがいいと思う。 (記・06.3.04)
なにが悲しゅうてセレブ芸人のアイドル映画のサントラを買わにゃならんのか。しかもおまけもなし特別装丁でもなしで3600円もするのに。ジャケットはレズいし。 それはね、書上奈朋子ねぇさんのサウンドプロデュースだからさっ。 収録曲の半分が「Psalm」「Baroque」からのリミックスでも買ったさっ。だって餓えてるんだもんっっ。4年強新作聞いてないんだもんっっ。んで、聴いて、やっぱりぞぞ毛あがったさ。 すげーなあ。音のひとしずくに到るまで、完璧なまでの官能の美世界。音で死ぬる、溶ける。この人の作りあげる音楽の快楽中枢への訴えかけっぷりってのは異常すぎる。否応なしに音に犯されてしまうのだ。くっそう、なんでこんなにこの人は天才なんだ。そしてあんまり知られてないんだ(涙)。 特に、19曲目のアンサンブル・プラネタ歌唱の「Kyrie」が圧巻。いい加減アカペラ縛りなしで、この人たちのアルバム聞いてみたいよなぁ。淡々としていて物凄い純愛な「My Everyting」も素敵。本気汁だしまくりでいい仕事しております。しかし、なんでこんな贅沢な音がよりにもよって叶姉妹の映画(哀)。 その昔、山藍紫姫子のSMやおい小説のドラマCDの音楽を岩代太郎が担当していたことをふと思い出したりして。映画「レッドクリフ」の音楽担当が十年前には男性声優があんあん悶えてる作品の劇伴してたんだよなぁ。プロなら仕事選んじゃいかんよね。うん。オファーには全て全力で応える、その姿勢が大事なのかもな、と、妙に感慨深くもなるのでした。 (記・09.04.30)
今回はいつものケルティックなサウンドはもちろん、いままでにないポップできらぎらしい曲や、水面をたゆたうような環境音楽めいた曲も収められている。さらに、ノイジーなギターの主張する同人ゲーム「うみねこのなく頃に」テーマを大幅に改変した「うみねこのなく頃に〜煉獄〜」や「埋火」においては、悪魔的な部分すら垣間見える。清澄で壮大でファンタジックで「いい子」なだけではない様々な表情をもっているのがこれまでと違った大きな特徴といっていいだろう。特に力強さが感じられる。 四つエレンメントを中心としたそれら様々な傾向の楽曲が「調和」というテーマによって大きなうねりを伴いながら連鎖していき、ラスト「調和 〜Harmonia〜」「Harmonia 〜見果てぬ地へ〜」と続く組曲に集約される作りは実に見事といっていい。 テレビゲームやらヤングアダルト向けコミックやらライトノベルやら、いわゆるオタクナイズドされた「それ風」の無国籍・ファンタジックサウンド(――裾ずるずる引きずった西洋・中近東風衣装のキャラクターたちがパーティー組んでRPGする時のBGMのような、そんな感じのね)から半歩先を出て、コミケのスーパー同人作曲家というポジションにとどまらず、メジャーシーンにおいても確固たる地位を築かんとする彼女の野心に溢れた一枚だ。その挑戦はおおむね成功したといっていいだろう。 このアルバムでボーカルもサウンドもひとつ器が大きくなったように感じる。セールスもオリコン最高位15位と大幅に伸びているのがその証左といってもいい。 同人界のカリスマが大きく打って出る時、往々にして旧来のファンから一定の反発があるものだが、それを撥ね退けて更に飛躍する才能を彼女はもっているだろう。次作が楽しみだ。 (記・09.07.30)
「天国のドア」「ラブ・ウォーズ」と日本のポップス界がユーミン一色に染まったバブル絶頂の90年に、ユーミン夫妻の主催する音楽スクール「マイカ・ミュージック・ラボトラリー」出身の《ユーミン秘蔵っ子》として鮮烈デビュー!――したもののいまいちセールスはふるわず、てこ入れでドラマ主題歌に起用「あの頃のように」が20万枚のスマッシュヒットとなったもののあとが続かず――ていう障子久美さんです、っていわれてもやっぱり知らない? でもこれ、意外と聞けるんだよっ。どんな感じなの? ざっくり云えば「暑苦しくない広瀬香美」。ひろせこーみたんが濃口のおたふくソース味だとしたら、障子久美はあっさりだし醤油味。 ブラックコンテンポラリーをベースにしたポップスを、安定した歌唱力でさらりと爽快に薙ぎ倒しております。 個人的にはファンキーな「わかっているわ」「heartache」「Labyrinth」が好き。 彼女の敗因の最大の原因は《ユーミン一派》としてデビューしたことなんじゃないかなあ。 バブル到来直前に90年代型女性向けコンテンポラリーミュージックの雛型を構築したユーミン。その後にブレイクした女性アーティストは、今井美樹、平松愛理、ドリカム、竹内まりや、広瀬香美などなど音楽性の別はあれども、詩の世界に「主役は私」といった独特の押し付けがましい自意識があったとわたしは思うんだよね。 一方で、ユーミン翼下でデビューしたのに、彼女にはそういう部分がどこか希薄なのだ。存在のありようで云うと、どちらかと言えばそれ以前の、中原めいこ、渡辺真知子、八神純子、石川優子、EPO、飯島真理といった70年代末期〜80年代前半デビューのニューミュージックの歌姫に近い印象がある。 ともあれ、ユーミン的世界を期待してこれ持ってこられると、確かにかなり残念な気持ちになるよ。その辺のミスマッチはマーケティング的にかなり損失大きかったと思うぞ。 松任谷正隆プロデュースでなく、吉田美奈子 or 山下達郎 or 角松敏生プロデュースでの彼女が見てみたかったなぁ。サウンド的にもそっちの方が絶対相性よかったと思うし――て今更反省会しても仕方ないのですが。林田健司のように、作曲家としてヒットメーカーのシンガーソングライターって道もあったと思うだけれども、ぶつぶつ……。 ま、でも、この知名度であえてベスト盤に踏み切るというあたりで、制作者サイド的に「ぜひ再評価を!」というのは絶対あるんだろうな。 (記・09.10.03)
多重録音による、隙のまったくない圧倒的なエレクトロニカ・サウンド。それはとてもゴスでファンタジックで、どこかアニメオリエンテッド。書上奈朋子や志方あきこが好きなら是非モノの世界が広がっております。 いわゆるで宅録で、作詞・作曲・編曲・ミックス全部仕上げちゃう、自分で完パケまで出来ちゃう女性アーティストって、わたしはなんか気がついたら好きになってるだけれども、それは制作スタンスが、漫画の同人作家に近いからなんじゃないかなって、このアルバムを聞いてふと感じた。 自分のやりたいだけやりこみ、作りこんでいて、しかもその作りこみの志向性がどこか女オタク的で、結果、そこに漂う壮麗さとか耽美さが、こう、非常に自分の培っているものと似ていて、だからなんか気がつくと好きになってるんだよな。って思うと、みっしりと精緻なサウンドは、どこかCGを駆使してこりまくった同人のカラー表紙のようで、っていったら失礼か。 いわゆるエンヤっぽいボーカルコラージュ(「オリノコ・フロウ」?)が、わかりやすい「RING」が一番一般性がある作品なんだろうけれども、フラジャイルに伸びるボーカルと機械音のようにドカスカなるドラムの不協和なる協和が妖しい「孤球」、ピコピコグネグネするシンセサウンドに「ああ神様 どうか羽根をつけてください」のリフレインが印象的な「守護天使」、「G線上のアリア」のオマージュか、心の奥底にある原罪意識を掻きたてる悲しみと慈愛に満ちた「地平線上のアリア」あたりが私の好きなライン。 (記・09.10.09)
道元の公案を元に作った「月と水」、同和問題がらみで広く歌われることの少なくなった「竹田の子守唄」(――中世日本のoutcaste"burakumin" で伝承された歌ときちんと解説されている)、中国の清代に書かれたある市井に生きた画家の自伝、沈復「浮生六記」を元にした組曲「A Picture of You and I(絵の中の姿)」、様々な哲学者の言葉をコラージュしてトークソングとした「One Step Further」など、どの曲も実にアグレッシブな切り口を見せるのが印象的だ。 わうわうと鳴り響くノイジーなギターに、シタールやブズーキやシタラ、あるいは琴や篠笛が絡みつき、さらにシンセのサウンドエフェクトは幽玄な妖しさを醸し出していく。幻想的で闇の匂いがあり、気配が濃い。安易な「西洋人の夢見るオリエンタリズム」で終わらず、深い陰影があるのがこのアルバムの、そして彼の音楽の特徴だ。 いつもぽつねんと所在なく佇んでいる《デラシネのコスモポリタン》、それが音楽家・高橋鮎生の世界といっていいだろう。彼は世界中のどのような民族性にも根ざすことが出来ない。どれだけその世界に没入しようとしても、異邦人として世界を傍観する場所しか、彼には与えられないのだ。彼のサイケデリックで圧倒的な美意識の漂うエスノミュージックの向こうには、宿命的な孤独がたえず濃い影を落としている。それは彼の複雑すぎる出自や少年期の体験によるのだろうが、ともあれ、絵の中に入りたいと願う画家のように、彼はいつも世界から弾かれているのだ。 しかし今回は、その厳しい孤独をまるで包むように太田裕美の歌唱が全篇フィーチャーされている。これがじつにやさしい。そっと悲しみに寄りそうような彼女の歌声は、まるで慈母の子守唄と響いてくる。 結果、これまでの高橋鮎生のリーダーアルバムにあるような息苦しさ、厳しさ、寒々とした所でぽつりと佇むような所が、ない。救済がある、といったら大袈裟だろうか。わたしは今作が彼の作品の中で一番好きだ。 白眉はクラシックギターと太田裕美のボーカルのみで表現しきった11分にもなる組曲「A Picture of You and I(絵の中の姿)」。 同じ村に暮らす同い年の幼馴染みの男女、そのふたりが大人になり夫婦となり、ともに畑を耕し、ともに老い、連れあいが流行り病に倒れて亡くなるまでを四部構成で淡々と描いている。お菓子を分け合ったことが友達にばれて恥ずかしがる、そんな幼時の瑞々しい恋、それは老いて病に倒れ「次に生まれ変わる時も」と最期の言葉を残してこと切れる瞬間まで続いていく。 詞とサウンドは抑制的で、ゆえにより凄みをまして迫ってくる。さらに続いての「庭の千草」で見せる救済がまたいい。 前近代には当たり前としてありながらも今は失われた絆の強い地縁に根ざした男女の、そして人類の営みの風景として、高橋鮎生は強い憧憬をもってこれを表現している。 (記・09.12.18)
アルバムがベストテン内に定期的にインする程度には売れていたのだけれども、シングルヒットもなく、ライブツアーやメディアへの露出もあまりなく、ソフトフォーカス気味の写真にふんわり写るきれーなおねーさんなご本人の姿もどこか実在感が希薄。サウンドも「ファッション・ミュージック」というキャッチ・コピーがつけられたように、なめらかに洗練されれた音が強い主張もなくアンニュイーにゆるーく流れてゆくのです。 そんな彼女がテクノ・ニューウェーブ化によってさらに進化した85年のアルバム。オリコン最高位は十位。 SF的に近未来ファンタジーであり、ダリのようにデカダンでシュールであり、リゾート感覚もあり、もちろん艶めいてアンニュイでもあり、という不思議な一枚。 南国の海辺のテラスで銀色のアンドロイド相手に緑色のカクテルを飲み干すアンニュイな美女、といった趣か。タッチとしては矢野誠やかしぶち哲郎と組んでいたこの時期の石川セリの作品が一番近いかな。「メビウス」とか「楽園」とか。 全作詞作曲は門あさ美本人で、ビシバシ打ち込みのエキセントリックなアレンジは岩崎工、鷺巣詩郎、白井良明がそれぞれ担当。この時期って意外な人が意外とテクノしてたりするから面白いよなぁ。歌唱も今までと一変、ロリータぎみなウィスパーで迫っとります。ちなみにジャケ写は佐藤奈々子女史。 美しい夢の切れ端のような取りとめのなさがこの作品の妙味。聞いている間はとても魅惑的なのに、聞き終わった後につるりと忘れてしまう所がある。アレ、これって結局なんの歌だったっけ?みたいな。とらえどころがない。 このあと彼女はヤマハを辞めて高橋幸宏の事務所に移って、幸宏プロデュースで二枚アルバムを作って歌手廃業。 (記・10.05.30)
◆ 渡辺美里 「My Revolution」 (86.1.22/第1位/44.5万枚) 歌手・渡辺美里、作詞・川村真澄、作曲・小室哲哉、当時まったくの無名であった三名を一気にスターダムにのし上げたといっても過言ではない86年1月発売の大ヒット曲。ブレイクのきっかけはTBS系ドラマ「セーラー服通り」の主題歌というお決まりのタイアップコースだったりする。 今聞いても一切色褪せない大名曲だね、これは。もう、イントロのコーラスの時点からとんでもない高揚感が漂うのだけれども、その期待は一切裏切られることなくぐんぐんと聞き手の耳は引っ張られていき、そしてサビの圧倒的なカタルシス!! 作詞の川村真澄の普遍的な思春期の光と影を擬アメリカ的な風景に絡ませてひとつの淡い青春ファンタジーとさせる見事な手腕(――って、これ、佐野元春以来の、当時のエピックソニー・小坂洋二プロデュース陣営の特徴なんだけれどもね)、渡辺美里の不器用だけれども一心な歌唱もすばらしいのだけれども、やっぱりこの曲の一番の功労者は作曲の小室哲哉だろうな。 ここにおける彼のメロディーはいうならば清冽かつ豪腕。めくるめく有無を言わさぬ展開にねじ伏せられる、これこそが小室哲哉なのだ。 こういう今で言う中二臭い、青っちい歌作らせると最高に輝くんだよね、彼って。ま、それは多分彼自身の心が子供だから、なんだろうけれども。他の音楽家の作るティーン向けポップスが、大人が子供にあわせて娯楽を提供している、というならば、彼の場合は子供が同じ子供に向かって「一緒に遊ぼうよ」と誘いかけている感じ。カラオケ需要だ高音志向だと90年代の小室プロデュースの成功を分析した人は多かったけれども、そんなんではなく、あれは、ちょっとオタクで友達の少ない、だけどピアノが弾ける中2の男の子が同い年のみんなと友達になったりちやほやされたりしたいだけのために頑張った――そして同じ中二だから中二の気持ちが考えるまでもなくわかってうまくいった、っていうそれだけなんだと私はおもっている。 閑話休題。ともあれ、この時小室哲哉はまぎれもなく天才メロディメーカーだった。 ここから五年くらいの小室哲哉は物凄い打率で美メロをくりだしていき、次の五年でその安っぽい焼き直しでボロボロとミリオンヒットを量産し、それから先は心根を腐らせてまともなものは何もかけなくなってしまう。 多分小室復活のキーワードは、この頃の子供のような(多少の邪気すらも含んだ)清新さと直観力なのだろうが、逮捕後の妙に反省し萎縮しきった彼にはたしてそれは可能なのかと考えると難しい。 (記・10.03.04)
◆ 八神純子「サマー・イン・サマー」 (82.03.05/第28位/10.6万枚) 82年3月、JAL沖縄キャンペーンソングとして発売されたシングル。鶴丸全盛、パイロットとスチュワーデスが高嶺の職業だったなつかしい時代のシングル、ともいえる。八神のJAL関連ではニューヨークキャンペーンソングとして80年に大ヒットした「パープルタウン」以来となる。ちなみにCMのキャンペーンガールは斉藤慶子。 80年代のヤマハ音楽振興会はJALと強いパイプがあったのか、中島みゆき以外のほとんどのアーティストがなんらかのJALキャンペーンソングを歌っている。世良正則とツイストは「LOVE SONG」、石川優子は「シンデレラ・サマー」とチャゲとのデュエットによる「ふたりのアイランド」、チャゲ&飛鳥は「SAILOR MAN」と「LOVE SONG」(――これは90年代だが)、TOM CATも「サマータイムグラフィティー」といった按配。 大ヒット曲もあるそれらと比べるといまいち今となっては印象が薄いこの曲だけれども、それも当たり前。このシングルの発売一ヶ月前、JALは羽田沖墜落事故を起こし、夏の恒例沖縄キャンペーンを一時大幅に自粛しなければならなかった――のだそうだ。盗作騒動に発展した「パープルタウン」といい、どうも八神はJALと相性が悪い。 81年はアルバム制作に頓挫し、またデビュー以来続いたシングルヒットもモノに出来ず、いまいち精彩にかける活動となった八神純子。そこで一転、派手に展開する82年の、その核となるシングルだったのだろうが、一度掴み損ねた幸運の女神というのはなかなかとり戻しにくいものなのだろう。 楽曲は、彼女のいわゆる洋楽志向がどんどん強まっていく時期の一曲といったところ。 熱砂の快美というか、うだるような暑さが何故か心地よさに変わる、そんな音の魔術が散りばめられていて、夏向けキャンペーンらしい仕上がりになっているけれども、八神純子ファンが欲しがるツボとは違った所を押している感じ。八神はカンツォーネ的にありえないほどに伸びるロングトーンで聞き手をいてこましてなんぼだろ、と。クライアント的には合格なんだろうけれども、これじゃダメなんだよう。「八神純子の勝負曲」としては弱すぎるのだ。 でもこれが当時の彼女のやりたい音楽なのだろうことは、以降のアルバム作品を聞けば明らか。このシングル自体は10万枚という、一大キャンペーンソングとしては可もなく不可もなくといった成績を残したものの、彼女の音楽は以降、大衆性を離れどんどんマニアックに、本来の彼女の武器や持ち味とは違う所へと向かっていく。83年にはアメリカデビューし、84年にヤマハから移籍、85年にジョン・スタンレーを自身の音楽プロデューサーに迎え、86年に彼と結婚、87年にアメリカへ移住。これら一連の出来事の前夜の、「ヒットメーカー・八神純子」の最後の(大ヒットとはならなかった)ヒットシングルともいえるだろう。 (記・10.03.03)
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