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まこりんのつれづれなる日々



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2009.03.20

 いつも読んでくれてどうもでっす。まだまだ潜伏が長くなりそうなので、拍手レス、やってみようかなと思います。まずは現在残っているデータの最古の12/20〜31まで。この頃は、ジュリーのドームライブのライブレポの感想くださる方がものすごっっく多くて、それも泣けたとか感動したとかハイタッチな感想ばかりで、ありがたくも戸惑ったりしてました。

> 中山美穂のレビューの改訂版、拝見しました。
> 以前より曲単位の評価も増え、詳しい作家陣などよりディープな内容になっていたので楽しかったです。
> 何より評価されるべき作品が多いのに、世間では過小評価の中山美穂のアルバムをここまで愛を込めてレビューして下さる方がいるのは大変嬉しい事です。ありがとうございます。

 改訂してよかったっっ。当時はクオリティーより勢いが勝っていた感じですけれども、最近はもうちょっと文の精度を上げたいなぁと、ちまちま直したりしてます。



> まこりん様初めまして、nima(にま)と申します。
> 数年前から度々まこりん様のレビューを閲覧させて頂いております。
> いつも文章力、表現力、語彙の豊富さにとても感動しております
> 本日の午後に、WINKレコ大にて再結成とYahoo!のニュースに掲載されており、WINK好きな私はその記事にアクセスしました所
> なんと、まこりん様のWINKについてのレビューページが紹介されておりとても驚きました…凄い事だと思います。
> まこりん様のレビューが多くの方々の目に触れ、そしてWINKにも関心を寄せる事と思います
> それでは突然失礼しました。これからもまこりん様のサイト、楽しみにしています。お体に気をつけて頑張ってくださいね。

 アイドル歌謡としてもJ-POPとしても存在を忘れ去られがちだったWINKだけれども、私なりの役割は果たせたのかな? 



> 素晴らしい記事をありがとうございます。
> 読みながら涙が止まりません。
> ありがとう。ありがとう。

 サンクス。コレはジュリーのドームライブのかな?



> 沢田研二への愛ある長文に感動しています。

 愛ならあなたの心にも宿っているはずっっ。ジュリーへの思いを色んな方向から叩きつけCHINA!!!



> 沢田研二に関するエッセイを読ませていたできました。
> 再びジュリーがとても懐かしく思い出されました。数年前から昔よく聴いたレコードのCD盤を少しずつ買い集めて聴いています。
> 我ながら驚くことは、曲だけではなく歌詞もよく覚えていることです。美しかった頃のジュリーと心も体も幼かった自分のことが懐かしく思い出されます。今回エッセイを読ませていただいて、私の知らないアルバムに名作が多々あることを知りました。
> ジュリー再発見の楽しみができました。また、60歳記念講演の様子を詳しく書いてくださってありがとうございました。
> 歌も容姿も素晴らしいジュリーだけど、私がほれていたのは「男らしい」ジュリーでもあるのです。人がなんと言おうが、自らが信じる本当のもの美しいものを求めて我が道を倦まず弛まず行く潔さ。本当にそんな人だったんだなあ、私もがんばろう、と思いました。
> 貴方のおかげです。ありがとうございました。これからも私たち読者を楽しませてくださいね。お体に気をつけて。by 麓絵里

 個人情報があったのでちょっと割愛ね。うん。ジュリーって後になっていろいろと凄さとか素晴らしさがわかる、そういう歌手だなぁと私も思います。色んな歌手がいるけれども、清廉さという面においてジュリーに勝てる人っていないんじゃないかなぁ。



> こんばんは。昔、掲示板やメールでたまに感想を送りつけていた者(♀)です。今も拝見していますよ〜。
> まこりんさんのレビューには愛があるよね。
> ナンノの2枚目のアルバム、聴いてみたくなりました。「ブルーム」は当時聴いたことあったけど、さらりと流しちゃってたなぁ。
> 2枚目のアルバムの世界観の方が私は好きなのかも・・・。(ユーミンのミスリムとか好きなのです)
> うーん、でも、けっこういい年齢になってきてしまった今では、なんかこう、前みたいには聴けなくなってきてしまいましたね。「いい歳して、いつまで少女趣味なんだ自分!」とか思ってしまって。
> 「MAY」の歌詞の中で、「この夢から出られない」とか「この鳥かごを壊して」とかってありますが、
> 鳥かごを壊して、現実に目覚めるのって、あたしにゃー、ものすごい痛みだよと。
> そんなわけで今では、「MAY」とか、なんか聴くのがつらし。あれは夢見る少女だからこそ気持ちよく聴ける歌なのかなあ〜。
> ・・・嗚呼、何書いているのかわかんなくなってきたので、このへんで。
> これからも読ませていただきますね。がんばってください。 by Ring

 はいはい。覚えてますよ。永遠に夢から目覚めずに森茉莉みたいなおばあちゃんになればいいじゃーーん。ああいう痛い人、私は嫌いじゃないです。



> ジュリーの項目、拝見しました。80年代前半くらいまでは当たり前のようにジュリーの曲を聴いていましたが、その後しばらく離れてました。
> 最近TVで目にしたジュリーの活躍ぶりにまた魅せられて、東京ドームコンサート行ってきました。知らない曲が半分以上あったかもしれないけど、行ってよかった。
> 全曲、座って(立って)聴いてきました。またファンになりました。コンサートレビュありがとうございました。他のコメントもまた拝見させてもらいます。これからも頑張ってください! by なおみ

 ジュリー愛が復活したかっ。それはいいことだっ。昔のアイテムにも最近のアイテムにもいい曲いっぱい眠っているので楽しんでってね。



> 以前から時々おじゃましておりました。拍手ボタンに初めて気づき(失礼!)、改訂板に敬意を込めて押させていただきます。
> 今夏、十数年ぶりに聴いた南野陽子の「VIRGINAL」。そのさりげないすごさの虜となり、レビュー・サイトの検索をしてたどり着きました。
> じっくり読ませてくれるこのサイトは長いおつきあいになりそうです。
> ブログの方でしたか、「改訂の需要はあるのだろうか」といった旨のお言葉がありましたが、あります!ありますよっ! by 有伊

 はいどうも。ナンノもいい曲いっぱいですよね。最近はどうでもいい感じのタレントになっているのがかなりがっかりなんですが。歌、本気で取り組むわけにはいかんのかなあ、ナンノ。



> がんばってね by びー

 がんばってる。



> あなたのレビューをよんで谷山浩子さんを再発見しました。ありがとうございます。
> 本田美奈子.さんのレビューを読んで、特にファンでもないのに泣きました。聴けない「JUNCTION」の再発を願っています。 by へなへな様

 「JUNCTION」再発かかってないかぁ。亡くなって以降だと中古市場でも見つけにくいかなぁ。でもま、結構の曲がユニバーサル発売のベスト盤で聞けるのでそれでなんとかっっ。



> 面白いですね。Winkのアルバムレビュー、うちのサイトで引用させていただきました。 by 悪七兵衛景清

 あいどうもです。



 てわけで、気が向いたら、拍手レスシリーズの続きやりまっす。



2009.03.14

 只今サイト運行休止中。なんか素敵な日記書く気分でないのです。落ち込んでいるとかそういうのでなく、純粋に今手にしていることでいっぱいいっぱい。
 いつでも気はせっかちなのに、手はドジでのろまなカメなんだよう。やりたいことが多すぎる自分がいけないのでしょうか?



2009.02.25

◆ 石原真理子、玉置浩二、結婚

 DV男と暴露本女、夢の共演。
 まだ玉置浩二の奥さんが薬師丸ひろ子だった頃、音楽的にはソニーに移籍して、須藤晃プロデュースのもと、和製ブルーススプリングスティーンみたいになっていた頃、作詞家と作曲家、監督と役者という関係だった久世光彦が自著「人恋しくて」において、彼を「人たらし女たらしの稀代のろくでなし、けれども彼に接した男は全て彼を赦し、彼に接した女は全て彼に抱かれたくなるだろう」――といった(類の)ことをいっていたのだが、その時の彼の一般的なイメージとその評はあまりにも乖離していたので、どうにも私はぴんとこなかった。しかし、今ならわかる。本当にそのとおりなんだな、と。
 ってか、今朝起きて同棲報道で慄いたのに、今帰ってきたら、もう結婚しているよ。エンターテイメント性ありすぎだろ、おい。
 墜ちた星同士、なんて言い方してしまったらものすごくロマンチック、DV男との共依存といってしまったら、身も蓋もない。
 でもね、本気で愛しあう男女ってのは、少なからずともこのふたりのような、のっぴきならない部分、お互いが浸食しあって、愛憎の腑分けが不可能なくらいに縺れあい絡み合い、お互いがそれぞれの存在証明にまでなってしまう部分ってのが、あると思うんだよね。
 それを汚いとか愚かだと、私は思わない。とても人臭いなぁ、と思う。それを億面なくさらけ出す彼らは、ある意味とても正直なのだな、と感じる。
 んじゃ、私がそういう恋愛したいかとなると真っ平ごめんなんですが。でもね、誰にでも、その陥穽にはまる可能性は、あると思うんだよね。失われた自らの半身がそこにある、と、思ったときに、冷静になれる人はいないはず。
 理屈じゃないのだ。それは信仰なのだ。
 もしふたりがまた別れたとしても、結局はお互いがお互いにとって唯一の人であることは永遠に変わらないんじゃないかな、と思う。それは業なのだ。
 そして、業が深い人ほど、表現者として優れているのだ。だから玉置浩二が役者として歌手としてメロディーメーカーとして優れていることとこの件は、まったくもってリンクしているので、ファンは諦めるしかないのである。嗚呼。



2009.02.24

 よし、終わったっっ。
 今まで日記に散らばっていたミニレビュー的なテキスト、先日、音楽系に関してのみまとめましたけれども、今度は小説・漫画系をまとめてみました。あと、音楽系のも、漏れてたのも、足してみたり。
 ついでに漫画系のメインページもほんの少しだけ整理してみました。これでまた少しは読みやすくなったかな。
 まだまだ語り足りていないというか、自分の目標としている地点には達していないという気持ちが強いのですけれども、それでもこうして整理して改めて読むと、結構なボリュームですよねー。



2009.02.08

◆ 埋め立てる

 あまりこのサイトで云っていないことだけれども、わたしは日本地図を見るのが好きだ。
 今の地図を見るのはもちろん、ちょっと昔の高度経済成長期の、あるいは大正・明治期の、もっともっと昔の江戸時代以前の古地図と呼ばれるものも、あるいは国土交通省で公開されている航空写真など(――戦後直後の米軍が撮影したものは必見)もひっくるめて、好きだ。ただ漫然と見るのもいいけれども、歴史と重ね合わせながら時代ごとの移り変わりを見ると、そこに交通や産業・経済の移り変わりが、立体的に見えてきて、ぜんぜん飽きない。

 そのなかで昔の地図を見ていていつも驚くのが、今は陸地であるところが、川の氾濫原であったり、湖沼であったり、海であったり、というのがとても多いことである。
 例えば東京駅付近。徳川家康が江戸城入城する以前のそこは日比谷入江といって、まさしく海だったのだそうだ。
 また品川駅付近。明治期にはじめて鉄道が敷かれた頃から品川駅は今の品川駅の場所にあったのだが、その頃、ホームは海岸の波打ち際だったのだそうだ。それが証拠にJR横須賀線の地下区間(品川〜東京)は近年、地下水位が上がり、さながら水中に漂う潜水艦といった様相を呈している。構造物全体が海水まじりの地下水の浮力で浮きかねない状態で、数年前に地下構造物全体に負荷をかけるおもりをつける再工事を実施した。
 さらに大阪駅付近。大阪駅の構内を歩いていて、やたら小さな階段が多いことに気づかないだろうか? 地下水汲み上げと軟弱地盤に建物が耐え切れず、百年も経たないあいだに、駅自体が(いまでも)少しずつ沈んでいるのである。「梅田」は「埋め田」から転じた言葉。一帯は元々埋立地なのだ。後づけされた小さな階段のほかにも、よく見ると駅の各所に建物全体が沈降している証拠がみつかるはずだ。
 また瀬戸大橋の岡山県側の出入口の倉敷市・児島。陸続きで児「島」という地名は不思議に思えるかもしれないが、室町時代にこの地方で干拓が行われるまでは、本当に本州と切り離された瀬戸内に浮かぶ島だったのだ。
 また、昔は「香取海」という内海があった。今はもうない。しかしその跡なら今も残っている。
 千葉・茨城の県境付近。現在の利根川流域の霞ヶ浦・北浦・印旛沼・手賀沼・牛久沼などが、それだ。
 それらは中世以前、ひとつの川だか湖だか海だかよくわからないが、一体となってひとつの水域をなしていたのだそうだ。それが江戸幕府の有名な利根川の東遷事業をはじめ、現代にいたるまでの様々な治水工事と干拓によって、今の形になった。

 http://members.jcom.home.ne.jp/2131535101/unakami2.htm

 「古事記」でイザナギ・イザナミが陸地を作る記述がある。
 天沼矛で水だか大地だかよくわからない混沌としたなにかをかき混ぜると、なにかが矛から滴り落ちた。それが積もって島となった、という。
 つまりは、有史以来現在にいたるまで日本人というのは、そうやって、矛をかき混ぜるように、縦横無尽にうねりのたうつ川の流路を整え、堤防を作り、湖沼を干拓し、浅瀬を埋め立て、陸地だか水辺だかはっきりしないようなところをむりくりに陸地にと区分けして、農業地に工業地に商業地に住宅地にとしてきたのだということが、実感としてわかるのがとても面白いな、と、わたしはひとつ悦に入るのである。



2009.02.07

 んーと、百恵ちゃんの「ささやかな欲望」のミニレビュー、先ほどここにアップしたのですが、興が乗って、「白い約束」「横須賀ストーリー」と続けて出来たので、ここでなく、まとめて本サイトの方に移してアップしますね。
 あと、すんげー久々、二年ぶりに少女漫画の、テキストを本サイトであげてみました。
 需要がないところへの供給ですけど、いいもん、自分が書きたかったんだからっっ。



2009.02.06

 先日唐突に敢行したネットラジオ―――まったくのリアクションがなく、あぁ、やっぱりキモかったんだろうなぁ、と反省しているまこりんです。
 「やっぱり」ってハナっからわかっていたんかい? まあ、少しはね。
 んじゃ、なんで、こんな企画をしたかといいますと――。
 遠い昔、あるサイトで、こういう企画をされていたのですね、んで、その時それを聞きつつ、たまたまその場にいた友人に「これってどうなん?」と色々と語っていたところ、「そんなにダメ出しするってことは、まこ、さては自分でやる気があるな」と、云われまして、「えぇ、そんなつもりないよぉ。自分の声、舌ッ足らずで甲高くて嫌いだし」とか、なんとか、そういう感じだったんですが。
 そのサイトのオーナーが亡くなられた――しかも数年前に、というのをつい最近、知りましてね。
 「あぁ、そうなのか」という思いと共に、そういえば、と。
 あの時、友人相手にあんなことを言ったけれども、あんた、あの人のこと云えるの? と。
 言ったなりの責任、取るべきなんじゃないの? と。
 自分も晒してみろよ、ナマ声を、普段の喋りを。と。
 けじめつけろや、と。
 そんなこんなで、そのサイトオーナーへの鎮魂、という意味もあってやってみたのでした。
 わたし自身は繋がりのあった方ではないのですが、当時のネット友のネット友、という感じで、うん、少しばかり意識した時もあったかな。懐しい思いと共に――合掌。
 ――ってわけで、今後定期的にやっていくことはないのだよ、○○君。
 ネットもいろいろあるやね、いろいろ。



2009.02.05

◆ ゴシップという二次創作

 わたしのサイトにあげているテキストを、ある友人は、よくできた二次創作だと、云った。
 そういうことになるのかもねと、私は返した。
 私の取り扱うメディアで取り沙汰される人たち――彼らはなにを思い、考えているか。
 様々に憶測が飛び交う時もあるだろうそれを知るというのは、本当は誰もできないとわたしは思っている。
 「誰も」だ。肉親や本人すらも、それはできないのではなかろうか。
 業界人風を吹かせる人が「あいつは本当はね――」であるとか「裏側でこんなことが――」というそれら、あるいは関係者、消息筋からと流れるまことしやかな噂、それらは、誰かにとっての「事実」ではあるのだろうけれども、それがたったひとつの「真実」とは、私にはどうにも思えないのだ。
 「関係者」――例え本当に関係者であっても、はたしてすべてがわかるのだろうか。自分に引き寄せて考えればいい。会社の同僚や上司・部下を言うには及ばず、親・兄弟・配偶者にすら、云わないでいる感情や思考など、山ほどあるではないか。
 では「本人」の発言ならば、それは真実なのか。それも違うだろう。無意識下に眠り気づかずにいること、あるいは意図的に抑圧してなかったことにしていること、気づいてはいるがわざわざ云わないでおいていること。いくらでもあるだろう。
 語られる、あるいは目に見えるそれらは、すべてが、ある人から見たある一面に過ぎない。
 とはいえ、わからないのだからわからない、というわけにもいかないので、なんとかする。
 そうやってわたしは、手札の情報を取捨選択して、物語――のようなもの、にする。あくまで物語、だ。
 それはわたしの願望や欲望がつまった極めて個人的な物語だ。いくらわたしの副次的な物語を多くの人が共感し、「関係者」や「本人」がみとめようとも、それはかわりない。
 たまたま、その人の内包する物語とわたしの物語が響きあったというだけに過ぎない。たったひとつの真実であると思い上がることなどわたしは出来ない。
 だからわたしは、ゴシップ・ジャーナリズムの醜さをなによりも嫌悪する。
 彼らは、内幕をしたり顔で暴き、これこそが真実だと嘯いているようでいて、ただ「金と色」というわかりやすい欲望の定型に嵌め――結局語っている者自身の自らの内面の浅薄さを披瀝しているにすぎないからだ。
 二次創作として、それらはあまりにもレベルが低すぎる。まあ、彼らは、まさか「創作」などとは微塵も感じてはいないのだから仕方なかろうが、わたしはその程度の創作であるなら、それを必要としない。
 語るということは、鏡だ。醜く浅薄なことしか語れないのは、その人が醜く浅薄だからだ。
 だからまあ、わたしも、テキストにあるような人間なのである。
 オチてない感じもするが、今日はこれまで。

 ついでにひとつ。
 経験則から云うと「関係者筋」の話よりも、「熱狂的なファン」の方が深みのある「創作」をしてくれるような気がする。
 ファンの方が、付け焼刃の「業界関係者」なんかよりもだんぜん手持ちの情報量が違うのだ。




2009.01.29

 夢の中で何度も逢う人がいる。夢の中で暮らす街がある。夢の中にわが家がある。
 現実世界ではまったく知らない、かかわりのない、あるいはもしかしたらどこかで見かけ、表層の意識では忘れた景色や人物なのだろうか、わたしは、何度もその景色を見、その人たちに会う。
 あるいは、広い原っぱの中にぽつねんと立つ、茶色の、古びたアパートメント。あるいは、人の住み着かなくなった、緑の生い茂った、山がちの廃村。雨が降り、日が照る。明かりがつき、明かりが消える。何かの気配がよぎる。歩く。歩く。止まる。ふりかえる。座る。誰かが話し掛け、わたしは応える。
 特にどうというでもない、わたしが好意を抱いているのかも、そうでもないのかも曖昧とした、それら。
 もうひとつのわたしの日常として、夢の中にそれはある。起きた後に、ああ、見たなぁ、と思う、それだけなのだけれども、それらは、私のなかに棲みついている。
 それらはいつもうら寂しく、奇妙な薄ら寒さと相反する慕わしさをわたしはいつも覚える。なんだか恐くて、だけれども、悪い気はしないのだ。
 私はそこから来たのだろうか、それともそこに帰るのだろうか。



2009.01.23

昨日アップしようとしてできなかった山口美央子の全作レビューと、あとひっそりとジュディ・オングのベスト盤、アップしときます。 そうそう、web拍手をつけた効果か、6年目は、いつにもまして感想をもらう機会が増えました。まことにありがたいことです。どんな感想もありがたく拝見してます。 なかなか返信らしい返信というのも難しいんですけど、機会がありまりましたら、またどうぞ。



2009.01.22

◆ 祝・6周年

 今日はサイトの誕生日。6周年、おめでとう自分。ありがとう自分。
 6年目は、前半は明らかにやる気を失っていたけれども、10月頭にインデックスのデザインを変更してから結構いろいろと書けるようになったのでよかったかな。
 全作レビューもWinkとか八神純子とか本田美奈子とか加藤和彦などなど、一年以上前にはやろうと思っていたけれども、なかなか手をつけられなかったものを思い残しなく書けたし。
 あと、ジャケット画像や細かいデータや曲目をプラスしたり、ある程度デザインを整えたり、日記に書き散らしたレビューをまとめたのも、ここ半年の作業。これも手間だったけれども、多少はアーカイブとしても扱えるようになったかな。
 これくらいまで完成度を上げれば、例えぴたりと更新が止まったとしても、その後もある程度データとして使ってもらえるんじゃないでしょうか。
 わたしのサイトは、後からやってくる人への道標のひとつにつかってもらいたい、というのがとても大きいので、それに少しは近づけたかな、と。

 中森明菜、斉藤由貴、薬師丸ひろ子、中島みゆき、沢田研二、郷ひろみ、吉川晃司、谷山浩子、加藤登紀子、浅川マキ、などなどなどなど。好きになったアーティストのそのすべて、わたしは後追いで入ったので、既にリリースされている膨大な作品群と、当時の、インターネットの影すらない乏しい情報量に、一体どれから聞けばいいのかと、昔の私はファンになるたびにいつも途方にくれていた。
 曲目から、ジャケットのアートワークから、あるいは作家、あるいは売上データ、あるいは収録シングル、あるいは前後作の出来など、様様な、しかしその時々によって偏りのある情報を片手に、少ない軍資金から馬券や宝くじを買うようにCDを買い、あたりだはずれだと一喜一憂する。それが10代の私だった。
 ま、それはそれで楽しかったけれども、かつての自分がこんな雑誌や本(――当時はネットなんてなかったからね)あったら便利に感じただろうなあ、という、そういうのをわたしはサイトでやりたいと思い、続けている。もちろん開設当初からといったら嘘だけれども、サイトが多くの人に見られるようになったここ数年は、そういう心つもりなのだ。
 だから、このサイトを読んで、買って、聞いてくれるのが、わたしは一番嬉しい。
 そしてそれを積み重ねた結果に自分なりの見識というのが出来たなら、いつでもわたしのサイトなんて忘れてくれていいんだよ、とも思っている。
 私の解釈やらなんやらが唯一絶対だなんて思わないもの。合わないな、ずれがでてきたなと思うほど自分の見識が確かで豊かになったなら、今度は自らサイトを立ち上げて、多くの人に紹介して欲しい。もしかしたら今度は私がそのサイトを訪問するかもしれないし。
 インターネットの情報発信の自由さは、そういう風に広がってくれたら、いいと思いませんか?



2009.01.20

◆ 華原朋美にまた脆弱性が発見されました 

 ホッテントリメーカー (http://pha22.net/hotentry/) で「華原朋美」と入力して一番最初に出てきたのが、これ↑だった……。ドンピシャすぎて、哀。

 華原朋美が今度は急性薬物中毒で倒れたらしい。
 友人の家に遊びに行った時、そういえば、という感じで、話を切り出された。
 「朋ちゃんの家、ここからすぐのところなんだよ」
 「へー、随分庶民的なところに住んでいるんだな」
 「うん。それまで知らなかったんだけれどもね、小室哲哉が捕まった時に、報道陣が鈴なりでね。へー、ここなのか、と」
 見に行ってみる? そう、聞かれたけど、なんだかそういう気分になれなかった。
 華原朋美がなにやらやらかすと、物凄い勢いで当サイトに訪れる人が増える。あのテキスト、軽く一万人以上は見ているだろう――けど、わたしは全然嬉しくない。
 本人も、また私たちも、忘れることが一番の幸せだと思うからだ。
 笑い話にできる日が、いつか来ればいいのだけれど。



2009.01.19

◆ 白熱灯がなくなるらしい

 そういえば、先日、電球・蛍光灯関係のコーナーをうろうろしてた時に、2012年を目処に従来の白熱電球は生産中止する、という話を聞いて驚いた。
 実際、東芝は来年で製造中止を決めているという。省エネ対策として経産省が打ち出したそうだが、はたしてそんなことできるのだろうか。そのアナウンスが書かれたポップの隣の商品陳列棚には格安の白熱電球がずらりと並んでいる。
 確かに電球型蛍光灯のほうが省エネだろうけれども、スイッチ入れてから店頭に一瞬間があるし、つき始めは暗いし、なにより1個あたりの単価が高い。値段、五倍から十倍だよね、だいたい。つけっぱなしのところは蛍光灯のほうがいいだろうけれども、ぱちぱちつけたり消したりするところは従来の電球のほうが絶対安上がりだと思うんだけれどもなぁ。
 これもエコ換え商法の一環? それともあと三年の間に、さらに省エネのLED型電球の改良と低価格化をおしすすめるとか?
 テレビの地上波デジタル化と同じように、なんだか画餅になりそうな気がするんですけど、業界団体はこれからなんとかするのでしょうか?
 素人にはわからない領域です。



2009.01.17

◆ エコ換え

 行きつけの大型の100円ショップ、ナツメ球(――常夜灯用に使う、ちっちゃい電球ね)のLEDバージョンを見つけた。0.5Wで白色。使用は標準で約50000時間。
 ちょうど台所の常夜灯に使っていたのが切れていたので、ひとつ買ってみる。つけてみる。いつもの5Wで橙色のよりも多少暗いけれども、色味がなんか好きだな。月光のように青白い。これで電力1/10なら、ぜんぜんありだな。てか、安いよね、これ。
 翌日、調子に乗って、白色のLEDナツメ電球三個購入。元々普通のナツメ球の色味、あんまり好きでなかったので居間とか寝室の照明にはつけてなかったのだ。んなわけで、これをつけてみる。まこ、ご満悦。1個橙色のモノを買うけど、これははずれ。暗すぎて使い物にならない。
 さらに、なにかないかとうろうろとしてみると、315円でコンセントに挿すタイプのLED常夜灯を見つける。センサーが働いて、暗くなると勝手に点灯、明るくなると勝手に消灯、という仕組み。1wで、発光は白と青の2タイプ。これは、使えるかも。2個試しに買ってみる。
 ひとつを照明も窓もなく薄暗い階段下においてみる。うん、使える。明るすぎもせず暗すぎもせず、いい感じ。このあたりから、照明そのものに対しての、興味が出てくる。
 うちの家人はなんでも「ぱなし」の人間で、うっかりすると水道の水も流しっぱなし、風呂釜のガスもつけっぱなしにするというダメダメな人なので、もちろんも明かりもつけっぱなしは基本。消し忘れてもなんら悪びれることない人間なのである。――と、そういう人相手にして、低電力というのは、大変な魅力。
 そんな家人のあかりの消し忘れが特に多い階段とトイレは、なんとかしよう。そんなこんなで、色々調べる――って、白熱電球って、物凄い電力食うのな。これも変える気分になった今のうちにやってしまおう。
 階段は、たいていは行き来するだけで、足元が見える程度の明るさでいいのだから、ここは分岐ソケットをはめて、LEDの白色ナツメ球を新設。
 トイレは、ほぼ毎日消し忘れが発生している、というか消してある時間のほうが短いくらいなんだよな。陽の光が入って明るい時でさえつけたままになってたりしているし。うーーん。この315円のセンサー式のLED灯をふたつつける、というのはどうだろ。これなら、昼間につけっぱなしというのはまったくなくなるし。コンセントに変換するソケットをはめて――。でも、さすがに暗すぎるか? でも、トイレにそこまで晧晧と明るい必要もないんだよな。くつろぐ場でもないし。
 色々と考慮しつつ、今度はホームセンターへ。わー。いろんなものがあるねっっ。様々な材料を前に、これを使って、いやいやこういうのは、それともこうか、と、シュミレーションでアゲアゲになる。不意に冷静になり、当初の予定通りのものを買い、セッティング。
 階段、問題ないな。
 トイレ、こちらも問題ないかな。このくらいの暗さなら、支障はないだろ。一緒に買った13wの電球型蛍光灯とつけ比べてみる。そんなにってものでもないな。
 さらに玄関と風呂場の明かりを白熱電球(60wと100w)のから、先ほどトイレで試した13wの電球型蛍光灯に変える。そうそう、電球型蛍光灯、つき始めが少し暗いのが貧乏くさい感じなんだよなぁと、ふと、思い出す。ま、いいんですけど。実際貧乏なんだし。
 色々あって、灯りを低電力のものに総入れ替えしたけれども、はたしてこれがエコ換えなんでしょうか?
 正味のところ、コスパ的にどうなんでしょうね。あきらかに、ただやりたいからやっただけで、減価償却(――って言っても総費用3000円ちょっと)まったく考えなしなんですがっ。LED灯、五万時間持つというのも、どうにも眉唾。まだ出てまもない商品ですもの、私は信じてませんよ、ええ。
 今階段のところをみてみたら、スイッチが切ってあるのに、ほんのちょびっとばかりLEDナツメ球がついている。どうやら、電源オフにしてもごく微弱に流れている電気に反応しているっぽい。恐るべしLEDの省電力。
 ちなみにわたし、必要のない灯かりはぱちぱち消す派、薄暗いの大好き。とはいえ、読んだり見たり、書きものしたりするような場では、ぱっきりと明るく白い明かりでないと嫌、居間とかをやたらめったら暖かみのある電球色とか間接照明とかにしてふんわり薄暗くするその雰囲気作りを、余計じゃね、ってか本が読みづらいじゃねぇかっ、字が書きづらいじゃねぇかっ、という人でもあります。
 果たしてこの交換、吉と出るか凶と出るか。



2009.01.15

なにこれ、なんか感じ悪くない?
まこの好きアーティストの、やな感じのレビューを読んでしまい、こんなんじゃないもんっ、プンスカっっ。
――といきり立ち、勢いで全アルバムレビューを仕上げてみました。
今回は、鬼束ちひろ。
ちなみにまこが、感じ悪ぅい、とおもったレビューはこれ→

――って、自分が6年前にうっかり書いたレビューやんっっ。
評判悪いよねぇー、まこ。
――てわけで、この「Suger high」の感想文も、あんまりにもあんまりだった部分は削除・改変してしまった。



2009.01.14

 日記で、ちょこちょこっと書いて散漫になっていたミニレビューやら雑談やら、アーカイブとして使えるようにテーマごとに編集してhtml化してみました。
 ひとまず、明菜モノ、ジュリーモノ、それ以外のディスクレビュー、といった感じで。
 それだけだと芸がないので、安室奈美恵の「Play」とか、小林麻美や藤真利子のアルバムなど、アップし忘れていたものが出てきたのでそれらもまとめてみました。
 需要の高いだろうモノだけ手をつけてみたけれども、これ、漫画・小説に関しても、やったほうがいいかなぁ。



2009.01.10

 おまた。
 というわけで、このサイトをチェックしている人のほとんどが「これ、まこは書かないのかよぉぉぉっっ」と思っていただろう年末三連発。谷山浩子+手嶌葵ライブ、斉藤由貴ライブ、中森明菜のニューアルバム「フォークソング」の感想的な何か、書いてみました。
 このどれもが興味ね―やっていう人は、さすがにうちのサイトでは少ないでしょうよ、多分。
 ついでにGoogle検索もindexにつけてみたり。09年、このサイトもようやく始動ですねっ、せんせーっ。



2009.01.05

 賀春。年明けということで、殊勝な話でも。

 「きっとわたしも見透かされているのだろう」と、最近、よく思う。
 誰かの話を聞いて、嘘だな、と思う。誰かの行動を見て、浅ましい、愚かだと思う。私がそう思うのと同じように、わたしもまた、そのように誰かから見透かされているのだろう。
 だから、最近、わたしは、ここでなにかを書くというのが以前と比べて少しばかり、怖い。多くの人がわたしのテキストを見ているという事実がわたしをひるませる。
 とはいえ、ご立派な、誰も否定することのできないご高説やら正論やらを語るのもなんだか恐ろしい。

 私が最近好きな歌に高橋鮎生の「The Holy Man and the Sinner Within」というのがある。英語で歌われているその詞を概要は、以下だ。

 ――誰もが敬う丘の上に住む聖者、しかし彼の内面にはつねに狂気が巣食っていた。そしてある日、彼はコントロールを失った――
 ――天国を見まがうほどの、平和で調和が完璧にとれた村、しかし穏やかそうに見えるその村人たちの奥底には深い怒りが眠っていた。ある日、殺し合いがはじまり、そして村は崩壊した――

 真、善、美。それはとても素晴らしいことに違いないが、ゆえに、遂行するのは、難しい。 聖人たらんとするのは立派なことだけれとも、そんなに簡単に聖人になれるほど人間という生き物の業は浅くない。罪は内へ内へとひずみ、そしていつしか奔流なって、外に溢れるだろう。

 わたしのサイトにある文章は、はたして「評論」なのだろうか。これもまた、最近よく思う。
 ワン・オブ・ゼムである「私」という人格が、なにかに触れた時に思う、感想であったり、意見であったり、という程度で、もちろん、私にとって、それらは正しいものではあるけれども、わたし以外の人間にそれが通じるとはまったく思っていない。
 わたしがそう思うように、それぞれがそれぞれの真理なり正義なりを信奉していただければいいし、それを侵犯するつもりはない。
 「評論」の持つすべてを貫く客観性、普遍性、真理を捉えようとする透徹さを、わたしの言葉は持ち得ないだろうし、そもそもわたしはその厳しさに耐えうる人格を持ち合わせていない。
 ――が、しかし、わたしの言葉をそのようなものとして、受け取る人が最近少なくはない。そして、そのような言葉を意識してしまう自分に時々気づき、そら恐ろしくなる。

 丘の上の聖者は、最初から聖者たらんとしたのではないだろう。
 聖者だと周囲から敬られたから、聖者になろう、そう思ったのだろう。

 美しいものは美しいし、すばらしいものはすばらしい。だけれども、わたしは、浅ましい。わたしは、弱い。わたしは、愚かしい。
 それを自覚し、どうしようもない自分を小出し小出しにさらけ出して、生きていこう。
 まあ、自分も、たいしたものではないけれども、そこにいるあなただって、結構お互い様じゃないさ。
 と、いうわけで、今年のわたしのテーマは赦しと愛にしたい、というのは嘘だが、まぁ、そんなこんななわたしなのである。
 もうちょっと、色々と気楽になれたら、いいよね。あなたも、そしてわたしも。




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