◆ 藤村美樹 「夢恋人」 ◆ MIE(未唯) 「GOLDEN ☆ BEST」 ◆ 河合奈保子 「愛のコンサート」 ◆ 工藤静香 「はじめの一歩」 ◆ 長山洋子 「オンディーヌ」 ◆ ラ・ム― 「Thanks Giving」 ◆ 西村知美 「ベストナウ」 ◆ 杉浦幸 「花のように」 ◆ 石井明美 「JOY」 ◆ 真璃子 「The Best」 ◆ 高井麻巳子 「BEST」 ◆ 高井麻巳子 「Message」 ◆ 沢田玉恵 「花の精」 ◆ 藤井一子 「初恋進化論」 ◆ 立花理佐 「リサの妖精伝説」 ◆ Rie (畠田理恵) 「ミ・ディオス」 ◆ 田中陽子 「陽炎のエチュード」 ◆ つみきみほ「つみきみほ」 ◆ 小川範子 「魔法のレシピ Self Serection Best」 ◆ 中江有里 「メモワール」 ◆ 高橋理奈 「裸の水」 ◆ YeLLOW Generation 「CAPE DIEM」 ◆ ソニン 「華」 ◆ 飯島愛 「あの娘はハデ好き」 ◆ 山瀬まみ 「親指姫」 ◆ 華原朋美 「涙の続き」 ◆ 堀ちえみ 「クレイジーラブ」 ◆ ランカ・リー(中島愛)「星間飛行」 ◆ 水谷麻里 「春休み」 ◆ 岩崎宏美 「I won’t break your heart」 ◆ 岡田有希子 「くちびるNetwork」 ◆ 児島未散 「ジプシー」 ◆ 原田知世 「逢えるかもしれない」 ◆ 渡辺美奈代 「恋してると、いいね」 ◆ 松田聖子「ガラスの林檎」 ◆ 松田聖子「Precious Heart」 ◆ SAYAKA「DOLL」 ◆ ICONIQ 「Change Myself」 ◆ 戸松遥 「motto☆派手にね!」 ◆ IMALU 「Mashed Potato」 ◆ 渡辺満里奈 「a piece of cake !」 ◆ 原田貴和子 「彼のオートバイ 彼女の島」 ◆ 真鍋ちえみ「不思議・少女」
細野晴臣、高橋幸宏、白井良明などYMO・ムーンライダース系の強力バックアップによるテクノポップアルバムとなっている。 ――が、全体を通しての印象は、わりと散漫。 各曲粒ぞろいなんだけれども、全体を聞いて後の印象はなんだか薄い。 ひとまずやろうと思ったことをアトランダムにつめ込んだという感じ。 音にも詞にもテーマのようなものがいまいち見えない。 このアルバムの魅力をどこに定めるか、もうちょっと練りこむべきだったかな。 とはいえ、そんな批評は意味がない、という気もする。 この一枚を残してふたたび芸能界を去ったところを見るに、 なんとなくこのアルバム自体が甲子園の思い出代打という感がしなくもないからだ。 芸能界でやり残したことをちょっとやってみました、的な。 藤村美樹が四曲も作曲を担当し、それらを高橋幸宏・大村憲司・白井良明らが編曲しているというのも、 まさしく、贅沢な思い出つくりだな、という印象。 そういう視点で見ると、実に羨ましい一枚といえる。 (記・06.10.10)
未唯は、ピンクレディー解散後も、ひとりでピンクレディーやっていたんだなぁ。と、おもわず感慨。 ピンクレディーが、解散せずに活動続けていたら、どんな楽曲に挑戦したか、ピンクの魂は、どのように受け継がれていったか、というのがこのベストでわかる。 増田恵子は、ソロになっていきなり中島みゆきしたり、フレンチポップ歌ったり、そうこうしている間にさっさと女優転向したり、と、ピンクレディー的な部分を封印する方向の活動にシフトしていったのと、非常に対照的。 よりピンクレディー的になった、その行き着く先がアニメタルレディーだったんだなぁ……。 「ハレルヤ・ハリケーン」とか「Love Jail」、「ブレイクモーション」あたりは、 「歌うセクサロイド」というピンクレディーのコンセプトの成長・発展版っという感じ。 それにしても、あまり言及されないけれども、未唯って、歌うまいよね。 ミュージカル的な大袈裟な熱唱スタイルが好悪を分けると思うけれども、楽曲にはまると、これがなかなか痛快。 (記・06.07.10)
だっっさーー。悪いけれども、ダサいよ、奈保子。どこのライターが書いたのか、どうでもよさげなぬるい内容の語りを、一生懸命におぼえて、吐息混じりにシリアスな態で長々と語った後に「それでは一曲聞いてください」という感じでバラードを歌い始める奈保子。ふっるーーーっ。くっさーーーっっ。眩暈を感じるよぅ。これは……ちょっとねぇ……、いくら83年だとしても、ナシでしょ。これでは明菜・聖子に水あけられるよ。 選曲も「愛は限りなく」とか「あなたの空を翔びたい」とか「片想い」とか「秋桜」とか、ベタなんだよな、これまた。こういうお笑いすれすれの演出を平然としてしまう芸映スタッフ、まったくわからんっっ。それを無意識過剰にこなしてしまう奈保子もわからんっっ。 河合奈保子がどうして二番手どまりだったか、その原因がなんとなく、わかった。とはいえ、歌はうまいです。あ、第二部のヒットメドレーはフツーで、これはいい感じ。 (記・06.2.28)
「MUGO・ん……色っぽい」リリース直後、いよいよ大ブレイクを迎えようとする彼女の姿をおさめている(――このコンサート終了直後に「ザ・ベストテン」に出演、その週に初登場となった「MUGO・ん」を歌っている)。 これは、熱い。まるで渋谷公会堂がライブハウスのよう。歌手とオーディエンスの距離が近く、熱気と一体感を感じるアイドルらしからぬライブ。まさしくこれからトップに登ろうと闘志を燃やすひとりのアイドルと、それに熱いまなざしでみまもるファンの愛のエール交換のようなライブ。 「おれたちがてっぺん取らせてやる」 そうオーディエンスが、熱くエールを送れば、その倍、静香がボーカルで応える。その必死の呼応が、切なくも美しい。そこには仁義すら感じる。この若さが、憎い。 (記・06.2.28)
荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」のブレイクの方程式をそのまんま援用して、「ヴィーナス」でようやくブレイクした彼女だけれども、 その次の一手を筒美京平にゆだねた荻野目と対照的に、ユーロ・カバー路線を踏襲しながら、自分の色を模索してこのアルバムが生まれた、といっていいかな。 楽曲の半分が「ラ・イスラ・ボニータ」など洋楽カバーで、もう半分が松岡直也、遠藤京子などの手によるオリジナル作品になっているが、散漫な印象はない。 全作ユーロカバーの前アルバム『ヴィーナス』のハイエナジーっぷりも、捨てがたいけれども、私にとっては、このアルバムが彼女のアイドル時代のベスト。 パキパキして乾いている荻野目の声質と対照的に、どこか翳っていて湿り気のあるところが彼女の個性といえる――民謡を幼い頃から歌っていたせいか、声に歌謡感がしみついているのだが、 その良さを活かしてミステリアスで少しばかり不幸な雰囲気を持った楽曲が並んでおり、きちんと統一した世界観を持ったアルバムとなっている。 「真夜中のオンディーヌ」にはじまり「アリス」に終わるという隙のない展開は、少女がつかの間夢見る真夜中の夢、という感じ。これ「真夜中」って、ところがポイント。妖しく、儚く、隠微な雰囲気。 オリジナルとカバーを織り交ぜながらも独自の冴えて怜悧な世界を作り出す、というスタイルは後のWINKのアルバム――「Velvet」や「Crescent」あたり、に近い。 しかし、この方法論は長山洋子に関しては王道とならず、次作『トーキョーメニュー』で、全作ユーローカバーのハイテンションなアルバムへと回帰する。 ちなみに。「ハイウェイ物語」や「悲しき恋人たち」に見られる歌うストーリーテラーと言ってもいいような歌詞を物語として聞かせる説得力は、演歌転向後の彼女の大きな強みになった、といっていいだろう。このあたり、聞かせます。 (記・2006.12.25)
謎の黒人コーラスやら、特撮戦隊モノのようなコスチャームやら、菊池桃子のぎこちないダンスやら、ニューエイジ風の妖しげなジャケットやら、売野雅勇のペンによるヘンテコな詞やら、 ネタにことかかない謎ユニット・ラム―だけれども、音源だけ聞いていると、そこまでトンチキでもなく、肩透かしを食らわされる。 いわゆる女版オメガね、といってしまってそれで充分な、あたりさわりのない一枚。シングルのような妙な歌詞を楽しみにしていたのにがっくりだっっ。 この頃のカルロストシキ&オメガトライブや杉山清貴のアルバムが好きというならどうぞ、という、80年代ど真ん中の、クリスタルでアーバンでおされで、ただそれだけという世界が広がっている。 ジャケットがラッセンっぽなおされ風景写真ってあたりがすでにオメガチック。 もともとアイドル時代の菊池桃子は、女版オメガといって過言でない林哲司のペンによるシティ・ポップス路線を引いていたわけだけで、 しかも87年の「Escape from Dimension」で、さらなるサウンド強化をはかっていた(――このアルバムでは、編曲は林哲司の手を離れている)わけで、 そこでこれからはさらに発展して、林哲司のサウンドプロデュースを完全に離れて、 ブラコン色をぐっと強くして、一気にアーティストへと飛躍、と。そこでラ・ムー、と。そういうことなんだな、と。わりとそのあたりが見えたりするわけで、まぁ、とにかく思ったよか全然フツー。 そこでなぜ鬼面人驚かすさまざまなビジュアル的小道具が飛び出してしまったのかは謎中の謎。 その後、ラ・ムーでハードにクラッシュした菊池桃子は、早々に歌手活動に見切りをつけ、CX系連続ドラマ「君の瞳に恋してる!」「同級生」と連投し、トレンディドラマ女優として華麗にメタモルフォーゼするのは周知のとおり。 歌手活動にこだわってフェードアウトしていった他のアイドルを尻目に彼女が見事にサバイブしたところを見るに、彼女にとってのラ・ムーは、災い転じて福となる、そのものといっていいだろう。 (記・06.11.08)
「アイドル歌謡は歌唱力でない、トータルの世界観がすべて」 そうはいいつつも、あんまりにもあんまりな歌唱力だとさすがに萎えてしまうのも事実で、わたしにとってそのボーダーライン上にあるのが西村知美の世界。 おもいっきり下手っぴだけども、うーんでも世界がつくられているからいいか、いいのか? と、わたしの心は微妙に揺れるのであります。 作家陣は松本隆―筒美京平のゴールデンコンビをはじめ、来生姉弟、ユーミン、加藤和彦、中原めいこなど当時の一流どころで豪華だし、アイドルポップスとして合格点といっていい上品さと可愛らしさがあって、それが彼女の声質とあいまって、と、そういったところがそれなりにいいんだけれども、どこか二番煎じの感じが拭えないんだよなぁ。 聞いていると、事務所の先輩の菊地桃子をはじめ、東芝の同じディレクターの薬師丸ひろ子や、斉藤由貴、南野陽子など、同業他社の顔が妙にちらちらするのだ。 でもって、スタッフが被っているせいか、担当しているそれぞれの作家が、薬師丸でも斉藤由貴でもなく、西村知美だからこそこの世界を表現したいんだ、という熱意が、あまり強く感じないのだ。 80年代の末期になると、こういった良質だけれども、どこかパスティーシュの匂いのきついアイドルが乱発。アイドルポップスの世界は死に体になっていくんだよなぁ。 ――て、悪いことばっかいっているけれども、彼女のシングルぎりぎりストライクなのは事実。シングルだと「シンフォニーの風」や「君は流れ星」あたりがツボ。アルバム曲・B面曲だと「憧れのドーヴィル」が一押しかなあ。作家だと、同郷のピカソの辻畑鉄也が彼女の作品でいい仕事をしている。 (記・2007.08.05)
87年6月の六枚目のシングル。矢野顕子作詞・作曲のドリーミーなテクノポップ。編曲は若草恵。 ほぼ同時期に矢野盤のリリースもあり、いわゆる競作という感じとなったけれども、いやいや矢野盤にまったく負けていない。 矢野盤はジャズの匂いの漂いながらもいかにも「矢野」という感じの――まぁ、つまりは「ラーメン食べたい」とかアレ風で、坂本・矢野コンビ最末期の円熟した世界だけれども、一方こちらは、同じ曲でありながら、杉浦のど真ん中な"菊池桃子風"歌唱と、若草のコロコロと可愛いテクノアレンジで、ファンシーなアイドルポップに仕上がっている。桃子本家を凌いた、といってもいいかも。 脱テクノを志向し始めた坂本・矢野組と、テクノポップど真ん中の杉浦・若草組の対比も87年という時代を象徴しているようで面白い。 明菜風なんて目指さずに最初っからこっちで行けばよかったのに。まあ、しもぶくれのミルキーな丸顔なのにいつもフテった表情――っていうそこに明菜の幻影を見てしまうのもわからいでもありませんが。 ちなみにこの曲や次の「18のSecret」は髪にレイヤーかけてて、本当にデビュー期の明菜っぽいです。動画サイトなどで是非確認を。 (記・08.10.08)
プロダクションは研音、レコード会社はCBSソニーの若松班――つまり中森明菜と松田聖子のスタッフのコラボレーションという80年代歌謡界において奇跡のプロジェクトだったわけだけれども、仕上がりは何故か中原理恵風。歌唱力のあるおねぇちゃんがお水の匂いの漂うエロめな歌をしっとりと歌い上げております。 気分はもう夜のカラオケバーだっ。ムーディーにもほどがある。 「ノスタルジア」や「セレブレーション」あたりもいいけれども、個人的には、阿木燿子の怪作「響きは tu tu」に全てを持ってかかれるぜっっ。「あっあっ、のれそう」ってどういう歌詞だよ、もう。確実にイキ声だろ、これ。 ――ちなみに。この頃の阿木ねぇさんは「初恋進化論」「紳士同盟」などエロ系珍品をドロップしまくっております、一体この頃なにがあったの ? 阿木さん。 ただまぁ、こういうファッショナブルでエロな雰囲気ってのは、どうも彼女の場合お仕着せっぽいのが、ちょっとむずがゆかったり、というのもあったりして。いいけれども、いまいちフィットしきれていない感じ。 本当は、ガハガハ大口開けて手ェ叩いて笑うような、あけっぴろげでがらっぱちキャラなのを、雰囲気壊れるからしぇべるな笑うなと事務所から指示を受けていた明美ねぇさんですからな。 ま、その面でいうと、次アルバム「Fanatique」は、音は安っぽくなったし、なんだか明菜のラテン路線とハードロック路線をまぜこぜにして劣化コピーしたのような世界観で、完成度はこのアルバムほどではなかったけれども、 なんだか歌声が妙に楽しげで、はるかに彼女に似合っておりました。 (記・07.05.26)
86年デビューの真璃子のフォーライフ在籍時代(86〜7年)のベストアルバム。シングル七曲のA/B面全てをコンパイルしている。 80年代後半は歌唱力のあるアイドルにとっては受難期。 おニャン子ブームを例にあげるまでもなく、歌えないアイドルがその歌えなさゆえに「フツーっぽくっていい」と支持されるようになり、歌の歌えるアイドルたちの居場所がなくなってくる。 これを契機に女性アイドルポップスは瓦解、90年代にガールズポップと形態を変えるようになるわけだが、んで、真璃子。 当時のおニャン子ブームを撥ねのけるに、当時実力派アイドルの最右翼であった明菜を踏襲せんべく、「私星伝説」「オアシスの涙」「夢飛行」「哀しみのフェスタ」と新人アイドルらしからぬ歌唱力で、アイドルらしからぬエキゾ・ハード路線を披露している。 もともと歌が上手いのにプラス、声に潤みと翳りがあるので、確かにマイナー調のこういう世界がきちんと表現出来ているけれども、やっぱり背伸びしすぎなんじゃないかなあ、というのがわたしの正直な印象。 アンチおニャン子の立ち位置なのに、おニャン子本陣といって過言でない「とんねるず」の妹分という触れ込みで活動せざるをえなかった(――事実、とんねるずとのバーターであろうタイアップソングが実に多かった)あたり、アンチおニャン子でありながら秋元康をブレーンに抱え込んでいた本田美奈子と同質の、過度な実力派志向、という感じがする。 ぶっちゃけえていえば意識しすぎたんじゃないの? と。もっとフツーでよかったのに。 松本・筒美ゴールデンコンビによる素朴なフォークソング「恋、みーつけた」、中森明菜の「Desire」とまったく同じ作家陣(阿木燿子・鈴木キサブロー・椎名和夫)でありながら、タイトルからして明菜路線を否定しているような「不良少女になれなくて」あたりが彼女の地という感じがする。 「不良少女」にはなれない。明菜や百恵にはなれない、こっそり憧れるだけの平凡なその他大勢の女の子でしかない、だけどそれこそが彼女の良さでしょ。これは阿木燿子の卓見だな。 その後の彼女は、アイドルブームの終焉とともにさりげなくカールズポッパーに変貌、前向きで匿名性の高いポップスを淡々と出すものの大きな評価を得ることは出来ず、96年、地元・福岡に戻り結婚引退。 90年に尾崎亜美プロデュースの「ヴィーナスたちの季節に」という佳盤を残している。 それにしても「夢飛行」のイントロの「Papa don't Preach」っぷりには笑けた。山川恵津子女史、やりすぎです。 (記・08.09.22)
ソロデビューの「シンデレラへの伝言」からラストシングル「木洩れ陽のシーズン」までのすべてのA/B面をコンパイル。 作家陣は明日香やら沢ちひろやら八田雅弘やらと独特なライン。おにゃんこ系なのに後藤次利やら見岳彰やらおなじみの人材がまったくいないのに驚く。おにゃんこの仕掛け人であり後に彼女の旦那となる秋元康の作詞がB面に一曲だけって、ある意味凄い。 路線は、70年代フォーク、かな。アレンジはテクノポップがお得意の清水信之を起用し、80年代後半典型の打ち込み多用なのに、それでも隠せぬアナクロフォーク臭がいとおかし。 んでもって、シングルにも関わらず、どれもこれも驚くほど地味で、売れ線の匂いがほとんどしない。 このあたりはディレクターの長岡和弘の趣味なのか、それとも「うしろゆびさされ組」との差異化をはかった大人の戦略なのか。 まあ、無理にアップテンポでポップなものをやると、音痴っぷりが際立つという、そういうのもあったんだろうけれどもね。ほらアレですよ、浅田美代子の「赤い風船」以来の音痴系はスローでフォーキーな楽曲で誤魔化せ、的な戦略ね。 このあたり、うしろ指解散後、ゆうゆの楽曲がほとんど「ひとりうしろ指」状態になってしまっていたのととても対照的。 長距離恋愛を描いたいわゆる「木綿のハンカチーフ」路線の「約束」や、ラストシングルの「木洩れ陽のシーズン」が一番完成度高いんじゃないかなぁ。 (記・08.07.10)
アルバムリリースの前月に高井は秋元康と電撃結婚・引退。 このアルバムのプロモーションはほとんど行われなかったと記憶している。 歌唱力はまったく向上していないにもかかわらず、表現力だけはしっかり向上しているのは、恋の魔術か。 伸びきったラーメンのように腰も味もない"おにゃんこ声"を脱し、切なさ溢れる少女趣味な世界を作りあげ、彼女のラストにしてベストと、私は推す。 作家は、麗美、岸正之、中村哲ら、特に半数担当の山口美央子が実にいい仕事をしている。 当時の彼女の同業他社は南野陽子・斉藤由貴あたり、いわゆる深窓のお嬢様路線を敷いていたと記憶しているが( ――ちなみに高井のディレクターは斉藤由貴と同じ長岡和弘 )、 その中にあって、よりいっそう素朴なところが彼女の持ち味。 南野・由貴に漂う、乙女指数の高過ぎるがゆえにあぶなっかしい部分、というのはない。 「そっと伝えたい 隠していたわけじゃない わたしの決心」と涙声でゆらぎながら歌う高井の自作詞のラストソング「小さな決心」はファンなら涙なしには聞けないだろう。 とはいえ、この素朴美少女っぷりが、彼女の計算ずくのセルフプロデュースであったのには、驚く。 彼女は結婚後、友人の斉藤由貴にかように語っている。 「私ね、私は絶対幸せになるって決めていたから、どんな風にして、どんな幸せをつかむのが一番私にとっていいのかを考えたし、そうして手に入れた幸せはきちんと守っていくつもりなんだ」げに力強き、美少女の上昇志向。 人は顔ではわからんものです。 (記・06.11.01)
これは凄かった。「ソニーの神秘」なる大々的なコピーの沢田玉恵デビュー曲「花の精」。86年4月発売。作詞松本隆、作曲筒美京平、編曲武部聡志。 中低音に確かな説得力をもち、翳りとしめり気のある雰囲気のある声。不幸と影の似合う、華はないが芯の強そうな月明かりの似合う日本人形のような容姿。 第二の山口百恵を探しつづけたCBSソニー酒井政利プロデューサーがついに見つけた最高級の素材が彼女であったのは間違いもなく、作家は当時の最高級といえる松本・筒美・武部三氏に依頼、彼らもまた「この娘はホンモノ」そう思ったのではないだろうか。もうね、音源から本気汁でまくり、聞いててわかる。 ドリーミーな中にも黒い芯のようなものが背筋に一本すっと通っている。デビューにして全てが完成し尽くされている。渾身の一撃だ。 時はおニャン子全盛。これが本当のアイドルポップスなのだ、という、大御所四氏の気概が垣間見えるといったら大袈裟だろうか。 「売れるのはもちろん、なによりいいモノを作ろう」という思いがひしひしと伝わる。アイドルソングという大衆性を失わないぎりぎりで薫り高い作品に仕上げる手腕は彼らだからこそ、さすがとしか言いようがない。 もちろんおニャン子ブームに歌だけで展開していくのは難しいと判断したのか。女優として手を広げていく。 宮本輝原作の映画「蛍川」主演。山口百恵の文芸路線の踏襲だ。「蛍川」クランクアップ後は「北の国から」の出演もきまった――が、半年の芸能活動だけで彼女はあっさり芸能界を引退してしまう。 残された曲はシングル二枚。映画の公開は引退後だったという。 諦めるにはあまりにも早いのでは、せめてアルバム一枚制作してからとつい思ってしまうが、決断の早さ、引き際のあざやかさもまた、まるで山口百恵のようであった。 (記・08.10.11)
「毎度おさわがせします」→「夏・体験物語」ときて、歌手デビューした藤井一子。――というわけでこれまた明菜というより、ミポリンフォロワーか。ツッパリ系アイドルのメディア進出面においての雛型を作ったのは、ミポリンなのかもなぁ。 そんな彼女の二枚目。86年年末発売。作詞は阿木燿子、作曲は筒美京平。 阿木燿子という作詞家が好きだ。 彼女って、逆転満塁サヨナラホームランクラスの好プレーか、みのもんたにナレーションでいじられるようなすっとんきょうな珍プレーか、このふたつしか出来ない。ある意味、いつも本域で、流したプレイでほどほどで済ますということを知らないのだ。 いつも100点か0点、60点くらいの、悪くないけど印象に残らないという、そういう作品がない。良くも悪くもつねに記憶に残る作品をドロップしてくれるのだ。ワンアンドオンリー、阿木燿子。 ――というわけで、こちらは見事な珍プレー作品。 「昔キスならおでこ 今ならアソコ アソコ」というサビに、ちょっと待て、と誰もがおののいてしまう一品。もうはっきり云ってこの曲はそのインパクトだけか、と。 作詞家デビュー以来、エロスを最大にして至高のテーマとすえて創作しつづけてきた阿木ねぇさんの見事な珍プレーです。 エロって、ある面、笑えるんだよねぇ。 とはいえ、この曲をはじめ「E気持ち」とか「夏の雫」とか「紳士同盟」があるから「港のヨーコ」や「プレイバック」や「魅せられて」や「Desire」が生まれるのである。嗚呼。 (記・08.10.10)
「毎度おさわがせします3」の出演を経てレコードデビューという、まあ、つまりは明菜フォロワーであるミポリンのフォロワーという立ち位置な彼女。 ファミコンのディスクゲーム「中山美穂のときめきハイスクール」(――恐らく恋愛ゲームの初ヒットがこれ)の大ヒットを受けて、立花理佐陣営も「リサの妖精伝説」なるゲームを発売、そのイメージソングとして88年7月に発売された。 松本・筒美のゴールデンコンビに当時は新進作家の小林武史がアレンジ。 デビュー曲「疑問」以降前作「刹那主義」までツッパリ路線を続けたがここで方向転換、打ち込み多用のエキゾ・ユーロ歌謡という、はい、明菜の規定路線ですね。 さてさて、「松本・筒美」とはいえこの時期はそれまでの多作がたたって微妙にテンションが落ちてきたふたり、魅力の感じない素材に対しては結構ぞんざいな作品を与えていたりして、松本・筒美時代の終わり=80年代の終わりという感じでちょっと切なくもなっていた頃なのですが、こと立花理佐に関してはふたりのやる気があったのかなかったのか皆目わからないというか、明後日の方向に打球が飛んで見事な怪作になっているというか、前作「刹那主義」の「未来? 波にでも聞きなさい」の唐突っぷりもなかなか凄かったけれども、今回の「サリナバチタ」の連呼もなんだかもう腰砕けというか、ある意味素敵な一品に仕上がっております。 手癖感満点の詞のようでいて、実はゲーム攻略のヒントが歌詞に隠されている、とか(――アグネス・チャン「ポケットいっぱいの秘密」で松本氏が使った折句手法で、ゲーム最後の攻略手段がたちあらわれるんだとか)、サウンドもやけくそ気味のオケヒットの連発とか、間抜けようでいて、ちゃんと聞くと案外きちんとしてるんだよなあ。 カップリングの「リサの妖精伝説 -BE POP HIGH SCHOOL-」にしても、立花出演の映画「ビー・バップ・ハイスクール」のテーマでA面の同曲異歌詞バージョンという、これまた遊び心なのだかやっつけなんだか。 ただひとついえるのは、ふたりはこの曲で真面目にふざけている。これだけは確実にいえるぞ。 とはいえメディアミックス展開も実らず、ゲームも歌も不発。そもそも当時のちびっ子に立花理佐といわれても「誰それ」ぞなもし。 メディアミックスってつまりは掛け算の世界だと思うけれども、母数となる「立花理佐」のもっている数がそもそもねぇ……。 以降、立花理佐はこの年の年末、所属事務所とトラブルを起こし、アイドル廃業。事務所はそのあおりで廃業。撤退早っ。 というわけでひと言でいえば大失敗だった立花理佐プロジェクトだったんだけれども、バブル期のゲーノーカイの浮き草ソングとしていまだ細々と語りつがれているのだから、まあ、いいか。 (記・08.10.09)
モモコクラブ出身のアイドル歌手として87年にデビューしたものの、うまくいかずに女優に転向、NHK朝の連ドラ「京、ふたり」主演でようやく世間の光にあたるようになって心機一転、プロダクションとレコード会社を移籍し再始動、ってわけで別名で出した七枚目の、セルフプロデュースによるシングル。92年7月。 デビュー期はど真ん中直球の中森明菜路線を敷いていた彼女、周囲の大人たちからやらされていただけなのかな? と思っていたらさにあらず、どうやら明菜路線こそが彼女の本懐であったのだな。 こってこてのセクシーエキゾ歌謡な一曲。歌唱もどこで訓練したのか、アイドル時代よりもぐんと表現力をましております。歌番組でも頭に薄紗を被って、煽情的なフラメンコギターに合わせて妖艶にくねくね踊っておりました。 ちなみに作詞はRie本人、作曲はピカソの辻畑鉄也、編曲は萩田光男という布陣。萩田編曲のエキゾ歌謡は「異邦人」以来かな。 ほんわか天然系なのは確かなんだけれども、同じ佐野量子や西村知美と比べて、女の芯の部分に黒いものが仄見えるのが彼女の特徴。そこが明菜的な歌世界に繋がっているんだろうな。 とはいえ、曲全体に漂うアーティフィシャルでなめらかな感じは中森明菜(――明菜はもっと荒々しく血腥い)というよりも、当時のWinkや和久井映見のエキゾ路線。 異国情緒という名の雰囲気コスプレモノ、といえばそれまでだけれども、なかなか。世界できている。善戦しているっ。 とはいえ、たぬき顔のほわっとしたビジュアルとのミスマッチで、アイドル期と同様にこれもまたいまいちブレイクきれず。 せっかく歌、上手くなったのになあ、とは思うけど、まあ、でも、自分の作りたいようにアルバム一枚作れたんだから、それでいいのかな、という感じも……。 その後は、皆さんご存知のように羽生善治との交際を経て結婚、引退。 (記・08.09.21)
幼い頃になんとなくテレビを見ていて印象に残っていたのを改めて聞いた。ああ、これ、ツボだわ。 斉藤由貴・谷山浩子を手がけたキャニオンの長岡組らしく、デビュー一年目のシングルはすべてタイトルに名前の「陽」をいれて「学園」を舞台にして、と統一感をだしていたようだけれども、今作の舞台は同じ学園でもマニアックに「寄宿舎」。 夜、眠れずにベッドを抜け出し、長い廊下の窓の向こう、プールに浮かぶ月を見ていた。窓のこちらは教科書と賛美歌の世界。窓のむこうは砂漠からの激しい風が吹く。三年は長い旅のようにはてしない。けれどここでの退屈も悲しみも全部幻だといつかみんな気づくだろう。――という内容。 サウンドは打ち込みメインで、詞に「砂漠」というワードが何度も出てくるところからエキゾっぽい雰囲気を織り交ぜつつ、スピーディーな展開で魅せるという感じ。 「入学式の体育館であなたの微笑みをはじめてみた」とか、「破いたノートを紙飛行機にして光り照り返す夏の河に飛ばす」とか、ファースト・セカンドにあった共感に得るに足る最大公約数的な学園ソングから一歩踏みでて、天使だ悪魔だ砂漠だ寄宿舎だとお耽美な方向にいったのが、多分幼きわたしのハートを掴んだろうな、うん。 田中陽子さん自身は「美少女」というにはあまりにもフツーな容姿だったけれども、妙に大人びたムードをもっていて、笑うと年不相応な艶っぽさが漂うのが魅力、という山口百恵タイプのビジュアルの持ち主だったけれども、時はアイドル氷河期、アニメとのタイアップも虚しくさしたる結果も出せず、また事務所と本人の折り合いも悪く、アニメ「ようこそようこ」終了とともに引退、これがラストシングルに――。 この歌を歌う時、デビュー一年とは思えぬシャープな顔つきで歌っていた(――歌唱も一気に安定した)のがとても印象的で、もうちっと先の展開が知りたくもあったけれども、アイドル時代末期の仇花で終わって本人的には良かったのかもしれない。 この時期デビューのアイドルで芸能界にしがみついて結果良かったなっていう人、少ないもんなぁ。 (記・08.09.17)
美少女が美少年を演じるのって、どうなん ? それはありなん ? なしなん ? と、いまだにその答えは出ないまこなのですが、 80年代末期、深津絵里同様、美少年的美少女で売っていたつみきみほ、 だからってシングルが「少年」ってどうなの ? 「♪ 白い包帯、胸をぎゅっと縛ったら水もしたたる美少年」ってどうなん ? そんなひっじょーに、回答を出すのにむずがゆいアルバムです、これ。88年作。彼女の最初で最後のアルバム。 つみきみほの歌唱は、ど下手ではないけれども、生硬。あんまり耳心地は良くない。このボキボキしてひっかかるところが「少年」ってことでひとつ、ってことなんでしょーが。ねぇ……。 マシュー南ほど、つみきみほを受け入れられないわたしがここにいるよ。ぶっちゃけボーイッシュが過ぎるよ。 とはいえ、そのまんまトルコ軍楽なイントロに「飛び降り自殺+援助交際」という詞が、トンでも怪作な「時代よ変われ」(作詞・松本隆、作曲・細野晴臣)にはさすがに驚いた。 松本と細野、こんなマイナーなところで無茶しすぎ。 (記・06.04.22)
この潔いまでのコアなファンと自分向けの選曲、デビュー当時には女優として歌手として大成するポテンシャルを持っていたのにもかかわらず、20年経ち、結果、女優としては「安浦刑事の娘さん」、歌手としては「ロリータ顔のカルトアイドル」という立ち位置で終わろうとしている自らを意識してなのか、どうなのか。 と余計なことも考えたくもなるがさてさて。――と、CDを流して吃驚。 「範子はん、どんな歌、歌うてはりますのん」 なんか凄い歌が所々に紛れ込んでいるですけれどもっ。 ――調べる。 ははぁ、彼女、近年はOGAWA名義でインディーズでCDをリリースしていて、そのすんごい歌ってのは、そこからの作品なのね。 道の向こうからやってくる醜い老婆を思わず殴りつけたくなると歌う「ホオズキ」、 もっと滅茶苦茶されたいんでしょう? と、王様を思いきりスパンキングする、――という直球SM女王ソングな「Queen,Joker,King」、 暗く淫らな真夜中の儀式に溺れるアリスを歌った「灼熱の国のアリス」、 ほとんどマリスミゼルな少女と吸血鬼の危険な恋の駆け引きを歌った「ヴァンパイア」、 若き画家たちに視姦され恍惚とする巴里の裸体モデルの官能の世界「フレンチドレッシング」(――って、このタイトル、精液の暗喩なんじゃないのか?) 谷崎潤一郎的大正浪漫的な道具立てに食人嗜好の愛を歌った「人食い」、などなど。 なんなんですか、これは。 一番凄いのが「湿地帯と金魚」。テーマは「腐敗のエロチシズム」。 生きながら腐ってぐずぐすに溶けていき、まるで湿地帯のようになっていく自分の身体を、魂の抜けたもうひとりの自分が俯瞰で見つめている、という感じ。完全に病んでます。 歯医者の待合室にかかっていたモーツァルトに耳を傾け、死にたい気分になってという設定なんだけれども(――って、これだけでもうお腹いっぱいだわ)、その絶望の台詞が 「わたしは汚らしく温かいのだ。世界は美しく冷たいのに」っていう。ここ、もう、完全に文学だよね。やられた。 で、オチが「あなたはわたしを浴槽に沈め、見つめる」って。殺されてますよぅ。 こんな詞がおしゃれなボサノバで歌われ、――難解すぎます。だけどなんだろう。凄く感覚としてわかる、というか好きだぞ、これ。 ってまぁ、そんな実験的な歌が、「涙をたばねて」とか「桜桃記」とか「ひとみしりANGEL」の頃のいたいけ少女歌謡と一緒にまぜこぜになって、一体なんなんだ、と。 小川さん、こんなにゴスでV系な感性をお持ちだったとは、お見それいたしました。 いやあ、OGAWA名義のアルバム欲しいなあ。調べたら全部廃盤みたいなのね。 是非とも今後も歌手活動を続けるのなら、「湿地帯と金魚」路線で行っていただきたい、と無茶を言う。 (記・07.12.10)
アレンジャーに萩田光雄、瀬尾一三をメインに据え、80年代の保守的アイドル歌謡が展開。お手本は同じくアイドル女優だった薬師丸ひろ子や斉藤由貴あたりかな。 まだまだ声がこちこちと硬くって色気が足りないけど、アイドルのファーストアルバムとしては安定した歌唱で、低音に説得力がある。特にすがすがしい生真面目さが漂うところがチャーミング。 図書委員タイプというか、地味な優等生タイプというか、思慮深そうなうつむき加減の眼差しときつく結んだくちびるが意志の強さを感じさせる彼女の容姿、そのまんまの世界が歌でも広がっている。 青臭いメッセージソング「理由を聞かせて」がはまるのは彼女ならでは。いつまにやら小説家・脚本家・コメンテーターという立ち位置に行ってしまった彼女らしいといえば彼女らしい。 マイナー系の「突然すぎて」「ままならぬ想い」あたりが、彼女の一番の持ち味。このあともう1枚アルバムを出して歌手は廃業、もうちょっと歌を続けてもよかったよね。 (記・08.07.15)
傑作「NEOfilia」をはじめ、「桜の果て」「孤独の部品」あたりは、ホント中谷美紀って、感じ。サウンドは生音重視、Face 2 fAKEをメインに千住明、たま、石川鉄男、山本達彦、かの香織など。結構いい線いってるけれど、「時代を超えたフィメールヴォーカルの最高傑作」って帯コピーは、はっきりいって自らハードルあげすぎだろ、と。 (記・07.02.22)
詞をメインに据えてるってことをアピールしているんだろうけれど、なんっつーか、その詞が、うぜぇっっっっっ。 "レッツ自分探し"な自意識過剰全開の歌詞がもう、初期の浜崎あゆみですか、と。お腹いっぱいです。 自分の半径3m以内の狭い世界で被害者意識を高めながらぐつぐつ熱思考しているJ-POPって、まあ、90年代中頃から、うんざりするほど増えたわけで、 その究極として浜崎あゆみが生まれたわけで、まあ、一定の支持層は今でもあるんだろうけれども、ともあれ、いいかげんこの歳でこういうの聞くのは、疲れます。 未来を信じてきらめく光に向かって駆けだそう、とか言われても無理です。駆けだせません。息切れします。 てか、詞先って、そもそもそういう手段じゃないだろ。 もっと言葉を殺ぎ落として、磨きあげるもんでないかね。 少なくともちんたらちんたら口数増やせばいいってもんじゃないだろ。 松本隆や阿久悠や阿木燿子の詞先の作品と比べるのは酷なのかもしれないけれども、なんかもう、残念すぎる。 個人的希望も含めて、今後、日本のポップスは曲先行から70年代以前の詞先行へ多少回帰するのでは、と思っているけれども、 その先鋒におちまさとが立つことは多分ない、ということがこの作品でわかった。 (記・06.12.11)
貧乏というほどカツカツじゃないけれども、バイトもせずにふらふら遊びまわれるほどさほど裕福でない、 そんな芸なし能なし夢なしコネなし欲望ありの、独居独身上京女性のぬるくも悲惨な日々をハードにカミング・アウト――って、夢ねぇ――っっ。 東京の生活にあこがれて上京したものの、ブランドバックとか意味もなく転がっているだけの空虚な1DKに自分をみつける「カレーライスの女」(――これ、カレーライスって単語が出てこないのがいいね)。 「上京した目的とかないよ、ただちやほやして欲しかっただけ」と身も蓋もない吐露して、 「ちやほやしてよ、ちやほやしてよ ちやほやくらいできるでしょ」と何度も絶叫する「津軽海峡の女」(携帯のアドレスをくるくる回しながらもろくな相手がみつからず、高知に帰っちゃおうかな、と思うあたりも無駄に秀逸、ありがちだ)。 東京近郊のひなびた喫茶店で海老ピラフをたらふく食べて「この街で新しくやり直すのもありかな」と呟く「国領」、などなど。 もう、ソニンどれだけお前は、淋しいやつなんだ、と。 はっきりいって、これね、21世紀の女版「男おいどん」だよ。 四畳半の下宿の押入れに汚いパンツがエロ本と一緒に大量に押し込まれてたり、で、そのパンツからサルマタケが生えてたり、 で、「俺もやればやれるんだぜ」とかなんとか嘯きながらも屈折した妄想をせんべい布団のなかで悶々と育てる、という、 あの世界。つんくはアイドルにこんな世界観歌わせて、どないしたいってゆーんだ。 とはいえ、ここまでかぶせてくると「なんちゃって、弱い奴もまだやれる」と負け犬たちに力強くエールを贈る「奮起せよ」に妙に熱い気持ちになったりして。 なんというか、非常に汗臭い、男気のあるアルバムです。 デビュー時点から在日コリアンであることを隠さずに本名で活動していたソニン(――もしかして戦後芸能界で、初?)って、 ある意味、ずっと昔っから腹の座っていたアイドルかもね、と、ふと思ったりもしました。 (記・06.04.04)
毎日 朝は弱い 男にはもっと弱い 流行りモノには敏感 お勉強 トンチンカン 遊ぶだけならば都合がいいけど 親友にはなれない 彼女が笑った あの娘は派手好き 友達がいっぱい だけど入院したとき 来たのはママだけ 所詮、頭と股のゆるい、AVあがりのゴミくずタレントだろ? そんな風に、彼女を小馬鹿にしたような、舐めきった詞だ。まるで、秋元康あたりが書きそうだが、しかしこの作詞をしたのは、厄介なことに、当の飯島愛本人である。 彼女の最大の不幸というのは、場を客観できてしまう才能に異様に長けていた――しかし、それでしかなかったところだと、私は思う。 エロい、しかし蔑んだ眼で見る大人たち、男たちに対して、「どうせ、あなたたちにとって、私ってその程度でしかないんでしょ」と、わかっていて、それでいて、その役割を演じてしまう。 彼女は、世に出て何かをなそうという意志はそもそもなかったのだろう。深夜番組で尻を見せるのも、バラエティー番組を小器用に回すのも、「周囲に都合よく使われる」という点においては、彼女にとってはあまり変わりはなかったのかもしれない。 だから、テレビに進出した頃から芸能界を辞めたいと云いつづけた。そして半ば強引に辞めた。 ちなみに「あの娘は派手好き」は、以下のように終わっている。 あの娘はハデ好き いつも楽しそう だけどクリスマスの夜 寂しくすごした 自虐なのだろうか。自己成就なのだろうか。まるで内田春菊や岡崎京子の悲惨な漫画の世界のまんまで、なんだかわたしは居心地が悪い。 (記・08.12.25)
一方、タレント山瀬まみは、テレビのバラエティー番組を中心にいつの間にかメディアの人気者に。歌手面でもこりゃなんとかせにゃいかん、というわけで生まれたのがこのアルバム。「山瀬ロック化計画」なんぞと銘打って大々的に売り出された。 全曲のアレンジが横関敦・三柴理(江戸蔵)で、作詞・曲には大槻ケンジ、内田雄一郎が参加し、とつまりは筋肉少女帯が中心で、他作家に矢野顕子、奥田民夫、サエキけんぞう、デーモン小暮、泉麻人などなど。シングルカットはしなかったけれどもCMソングに起用され、テレビ披露も多かった「ゴォ!」は知名度がわりと高いかも。 ――というわけなんだけれども、内容は、まぁぶっちゃけていえば、悪ノリ(笑)。いわゆる「イカ天」時代のバンドサウンドの典型なのだけれども、彼らの青くいなたく能天気な世界観でもって、ゲーノーカイのバラドル(笑)山瀬まみの内に秘めるリビドー大放出してみたら、といった感じ。ただひたすら無内容にアゲアゲ馬鹿騒ぎの50分強。「うだーうだーうだー」とわたしも山瀬と一緒に絶叫しちゃうってなものです。 ただね、正味の話、これを聞いて、「オレ、山瀬まみのファンになるよ」って奴、いるのかとなると、これ、かなり難しいと思う。 三柴理が矢野顕子を弾いてみたら……というアイデアでなのだろう「ヒント」、「パノラマ島」というワードの出てくる、これどうみても筋少ですよねの「恋人よ逃げよう世界は壊れたおもちゃだから」など、面白い曲多いのだけれども、それが「山瀬まみ」の魅力へと集約していかない。厳しい言い方をすれば表現として血肉化していないのだ。 七変化する山瀬のボーカルも、この人は器用というよりも器用貧乏だな、という切ない部分が、ある。上手いけれども、ちっとも魅了されない。これが和田アキ子以来の、女性歌手をイロモノにさせるホリプロプロデュースなのかもしれない。むむむ。 山瀬はその後「親指姫ふたたび」「Might Baby」とアルバムをリリースするが、評価されることなく歌手面ではフェードアウト。 一方、バラエティーアイドルとして当時ライバルであった森口博子は翌年正攻法のポップス「Eternal Wind」がベストテンヒット。その後もガールズポッパーとしてコンスタントにヒットシングルを繰り出し、歌手としては大きく水をあけられることになる。 (記・09.02.13) ◆ 華原朋美 「涙の続き」 (05.05.25/第30位/1.3万枚) 今年で歌デビュー10周年ということで、新曲。 夕暮れの渋滞の首都高を走らせていると、ラジオからあの頃の二人のラブソングが流れてきた。今わたしはひとり、涙の続きの世界を生きている。あの頃のようにあんなに誰かを愛することなんて出来やしない。今でもあなただけを……。 「♪ 涙の続きが はらはら止まらない あなたを愛してる」 うううっ。これってかなり直球。小室哲哉時代の物語をそのまんま引きずっております。まさしく12時過ぎのシンデレラ。 小室哲哉が聞いたらどう思うだろう、とそんな余計なお世話な想像をたくましくしてしまう。今やすっかりバラエティータレントとしての立ち位置が安定した彼女だけれども、歌となるとどうしてもこっち方面しかないのかなぁ。ま、破局直後の「as a person」などよりも、ぐっと歌に距離感がとられているから、わりと安心して聞くことは出来るんだけれども。けれどもねぇ、ってやっぱり思ってしまう。 ちなみに作詞は秋元康さんです。――ってそこ、"あぁ、やっぱりね"といわないっ。 (記・05.05.23) ◆ 堀ちえみ 「クレイジーラブ」 (84.10.17/第2位/16.3万枚) 彼女ってのは、なりふりかまわずのめりこむ人なんだと思う。後藤次利との不倫騒動しかり、その後の突然の芸能界引退しかり、泥沼の離婚騒動しかり、キューティーマミー脱退しかり、思い込んだら周囲の視線かまわずの強行突破。 五児の母という戦後直後のような多産っぷりも、彼女に限っては、子供好きなのは確かなんだろうけれども、それ以上に女としてのリビドーがやむにやまれぬ方向に炸裂したはてという感じがするのだ。エブリデイ・前のめり。そんな彼女が演じたからこそ「スチュワーデス物語」は昭和ドラマを代表するオモシロ感動大作として成立したと私は思っている。思い込みが強ければ強いほど彼女ってなんかおもろいんだよね。ご本人は至って本気なんだろうけれど。 そんな彼女のアイドル歌手としての代表作となると多分この歌。84年秋のシングル。当時大流行したボニータイラー風というか、「Never」とか「HERO」とか、アレね。ブラスぐわー、シンセぐわーで、煽る煽る煽りまくる。 「芝居は大映ドラマで当たったんだから、歌も大映ドラマの主題歌みたいな歌でいいんじゃない?」多分こんな感じのお手盛りなコンセプトで作られたに間違いないだろうけれども、これがどんぴしゃ。思いっきりのめりこんでクレイジーに熱唱する堀ちえみの本気な姿がなんだかファニーでオモシロ素敵。ダサくて滑稽なんだけれども、コントすれすれの本気っぷりに不思議と捨て置けない魅力が出てくるんだよな。この歌でオリコン2位、ザ・ベストテン3位、自己最高を記録しています。 とはいえこの独特のヘンテコな魅力は誰びとにも、彼女本人ですらコントロールは不可能、さっそくそれは悪い方向に働いて翌年の「Deadend street girl」「WA・ショイ」のダブルパンチでアイドル沈没してしまうのであった。嗚呼。 (記・09.03.29) ◆ ランカ・リー(中島愛) 「星間飛行」 (08.06.25/第5位) 狭義の意味で「アイドル」って言う存在は、おそらく平成の壁に激突して、乗り越えられなかったんだと思う。 「おにゃんこクラブ」をはじめ、アイドルという商品の製造過程が明らかになったこともあるし、あるいは岡田有希子や中森明菜など、アイドルを演じた者たちに巻き起こった様々な悲劇もある、同時期に杉本彩、田中美奈子、森高千里など、直接的に男の性欲を掻きたてるビジュアル戦略を用いたアイドルが乱立したというのもあるだろう。ともあれ、そのような様々な種明かしをもって、少年たちのあえかな擬似恋愛の対象としてのアイドルは存在として不可能になってしまったのだ。 その代替となったのがゲームや漫画、アニメ、ライトノベルにあるキャラクターたちだ。 その端境期を10代として同時代的に体験していた身として、それは理屈でなくわかる。90年代を生きた大抵のイケテナイ少年達の幻の恋の相手が、それらだったのだ。 その時、十代の行き先のない恋情を仮想空間に投げかけるっていう行為に、実際の肉体は、必要なくなってしまった。発展的解釈で言えば、わたし達はより高度な次元に到達したといってもいい。 しょせんどうあがいても仮想の恋なんだから、本人が実在しようがそうでなかろうが関係ないし、むしろマネージャーと駆け落ちしたり、不倫スキャンダルを起こしたり、プロダクションと契約トラブルで活動できなくなったり、喫煙写真を激写されたり、激太りしたり、衝撃のヌードを披露したり、とんでも整形したり、と、「ご本尊」が余計な事をしてこちらを醒めさせてくれないし、一生若く、可愛いままで、そっちの方がなにかと便利じゃない!? そのように、狭義のアイドルポップスはアニメとその派生の世界――アイドル声優の歌たちのみによって、その血脈を受け継ぐようになっていく。それも最初は細々とした流れだったのが、いつしかずいぶんな大河になってしまった。 そしていま、「星間飛行」を聞いた。笑ってしまった。 「マクロスF」のヒロイン、ランカ・リーのデビューシングルという設定でリリース。つまり飯島真理の「愛・おぼえていますか」とか「わたしの彼はパイロット」とかあの系譜。作・編曲は、いまやアニメ音楽界の筒美京平といって過言でない菅野よう子、作詞は、80年代アイドルポップスの雄、松本隆御大。最高位五位、ネットでも大評判、売れた。 ってこれ、明らかに80年代アイドルポップスのパロディーでしょ。「キラっ☆」とか決めポーズされれば仰け反るしかないっての。 当時そのものでなく、ここにあるのは少々悪意のある80年代オマージュ。全体は現在的にリファインさせつつも、そこに過剰にデフォルメされたかなりはずかしめの80年代臭を大量に投入したという感じ。 菅野よう子は、「マクロスプラス」以来、90年代後半のアイドル声優・坂本真綾のプロデュース作業など、アニメ音楽という形で生き残った現在進行形のアイドルポップスというものを完全に把握していたわけで、とはいえ、そこで本家本元の松本隆御大に依頼するというのもいい度胸だけれども、そのオファーに貪欲に応える松本隆御大もすげぇタマだな。あっきらかにふたりとも狙ってます。変に宇宙とか銀河とか、壮大さを醸し出しながら「キラッ☆」だもんなー。下世話なんだか高尚なんだか。これだから、プロってやーよねぇ(笑) Perfumeがどのような手段を講じようとも結局のところ、生身の肉体をもつというただ一点のみを理由に初音ミクやIDOL M@STERらに比べて(ある面においては)常に不完全であることからもわかるように、これが中川翔子でも松田聖子でもなく、ランカ・リーだっていうところが今の時代なのだ。 それがいいことか悪いことかってのは、わたしにはわからないけれども。とはいえ、アイドルポップスはおそらくこういう形でしか、もう世には出てこないだろうなと感じる一曲だ。 (記・09.06.05) ◆ 水谷麻里 「春休み」 (88.03.02/第80位/0.4万枚) 歌や芝居というのは、何かに突き動かされるような強い衝動を持っている人でなければ続かないものなのだろうなと、最近しみじみ感じる。 もし、かつての少年・少女がアイドルに求めた「ごく平凡な普通の女の子や男の子」が本当に芸能界に足を踏み入れてしまったとしたら、それはとても不幸なことなのだろう。 少し可愛いだけの、取り立ててなにもない少女だったアイドル・水谷麻里を今、覚えている人はそうはいないはずだ。 八〇年代のアイドル・ヒットファクトリー、サンミュージックの一押しアイドルとして八六年の春にデビュー。二年目の八七年にかけてベストテンシングルを四枚生み出したけれども認知度はアイドルファン止まり。さてこれからどう展開するかと周囲が呻吟しはじめる三年目に入る直前、八八年春に、さりげなく芸能界を引退した。そのラストシングルがこの「春休み」だ。 作詞はサエキけんぞう、作曲は担当ディレクターの川原伸司の変名、平井夏美。事務所のプッシュから外れて、おそらくレコード会社的にも契約消化のシングルだったのだろう。売上も認知度もまったくないけれども、なんだか愛がある。おそらくディレクターからの最後の労いの一曲なのだろう。 「ばいばい 春休み」 暢気に片手で手を振るような仕草で、再び訪れることのない短い季節が遠のいていく。 一年目の松本隆・筒美京平コンピの鉄壁のアイドル歌謡でなく、二年目の「バカバカバカンス」だとか「ポキチペキチパキチ」とかわけのわからないことを歌う、ピンクレディー→小泉今日子ラインのビクターおふざけアイドル路線でもない、どこかすっとぼけてファニーな彼女の魅力が、はじめてやさしい歌の形で結晶しているのだ。ふわふわと心浮き立ち、ぽかぽかと暖かく、それでいてなんだか胸が苦しくなるような切なさがつまっている。 何に秀でたわけではないけれども、この「春休み」を歌った、それだけでアイドル・水谷麻里の存在は意味があったことなんじゃないかな。きっと彼女にとって二年の芸能活動は、心落ち着かずに浮き足立ったまま気がついたら終わってしまった、ほんの短い春休みだったのだろう。 アウトロにはデビュー曲の「21世紀まで愛して」がさりげなく配されている。21世紀まで愛されるようなアイドルにはなれなかったけれども、それが平凡な少女にとっては一番の幸いなのだ。 桜田淳子、松田聖子、岡田有希子、酒井法子と同事務所所属のアイドルがことごとく味わう悲惨な形での「アイドル」の終焉、それは彼女にだけ訪れなかった。90年、彼女は漫画家・江口寿史と結婚。そして長い日常を生きるのであった。 (記・09.09.12) お金をいっぱい用意してロサンゼルスに行ったらビッグネームのアーティストがいっぱい参加してくれたお、ってわけで、ロサンゼルス録音でデビッド・フォスター、スティーブ・ルカサー(TOTO)、ビル・チャップリン(シカゴ)、ラルフ・ジョンソン(EW&F)など、超有名アーティストがぞくぞく参加。作・編曲全てのサウンドメイクがロサンゼルス産で、それを岩崎宏美は和訳した日本語詞(――詞は山川啓介・佐藤アリスが担当)で歌っている。松田聖子「Citron」、河合奈保子「Dayderam Coast」「9 1/2」の長女的作品といってもいい。 このアルバムは一曲目のイントロからして音の抜けがぜんっぜん違う。今までのは一体なんだったんだっていうくらい違う。しかもこの再発売の紙ジャケ、異様に音質が向上しているな。音がきらっきらしている。ボーカル最充実期のこの頃の岩崎宏美で、このサウンドなのだから、超がつく磐石な出来でなにひとつ文句をつけることはない良盤なんだけれども、ただ、今回おまけでついてきたボーナストラックのシングル・カップリングの七曲を続けて聞くとどちらがいわゆる多くの人が求める「岩崎宏美の世界」なのかと比べると、本編よりもむしろボーナストラック側なんじゃないかなと思ったりもする。洋楽の宏美もいいけど、シリアスな詞にドラマチックな展開のマイナーメロディーを高音の伸びでぐわーと歌い倒すっていう「聖女達のララバイ」ラインの世界がやっぱり一番しっくりくるなっていうね。 実はこの再発売盤で個人的に一番の収穫は、聞いたことのなかったカップリング曲だったりするわけで。B面でも魅せるなあ、彼女、って。「逃亡者」も「眠りの船」も「二時に泣かせて」もボーカリストとしての彼女の魅力を了解しきった上で制作されたのだろう実にプロフェッショナルな「歌謡曲」なのだ。 岩崎宏美は強い洋楽志向を持っているアーティストのようで、このアルバムではたと自分の音楽志向を再認識したのか、このアルバムのリリース直後に事務所独立、以降はAOR色の強いアルバムを連打するようになっていき、しかも益田宏美から岩崎宏美に再び戻って以降は今井美樹的な癒し志向も混入するようになって現在へと到るという感じなのだけれども、そういった意味ではこのアルバム、個人的には好きだけれども、痛し痒しといった所もあるなぁー。 つまり「歌謡曲」ではなく爽やかポップスを歌う今日の岩崎宏美に至る大きなきっかけのひとつのアルバムってわけで、ま、それが本人の強い意志であるなら仕方ないのかもしれないですけど。ど真ん中の歌謡曲はやりたくないんでしょうかね。次アルバム「戯夜曼」はそのあたりの岩崎宏美のファンが求める湿った歌謡感と本人のAOR志向が絶妙のバランスで成立していて傑作だと私は思う。 (記・09.10.04)
◆ 岡田有希子 「くちびるNetwork」 (86.01.29/第1位/23.1万枚) 86年1月、「カネボウ」春のキャンペーンソングとしてリリースされた曲。チャート1位を獲得し、彼女の最大のヒットになった。そしてこの年の4月に彼女は自殺し、ラストシングルともなった。 80年代当時の季節ごとの化粧品のキャンペーンソングといえばあらゆるコマーシャルの頂点、広告代理店の総力戦であり、そのキャンペーンソング・ガールというのはたとえそれがワンシーズンのみだったとしても、時代の寵姫といえた。では、はたしてその華やかな戦場に漕ぎ出す胆力が岡田有希子陣営にあったのか、というと――本人のまもなくの自裁を含めて、それはまったくなかったのだろう。はっきり言ってこの曲は駄曲だ。 作詞は松田聖子、作曲は坂本龍一がそれぞれ担当しているのだが、何故このふたりでなければならないのか、作品を聞いても、ネームバリュー以外の意味は一切見いだせない。松田聖子の詞はあまりにも直接的過ぎてまったくふくらみに乏しい(――というか素人同然だ)し、坂本龍一もアイドルポップスを「お仕事」でこなしているだけでパッションが一切感じられない(――彼の一番魅力的でかついけないところは、つまんないと思った仕事は心底適当にすませてしまう所だと思う。駄作の時は吃驚するほど駄作なのだ、彼って)。 ――出産休業中の松田聖子に詞を書いてもらって坂本龍一に曲を作ってもらう。それを今度の化粧品のキャンペーンソングとして大量オンエアする。話題性充分。これは大ヒット間違いなし―― こんな企画会議上の見え透いた計算が滲み出るだけで、岡田有希子の歌手としての魅力があらわれない。「Summer Beach」の十代の自然な伸びやかさや、「Love Fair」の歌唱テクニック、「哀しい予感」の涙混じりの情感と比べるのも虚しいほどになにもない。この曲において彼女は松田聖子の物真似を無理強いさせられ、結果松田聖子の幻影に押しつぶされているだけだ。 岡田有希子担当のディレクター渡辺有三は、このとき、功に焦りすぎたのではなかろうか。 80年代のキャニオンレコードにおいて、様々な女性歌手を担当しスタ―ダムにのしあげた彼だが、中島みゆきや尾崎亜美といった女性アーティストはともかく、女性アイドルにおいては常に苦闘を強いられていたといっていい。彼担当の女性アイドルは、いい作品を歌い、それなりに人気を獲得していくのだが今一歩、トップは取れないのだ。 評論家筋ではポスト百恵の呼び声高かった78年の金井夕子は、評判とはうらはらにいっさいのヒットをもぎ取れなかったし、80年デビューの岩崎良美も、デビュー時点では超大型新人アイドルの呼び声高かったが、同期の松田聖子の爆発的な人気に一気に霞んでゆく。82年の堀ちえみも安定した人気は得たが、社会現象ともなった同期の中森明菜と小泉今日子の躍進に比べるといささか物足りない形でアイドル歌手としての人気は終息していく。 84年の岡田有希子もそうなろうとしていた。デビュー期こそ大々的に売り出しそれなりに安定した人気を獲得したが、トップに立てない。圧倒的な人気ではなくそこそこ名の知られたアイドルのひとりにでしかない。同期の菊池桃子にレコードセールスでは大きく水を開けられ、しかも翌年デビューしすぐさま大きなセールスをたたき出した斉藤由貴や中山美穂、おにゃん子クラブ陣営などの登場によって存在感は徐々に霞んでいきはじめた。気がついたらいつものように劣勢に立たされつつあった。 「毎度毎度失敗してたまるか」 岡田有希子という歌手のキャラクターを越えた所で彼がリベンジに燃えたとしてもなんら不思議ではない。それは気持ちとしてはわかるのだけれども出来上がった曲を聞くと、やはり無理のある企画だったのだなとおもわざるをえない。 そもそもそういった企画ありきの形に岡田有希子というアーティストは不向きだったのかもしれない。20万枚以上を売り上げて、彼女のシングルにおいてはダントツのセールスとなったが、この曲は決して岡田有希子の代表曲とはなりえてない。様々な意味で、勝負してはならなかった――作品としても、また時期としても、もちろんアーティストとしても――勝負曲という印象が強い。 ちなみにその後の渡辺有三は工藤静香と光GENJIとふた組のアイドルを担当する。そこでようやく「トップアイドル」を生み出すことに成功するのであるが、そこにはおそらく「くちびる〜」の失敗も反面教師的に活かされているのだろう。 (記・10.03.05)
◆ 児島未散 「ジプシー」 (90.12.21/第4位/36.5万枚) 91年のヒット曲。浅野温子が出演するライオンのシャンプーのCFソングとして大量オンエアされたことがきっかけとなってヒットを記録した。CMでサビを一瞬だけ聞くと当時アイドルでひとり勝ち状態だった工藤静香に声がそっくりに聞こえるけれども(――それが聞き手にとってフックになったんだろうな、あ、今度の静香の新曲いいかも、と、私もうっかり思ったし)、実際とおしで聞くとそこまででもなかったのが今でも不思議。 作・編曲は馬飼野康二、作詞は浅野温子の旦那でCMプランナーでもある魚住勉――ってわけで初めからコマーシャルありきの企画ソングといった方がいいのかな。歌謡感の高い湿ったサウンドで「謎めいた女」を歌うという、「桃色吐息」系のいわゆるカラオケバーの似あうアダルティーな一品に仕上がっている。 児島未散は宝田明と児島明子の娘で、85年に歌手デビューするがこの曲のヒットするまでとりわけの履歴があるわけでもなく、アイドルともシンガーとも女優ともモデルともタレントともつかない感じのポジションだった。ポピュラリティーのない今井美樹といったところか。よく言えば二世タレントらしい《がっつかない》ところが、美点でもあり欠点でもあったわけだが、この曲ではそんな「いいところのお嬢さん」を越えて「いい女」たろうとしている。頑張って舌ったらずな舌をのばして背伸びしている姿も微笑ましく、それが多くの人の心に刺さったのだろう。ヘタウマな歌唱を含めて味わいがある。ま、曲自体、当時なら工藤静香とか中森明菜とか中山美穂とか、アダルト志向のアイドルシンガーなら誰でも一定の成果のあげられるだろう佳曲ではあったのだろうけれどもね。 とはいえ彼女にとってのアダルト歌謡はこれだけ。後に発売された同名タイトルのアルバム「ジプシー」で既にこの路線は限界だったようで、すぐにもともとの領域である平明な同世代のOL向けAORへとハンドルを切り替えていくようになる。ただそちらの世界はちょっと凡庸がすぎるようで私は好かんとですよ。その後の彼女は歌手活動休止し「金八先生」に出演するなど女優として活動していたが、今は引退している。 ちなみに事務所は欽ちゃんの浅井企画。ホント、いい人そうで押しの弱い人が好きだよね、ここの事務所は。 (記・10.02.26)
◆ 原田知世 「逢えるかもしれない」 (86.05.01/第24位/3.0万枚) 政治家と官僚と労組の食い物にされてとんでもない借金を抱え、結果、87年に国鉄は解体されることになる。顛末から鑑みれば決してめでたいことではないのだが、時ならぬバブル景気に飲みこまれる形で「国鉄からJRへ」のイベントは盛大に執り行われることになった。その「新生JR」のキャンペーンソング「新・鉄道唱歌」として作られたのが、この曲だ。 作詞は公募で一万通を越える中から選ばれたものを松本隆が補作している。作・編曲は、当時の原田のサウンドプロデュース担当だった後藤次利。総合プロデュースは「いい日旅立ち」→「二億四千万の瞳」と国鉄キャンペーンソングを担当したソニーの酒井政利が引き続いて担当している。ちなみになぜか詞の審査委員長はジェームス三木だった。発売に先がけて、原田知世は87年3月31日深夜放送の「サヨナラ国鉄」のスペシャルテレビ番組で、0時またぎの「国鉄最終列車・JR一番列車」(――という特別列車が全国各地で運行された)から降り立ってこの歌を歌唱している。 作品はざっくり言えば「いい日旅立ち」ふたたびな仕上がり、詞はそれっぽい単語の羅列であまり深い意味はなく、なんとなく「古き良き日本」で「旅情」なイメージが漂えばそれでよし、という感じ。おそらく「時をかける少女」での尾道の古い街並みにしっくり馴染んだ彼女の姿に白羽を立てたのと、ぶっちゃけて言えば、当時のソニーに、原田知世以外にこの企画にコミットできる大衆性があってかつやる気のあるタレントがいなかったというのもあるやもしれない。 松田聖子は産休中だし、郷ひろみは二谷友里恵との結婚・ニューヨーク移住前夜、シブがき隊はなかばお笑いに片足突っ込んだポジションになっていたし、南野陽子はようやくトップアイドルの仲間入りを果たしたところで、おニャン娘系はフジ・サンケイ色が強くてこういう企画には使えない、レベッカやら美里やらサノモトやらのロック系はドメスティックなこういう企画を受け入れないだろうし。 んじゃ、これを原田知世が担当してしっくり馴染んだかというと微妙な感じ。後藤次利をサウンドプロデューサーに据えた当時の彼女は、いわゆる「時をかける少女」の原田知世――朴訥としてどこか懐かしい雰囲気のある透明な少女から脱皮を図っている最中だった。直近のアルバム「soshite」は多くがオフィスラブを歌ったものだったしね。シングルでも「雨のプラネタリウム」「空に抱かれながら」とベースバキバキのハードなゴツグ流歌謡ロックにクラシックバレエス仕込みのシャープなダンス、というこの時期の原田知世にあってあきらかに異質だし、その後も、この曲のような和でフォーキーな路線は見受けられない。 原田知世はこの曲に求められるような、万人に愛される国民歌手ではなく、自らとそれを受け入れくれるマニアックな聞き手の為の歌手にと成長する。そのきっかけが「逢えるかもしれない」の次のシングル「彼と彼女のソネット」だった――というのは言わずもがなかな。 ま、そもそも「新・鉄道唱歌」という当時ですら古臭いこの企画は定着する余地がなかったのかもしれない。「国電」を「E電」と言い替えても馴染まなかったようにね。 分割民営化後のJRは、すぐさま各社がそれぞれのCFやキャンペーンソング、キャンペーンガールを打ち立てるようになる。キャンペーンガールでいえば、西日本が南野陽子、東日本が後藤久美子、九州が酒井法子、四国が富田靖子、北海道が中嶋朋子、といった按配。お互いがライバル関係でもあるJR各社が共同で大々的なキャンペーンを打つことはない。そういった意味では「逢えるかもしれない」は最初のJRキャンペーンソングというよりもソニー酒井陣営による最後の国鉄キャンペーンソングといったほうがいいのかもしれない。 (記・10.02.18)
10代の童貞のような純情をいまだ引きずったくたびれた四十がらみのおっさんが、目の前の美少女をおかずに、遠い昔の叶わなかった初恋を生々しく脳内リプレイしちゃってる、みたいな、そんな作品。 そんな可哀想でちょっと羨ましいおっさんは、ムーンライダースの鈴木慶一と渚十吾ことソニーのディレクター黒田日出良のおふたり。 前作「My Boy 〜歌え太陽〜」に引き続いてのプロデュースで60年代のなつかしポップスを再現した作品だけれども、やりたい放題度ではこちらの方が勝ちかと。 「おにゃん子の渡辺美奈代」を求めるファンはもちろん、美奈代本人にとってもおよそ無意味な音楽によるお医者さんごっこ、とはいえやってるおっさんたちが楽しいそうなのだから仕方ない。 個人的には作り手の作為が見えない分、秋元康時代の諸作よりずっと好きかも。おっさんはいつの時代だってエロくて純情なのだ。 (記・10.06.16)
◆ 松田聖子「ガラスの林檎」 (83.08.01/第1位/85.7万枚) 80年代の松田聖子の歌のよさというのは、明朗で健全そうな表層の内部に麻薬のような危険なあやかし、業を秘めた血の気配があって、それが常にほのかに漂うところなのだと思う。 それは彼女の歌唱表現に宿っているのはもちろん、大村雅朗や松任谷正隆のアレンジ、ユーミンや細野晴臣のメロディー、松本隆や三浦徳子の詞にもやどっていたのだろう、――と思う。 その気配ゆえに、松田聖子の歌は、カワイイ小娘の無邪気なアイドルポップスとしての体裁を保ちつつも、それだけではない特別な何かたりえたのだろう。 その80年代の松田聖子の世界の究極の行き着く果ての一曲、と私が思うのが、83年の「ガラスの林檎」だ。作詞松本隆、作曲細野晴臣、編曲細野晴臣・大村雅朗。 蒼ざめた月が東からのぼるわ 丘の斜面にはコスモスが揺れてる 若い恋人たちの何気ない甘い風景を歌っているだけなのに、この曲には宗教的な気配に満ちている。女神の歌といってもいい。 「なにもかもが透き通っていくわ」というリリックに象徴されるように、ここにあるのは、血のあやかしを蒸留したからこそうまれた荘厳さだ。 ひとつの若い恋が成熟していくように成熟していった松田聖子の歌世界の究極が、ここだ。 松田聖子と松本隆は、平明な若い男女の恋を歌いながら、ついに大いなる愛へと突き抜けていった。 この歌が、「あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭」グランプリ、「FNS歌謡祭」最優秀歌唱賞受賞、と、賞レースにおいてはあまり運のなかった松田聖子にしては珍しく大きな賞を得たのも当然のことといえる。 とはいえこの境地にたどり着いて果たしてその先がなにがあるのだろう、それはアイドルポップスといえるのか、とも言えるわけで、象徴的なのが、このシングルのカップリングにして、CMで話題になり後に両A面ともなった「SWEET MEMORIES」で、この歌は、今まで現在進行形でしか描かなかった恋の風景を過去形に、それも色味も古びてセピアとなった痛みすらも懐かしいと思える遠い過去へと針を振っている――この歌を、今の彼女の10歩先の世界と松本隆が語ったのは、そういうことだろう。 「ガラスの林檎」は、デビュー以来連綿と続いた松田聖子の歌世界のまさしく絶頂といっていい。 この歌を境に「アイドル・松田聖子」はゆっくりとエピローグへと向かっていく。明朗そうで幸福そうな恋にも破局が訪れ、時には戯れの一夜の恋に溺れたり、あるいは手ひどい裏切りや激しい悔恨の念にさいなまれたり、そのようにして幼く無邪気な日々は少しずつ過去へとなっていった。 もちろん、その代わりに「瑠璃色の地球」や「LOVE」といったこの歌を通過したからこその作品にも繋がってゆくのである。 (記・10.06.09)
◆ 松田聖子「Precious Heart」 (89.11.15/第2位/12.9万枚) 89年11月発売のシングル。25作目のオリコン1位を挑んだシングルだが、結果は二位どまり、彼女の一位連続記録がとうとうここでストップとなる。まさしく運命の一曲。松田聖子のセカンドステージの幕開けといってもいい。作詞は松田聖子本人、作曲は奥居香。 ねえ 聞いてね 私の大きな夢 誰にだっていえなかったけれど… 今は素直な気持ちで打ち明けるわ ほんの少し恥ずかしいけれども… 心の奥に燃えているものは 世界中にメロディ 届けることなの この年、松田聖子はデビュー以来の所属事務所サンミュージックから独立し、翌年の全米デビューの準備に入る(――それに前後する形で様々なスキャンダルが噴出したが、それは余話)。それを知って歌詞を見ればあまりにも一目瞭然、つまり松田聖子がファンに向けて「世界デビューの夢に賭ける私を応援してね」という、それ以上でもそれ以下でもない。アメリカデビューの成功にはあなたの愛がとても必要よ、だから応援よろしく、と。 今作以降の、セカンドステージの松田聖子の歌の世界はものすごく乱暴に言えば、全部こんな感じ。歌の主人公は「松田聖子」以外の何者でもなく、聞き手は「松田聖子」という存在を愛してやまぬファンにのみ限定されている。 好意的に解釈すれば、私の言葉で私の思いをそのまま歌にして、ファンのみんなに届けたいということなのやも知れない(――このあたりの素朴な直接性は意外と70年代のフォークシンガーっぽいなとも思ったりする)、とはいえそれは、教祖と信者の縮小再生産の閉じられた祝祭に過ぎず、かつてのダイナミズムが色褪せてしまったのは事実だ。匿名的な恋愛風景を普遍的な「もののあはれ」へと昇華させた松田聖子の圧倒的な歌唱表現は、彼女の自意識に埋もれ、以降、見られることはない。 ちなみに――。今作のオリコン1位を阻んだシングルは小室哲哉「GRAVITY OF LOVE」(Epicソニー)。これは彼の初のソロアルバム「Desitalian is eating breakfast」に先がけて三枚連続シングルリリースを行っていたうちの第二弾シングル。アルバムに先行してシングルをごそっと切る後の小室戦略を彼がここで初めて行ったという点も趣深いのだけれども、どうもこのシングル自体は、小室サイド的にはさほど勝負シングルではなかったようで(――第一弾の「Running to Horizon」の方が「シティハンター」OP曲に起用させて「Get Wild」再びを狙ったりと、勝負していたっぽい)、「Precious Heart」の二日後にわざとずらして発売している。週間集計にハンデを与えて松田聖子になんとか1位を取らせようというソニー系列内部での政治的配慮が想像できるが、週間初動「GRAVITY〜」が5.0万枚、「Precious Heart」3.8万枚、という結果に。聖子の前シングル「旅立ちはフリージア」の初動が6.2万枚、そのさらに前の「マラケッシュ」が5.1万枚だったので、予想外の人気低下がなければソニーの計算通りだったのだろう。 更にちなみに――。小室連続ソロシングル第三弾「CHRISTMAS CHORUS」では今度はやはり同じソニー系列の南野陽子「フィルムの向こう側」とバッティング。ここでも同じく小室が二日発売日を遅らせ、結果こちらは南野4.8万枚、小室4.1万枚で、計算とおり?に南野が一位を獲得している。 (記・10.09.26)
アルバム全体のテイストは、彼女が松田聖子と一緒にバラティー番組に出る時のあの感じ。無邪気にはじけるママに気づかれないぎりぎりのところで絶妙に引きつつ居心地悪そうにしつつ、でも周りから視線が集まったらにっこり、みたいな。 私はママとは違うけれども、でも私はママの娘としてしか存在意義ないし、ママみたいにふるまえば良いのだろうけれども、でもでもでも……。自らの中にある松田聖子的なのものを受け入れることも、反発することもできず、ただ戸惑いながら佇んでいる。そんな反抗期すら迎えられない「いい子」の悲しみといったらいいのか。わたしはママとは違う、という主張もそこここに感じられるのだけれども、松田聖子の引力には勝ち得ないことをあらかじめ悟っているような弱々しさ。 サウンドはソニー謹製で、八〇年代の松田聖子の世界を現代的にリファインさせたとしたら、といった佇まい。彼女自身の手による詞の、内面に向かう眼差しやその閉塞感は明らかに松田聖子の自作詞とは一線を画しているけれども、今、聖子風の歌手がデビューするとしたらこんなかなと、いうテイストでもあったりして。自らの作詞・作曲に傾倒してどうしようもなくなった現在の松田聖子本人よりも、ある面ではずっと、かつての松田聖子のコンセプトにのっとった作品に仕上がっている。ポップで耳ごごちのよくって可愛らしく大衆性と同時代性があって、BGMにぴったりっていうね。――が、中心にいるSAYAKAが弱々しすぎる。精気がなさすぎる。大衆の欲望の鏡である歌姫を担うには、あまりにも頼りないし、腹を括っていない。これでは自分だけの贔屓筋は出来まい。松田聖子のファンがお義理で買ってあげるだけだろう。 とはいえ、この弱々しさって、SAYAKA本人だけの問題にとどまらず、「親の世代が甘い汁を残らず啜って勝ち逃げして、その子供達が疲弊している」という今の日本の若者とその親達の雛形にも見えたりして、といったらこれまた穿ちすぎ? パパやママたちがやりたい放題やり散らかして、うちらのやることなんて残務整理くらいでしょ、っていう。そんなぬるま湯の絶望感。生まれた瞬間から青春も未来もなかった、みたいな。 このアルバムの発表のすぐ後に彼女は休業。しばらくの潜伏の後、本名に名を戻して、ミュージカルに活路を見出すことになるけれども、それは次の話。 (記・11.05.01)
スキンヘッドの謎の大型新人――というふれこみだったのにネットで過去がボロボロと発覚して、物凄い勢いで叩かれまくりんぐの、今年の業界の《打ち上げ花火》ICONIQさんのファーストアルバム。 反日だとか整形だとかゴシップ的な諸々はまぁそれぞれ皆さんで検索していただくとして、実際の音は、悪くはないです。安室ちゃんの最近の諸作で有名なT.kura+michicoコンビを中心にいわゆる《エイベックス》なファクトリーミュージックでつるっと聞けて耳ざわりがいい。 ただ歌手としての佇まいに、倖田さんや浜崎さんといったエイベックス王道の、いわゆるヤンキー的自意識が希薄で、そこが特徴かと。ギラギラと下世話な欲望を照射するような所がないのね。システマティックに作りこまれたサウンドにふわっとただ乗っかってるだけ。 歌手としての実存がなさげで、誰が歌ってもいいような匿名性が強くて、つまり華麗で空虚なファッションとしての「音」だけがあるという感じは、むしろビーイングっぽい感じもする。出てきて途端のダーティーな噂や、実働プロモーションの少ないメディア攻勢や、唐突で腰砕けなカバーの「ライカバージン」とかいったところは個人的には倉木麻衣のデビュー時を髣髴したりもして。 ただ、オープニングで赤ちゃんに「Change」と無理矢理いわせたり、エピローグでは私が変わるとか何とかICONIQさんがぶつぶつつぶやいたりと、オバマ大統領かよとばかりに「Change」押ししてますが、丸刈りにしたくらいで女の人生って変わるものなのでしょうか? わたしにはわかりません。 化粧品のキャンペーンに起用させたり、女性誌の表紙を飾ったりということで、ターゲットはF1層ど真ん中っぽいけれども、果たして。ターゲットの外側の私はなんとも判断しづらいのですけど、この層にいきなり訴求したエイベックス系アーティストって確かいないと思うので――浜崎も安室もティーン狙いからはじまったわけだし、ちょっと読めない。女性誌でライフスタイルを語ったりしている姿が今の時点ではまったく見えないしね。 「こけるだろ」と今の時点でいうのは簡単だけれども、本人登場前にこれだけ嫌われると逆に何か彼女にはあるのかも、と思ったりもして。なんやかやいいつつも何者なのか、どうなりたいのか、実体が見えない今は判断が難しいところだけれども、はたしてどうなるのか。個人的には芸能界久しぶりのヒールとして頑張っていただきたいかな、と。 (記・10.04.09)
◆ IMALU「Mashed Potato」 (10.01.13/第50位) 明石家さんまと大竹しのぶの娘、いまるのデビューシングル。10年1月発売。作詞がいまる自身で、パパは仕事に夢中で全然会えないし、ママもいつも外出でいつも孤独なわたしは街でうんぬん、でもあなただけとはわかりあえるとかなんとか、という、いわゆる90年代後半――援交って言葉が流行語になった頃ね、の自意識系リリックを、木村カエラとかジュディマリのYUKIちゃんラインおしゃれロックに仕立てあげました、みたいな一品。 自意識路線はちょっと古いんじゃないかなーって思うけれども、有名人の両親を持つ彼女のリアルから滲み出たものなのか、あるいは周囲のでっちあげた下世話なフックなのか。全体的に悪くないし、ボーカルもそんな下手ではないけれども、つるっと流れてしまう。「いい子」に小さくまとまっていて、悪い意味でウェルメイドになってしまっているのだ。体裁は整えてあるが買い手が数多ある楽曲の中からただ一曲「コレ」と選ぶ必然のない曲、面白味がない。もっとむちゃくちゃで破綻してもいいから、腹くくって自分をさらけ出さなきゃ。 さんまちゃんもしのぶちゃんも、舞台の上で「輝く」ためならどんなことでもやってしまう完全に壊れたプロの芸人(――ゆえに私は大好きだ)なんだから、実の娘がそれを踏襲しないでどうするっていうね。 両親への反抗心から、泥臭いことをせずに「モデル」だったり「女優」だったり「歌手」だったりをスマートにこなす、いわゆるアイドル的な《時代のアイコン》のポジションを目指しているのかもしらんけれども、仕上がったものは全て親の七光りを駆使した「ごっこ遊び」にしか過ぎないわけで。もう素直に頑張ってほしいというしかない。小手先でどうというより心根から変えねばいいものは作れない状態だよ、これは。 現段階において彼女の音楽は、良くはできてるが「親離れできない二世タレントの甘え」を表現した過ぎない。だから売れなくて当然だ。 (記・10.03.30)
◆ 戸松遥 「motto☆派手にね!」 (08.10.29/第10位) ふははは。なんじゃこりゃ。気づいてる人はとっくに気づいてるんだろうけれども、私は最近知ったので扱うぞ。 うちのサイト見るような人には詳しい人があんまりいないと思うので、まどろっこしく説明するけれども、これ、「かんなぎ」っていうおっきなお兄さん向けの深夜の萌えアニメのオープニングテーマなんですが。 そのアニメのオープニングテーマの動画が、これ→ttp://www.youtube.com/watch?v=J5gwVZkB8Fw はい、うちのサイトに来る人ならかなりの数これだけでぴんと来るよね。 つまりこれのパロディーだよね→ttp://www.youtube.com/watch?v=4jnRiXavjhU タイトルはもちろん、サビは「派手だね」→「地味だね」になってるし、歌詞の「ついてこい」ってボーイフレンドが柄にもなく強引にドライブに誘ってってシチュエーションもおんなじ。曲調も被ってます。 アニメのオープニングの映像もドラマのオープニングのふりつけやカット割をはじめ細々とオマージュしていまくってます。 ちなみにこのシングルのジャケットはこれ→ttp://www.amazon.co.jp/gp/customer-media/product-gallery/B001F6QIVS これは、この衣装がベースだよね→ttp://www.youtube.com/watch?v=5__Lk9XmlQE 何故このアニメがママアイのミポリンに照準を合わせているのかは全くもって不明。別に現役アイドルがヒロインのラブコメって話でもないみたいだし。 だいたいアニメオタクとアイドルオタクって今じゃ完全に分離してるだろうから、今のアニオタさんは誰も知らないだろうよ、こんな20年前のアイドルドラマなんざ。 ただの製作者の趣味なのか? こんなことしてもニヤニヤするのは松本隆センセーくらいだと思うぞ。や、松本センセーだけは喜ぶよ、これ、絶対。「星間飛行」書いた人だもん。 ま、ご本家と並べちゃうと劣化コピーっぽくも見えちゃうのがちょっと切ないけれども、でも時の流れって面白いよね、80年代のアイドルポップスなんてそれこそパロディ?パクリ?オマージュ?の集合体のジャンクな音楽っていうイメージが当時は強かったのに、20年もたつと今度はこうまで見事にパロられる側になっちゃうんだから。 この曲の、パクリかオマージョかリスペクトかといった諸問題に関しては、松本センセーも筒美センセーも日本のポップスはそういうものとわかっているから――ていうかご両人も色々とやらかしてるしね、まあ、問題ないでしょう(笑)。 (記・10.04.04)
歌番組が総倒れしたし、二十歳越えちゃったし、アイドルシンガー商売も難しくなった90年の満里奈、とはいえソニーレコード直結傘下のエイプリルミュージック所属としては、たやすく歌を止めるわけにもいかず、あえてセカンドステージに果敢に突入してみた、と。「みなおか」人気に引っ張られるように、男性ファンは元より女性ファン層も増えつつあったので、こういう展開もアリ、と読んだのだろう。 キャローンてわめいたり、へたうま漫画風エッセイ書いたり、ブレイクしそうなバンドの前をうろうろしたり、台湾グルメにはまったり、テラピィスだかなんだか癒しでロハスになったり、子供服のブランド立ち上げたり、と、その後の彼女のサブカルぶりっ子キャラは、このアルバムがはじまりだったんじゃないかな。 作品は悪くないんだけれども、小泉今日子のなり損なったような感じがしなくもなく。こういう企画って、歌い手は御神輿に乗せられてなんぼでしょ。なんか、周囲のお膳立て感が足りない。そういう意味では、いっちゃん愛のあるのがパーフリのお二人の作品で、ここだけが残るかな、と(――て、その後の噂の真相はワタシは知りゃしませんが)。 満里奈って、ソロデビューからこのアルバムの直前まで、山川恵津子をメインのサウンドプロデューサーに迎えて「女子高・大生版 竹内まりや」みたいなアイドルポップスでもあり、脱アイドルでもありという、おにゃん子系歌手としては異様に洗練された絶妙なラインの歌を築きあげていたわけで、それらと比べると、平板な「脱アイドル」だな、と、正直思ってしまう。 山川女史や大江千里や山本はるきちがいない満里奈の歌なんて、と思わせてしまうあたりで負け試合な企画なのだけれども、まー、本人がやりたかったんだろうなー。今までは大人に言われるままにオーダーメイドの服きてたけど、本当はあそこのお店で売ってるつるしの服が着てみたかったんだよ、と。うーむ。 (記・10.07.09)
◆ 原田貴和子 「彼のオートバイ 彼女の島」 (86.03.21/第68位/1.4万枚) 薬師丸ひろ子の妹分オーディションで原田知世に特別賞を与えたのは、バレリーナ目指していた姉貴狙いだったから、なんて逸話もあったりする、実は本命だった知世姉・原田貴和子の初主演映画と同名タイトルの主題歌。86年作品。 片岡義男の作品を大林宣彦監督で映画化させるという企画自体が土台無理モノだったとしかいえない残念な作品だったけれども、歌はなかなか(――って、カドカワ映画って、こういうパターン多かったよね)。 詞は御大、阿久悠。作曲は佐藤隆で、彼お得意のヨーロピアンなエトランゼポップス。「桃色吐息」とか、アレ系ね。詞に具体性がない所がちょっと減点だけれども、いい線行ってる。 ボーカルは妹の知世に似て清潔感のあるところが好印象、当時の知世よりもより安定した歌唱力と翳り漂う湿った雰囲気が妹の大きな違いかな。ポップスよりの妹と対照的に、しっとりとした歌謡曲が似合う感じ。他の歌も聞いてみたいな、と思わせるものがある 映画の不発と同様に歌も不発、翌年には家族でプロダクションを作って、妹ともにカドカワから独立。意外なほど歌にこだわった妹とは対照的に彼女の歌仕事はたったシングル一枚で終了することになる。 このあたりから所属俳優の独立が多発し、盟友だった大林宣彦とも決裂、映画の企画も二転三転するなど、角川春樹プロデュースによるカドカワ映画は空転していく――というのは別の話。 それにしても、渡辺典子といい彼女といい、おねーさんキャラがつくづく活かせない春樹っち。趣味じゃないなら雇わなきゃいいのにね。彼にしかわからん事情があったのでしょうが。 (記・10.07.10)
アイドル・歌謡曲系でテクノ・ニューウェーブ色を出した作品は、沢田研二「TOKIO」「恋のBAD TUNING」、榊原郁恵「ロボット」、桜田淳子「ミスティー」、いも欽トリオ「ハイスクール・ララバイ」、山下久美子「赤道小町ドキッ」などなど、シングル作品ではぽつぽつ出始めていたものの、アルバム一枚で統一させた、となると今作がおそらく初めてか、と。 一曲目のタイトル曲「不思議・少女」のイントロにぞぞ毛立ち「うお、コレは凄いアルバムかも」と期待高まるものの、続けて聞いていくと、案外フツーのアルバムかな、と思わせてしまうちょっと残念な一品になっている。阿久・細野の両御大は「不思議少女」とシングル「ねらわれた少女」は傑作なものの、なんかこのふたつで力尽きている感じだし、当時は新人だった清水信之の全篇アレンジも才気ばしっていていちいちカッコいい――「不思議なカ・ル・ト」「うんと遠く」あたりは必聴――んだれども、歌手置き去りしている感が強かったりして。 つまり、当時のスタッフが新たなアイドル像を作り出さんと全力で臨んでいたのかというと、少々怪しい感じ。なんとなく、既存のウワモノに真鍋ちえみというタレントを安易にパカっと嵌めた感じで――加藤+安井、大貫ら作品は顕著、それぞれが好き勝手にやっていて、その中心にあるはずの「歌手・真鍋ちえみ」の存在があまりにも希薄なのだ。眞鍋本人が好きな矢沢永吉風歌謡ロック入れろとはいわないけれども、歌手への愛が薄く、真鍋ちえみだからコレをやるんだという意気込みがあまり感じられない。いくら真鍋ちえみが歌手としてはまったく使いものにならないレベルの歌唱力だからといってここまでないがしろにされると「アイドル」歌謡としていかがなものか。 そもそも総合プロデュースの酒井政利が、82年の新人では三田寛子を兼任していたわけで――この時期のソニーの酒井陣営は三田寛子「夏の雫」(坂本龍一編曲)、郷ひろみ「比呂魅卿の犯罪」(坂本龍一プロデュース)など、YMO人脈を取り込んだ作品が多い、酒井プロデュースらしい豪華面子を揃えたアルバムではあったが、意気込みうんぬんに関してはやんぬるかな、というところなのだが。 スターボー「ハートブレイク太陽族」とともに、細野晴臣によるアイドルポップとテクノポップの融合は82年段階では、まったくのイカモノの類に終わってしまったわけだけれども、コレが翌年には松田聖子「天国のキス」、中森明菜「禁区」と当時のアイドル界の両巨頭にシングルを提供をして成功させてしまうのだから、面白い。84年には小泉今日子「迷宮のアンドローラ」、柏原芳恵「ト・レ・モ・ロ」で、筒美京平もアイドル歌謡テクノ化戦線に加わり、打ち込みサウンドは歌謡界に一気に敷衍していく。 (記・10.10.04)
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