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まこりんのつれづれなる日々



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2006.10.29

 仕事中に、唐突に短編小説のプロットがひらめいた。
 冒頭の一説から、しめの言葉まで、パッとでてきた。
 うちに帰ってきて、それをパソコンでまとめる。
 思いついてからまとめるまでのタイムラグで、いろいろと細かいディテールは抜け落ちてしまったんだけれども、ひとまず、覚えている概略でいうとこんなの。

 ――とある時代、とある田舎の、由緒正しい旧家の蔵の中に幽閉されている白痴の美少年。 彼は微笑むことと唄うことしか知らない。彼はいつも土蔵の中でわらべうたを唄っている。
 そんな彼を溺愛するひとりの異母兄がいる。彼は、異母弟を強く愛するがゆえに、彼に苛烈な運命を与える世界を、彼を庇護しきれない己を憎んでいる。 その村に、ある著名な作曲家が訪れ、彼の歌声を耳にしたところから悲劇の歯車が回りだし――って、ふっるーーっっ。いったいいつの時代の小説JUNEだよ。

 あんまりにも古すぎて没だなとおもいながら、もののついでにキャラクターの名前をひねり出してみる。
 シャレで、白痴の美少年の名を秀人にして、その兄の名前を泰徳にしてみたら、――なななななんか、ツボにはいった。
 秀人の、ぽけっとあいたくちびるに小指で紅をのせる泰徳、とか、長襦袢を一枚はおっただけの白痴の秀人が、満月の夜の、人気のない水のほとりをふらふらと徘徊したりして、それを必死に探し出す泰徳とか、いいかも。 もしお望みであれば、ちゃんと書いてみますが、hisui先生。と誘い受けしてみる、の回。あぁ、それにつけても、小説書きたい。



2006.10.24

 松本隆の「風待茶房」をうろうろしていると、中森明菜の「落花流水」に関するテキストを見つける。

 http://www.kazemachi.com/cafe05/kisetsu/kisetsu_main_004.htm

 「落花流水」がクミコの作品に近い位置というのが、一瞬、え、という感じ。ちょっと意外だ。 とはいえ、クミコの歌った「鳥の歌」なんて、明菜が歌っても、いけそう。
 松本隆は、90年代の作品からクラシックとポップスの融合をどこか念頭においているように感じられるけれども( 詞作に関しても古典文学を意識したものが多かったりするしね )、 そういう作品を明菜でも1枚、アルバムで残してほしいよなぁ。
 わたしがプロデューサーだったら、全曲松本隆作詞・書上奈朋子作編曲・中森明菜歌唱でクラシックを基盤にしたエレガントでアバンギャルドでエロティックなアルバムを作ってみたい。っていうかただひたすらにそういうアルバムがわたしは聞きたい。

 あ、そうそう、アルバムバージョンの「落花流水」、ミックスを変えて弦の音を前に出し、さらに幻想的なアウトロとイントロをプラスしたことで、しっとり感が一気にアップ。 これはかなり正解。この曲の持つ世界観をほぼ100%表現できているんでは。 エレガントに淫ら。これっすよ、これ。
 って、日記でネタを小出しにせずに、いい加減きちっと「Destination」のレビューを書きたいわ。

 ところで、「落花流水」の本当の意味って、なんなのでしょうか。松本先生。



2006.10.21

 たんなる偶然なのか、それともなんらかのブレイクポイントがあったのか、 近頃、やたらサイトに対するメールを頂くことが多い。
 好意的な感想がほとんどでありがたく読ませて頂いているのだが、批判的な内容のものや、 なぜわたし宛なのだろう、というよくわからない自分語りのメールも多少はあったりする。
 なかには、ドイツのとある大学のかたから、日本学の論文に使いたいんですけれども、 などというものもあったり。 す、す、すげーぜ、ウェブ、世界に通じているぜ、と、当たり前のことに改めて驚いてしまう。

 ただ、メールをもらっていつも不思議に思うのだが、なんでメールをくれる方たちは、自分でブログなりサイトなり、開かないのかなぁ。 感想文に感想を送るなんて、まどろっこしいことよか、自分で自分なりの感想書けばいのに。
 特に批判的なメールや自分語りのメールを送るかたには、強く思ってしまう。
 なんの権威も権力ももたないわたしを説諭して考えを改めさせるより、わたしの視点とは違う自分なりの感想を書いて、どこぞにアップして世に問うたほうが、よっぽど合理的だし、ウェブの世界がリテラシーという面においてより豊かになるのに、と。

 悪評でも絶賛でも、一面的な評価しかないものというのは、なんだか、怪しいわけで。 人それぞれ、好きなもの・嫌いなものは違って当然。  多様な感想を聞いて、へぇーー、こんな見方や感じ方もあるのね、ってしたいのにっっ。なんでそうしないのかなぁ、と。
 ウェブは、誰もが情報を発信する権利を与えられているというすばらしいメディアなのに、なんでそんな新聞の投書みたいな、旧時代的なまどろっこしいことをするのかなぁ。
 というわけで、わたしのテキストを読んで感銘を受けた人も受けなかった人も、不愉快に思った人も、みんなみんな、サイトを開いてください。や、まじで。わたしはそれを熱望しています。
 そんな感じで、もっともっと素敵なカオス状態になればいいのにっっ。



2006.10.20

 続いてhisuiさんとのお話。
 中島梓さんの自身のサイトの日記での「1兆ってどれくらい? 1兆は10億? それとも10000億? 広辞苑ひらいてもよくわかんね―よ」という発言 ( かなり意訳 ) に眩暈を感じ、 これじゃ本物の、素の、100%ピュアまじりっけなしのお馬鹿さんじゃんかよっっ、としみじみ家人と語り合ったあとに、 hisuiさんに話しをふったところ、
 「それって、別に普通じゃないの?」
 ――え?
 「や、でも数の単位って、小学校で九九の次くらいに習う分野ですよ ?」
 「だってわたし、九九の七の段が怪しいし、分数の割り算ができないしっっ」
 「や、でも、九九とか兆とか、社会生活で使うやん。兆とか、普通に新聞で『○兆円の経済効果を生む』とか、使うし」
 「でも、九九の七の段が怪しくっても、困らないもんっっ。実際生きていけるもんっっ。兆だって、なんか凄いいっぱい莫大な数、ってぼんやりした認識でなんとかなるじゃん。逆にまこりん、どんだけエリートに囲まれているんだよっ、て感じだね」
 「ええええっっ、そういわれちゃう !?」
 というわけで、エリート呼ばわりされたまこであった。
 本気の文系女性をオレは甘く見積もりすぎていたのかもしらんな。ここまで数字がどうでもいいとは……。
 とはいえ、自分では「みんなが知っていること」と思っているものが、あっけなく覆えされたりということが近頃多くて困る。 自分の知識・知性のレベルは偏差値でいうと55〜57くらいかなぁ、と思っていたのに。



2006.10.19

 と、いうわけで、前回は吉川×ヒムロックやおい話をしたわけだが、そしたら 読者の方から「その昔、わたしは布袋×ヒムロック派でした」とのメール。
 や、やはり……。
 やおい界の広さは少女の煩悩の広さと同じ、広大にして無限であることよ。 良くも悪くもしみじみ感心。

 そこで「ボウイって、やっぱV系元祖だから、当時はやおいネタとしてもそこそこ成立してたんですかね」
 と、V系バンギャル20年選手の毎度お馴染みhisuiさんに話し掛けたところ、
 「元祖もくそも、そもそもボウイはV系ぢゃねーー―よぉっっ」
 と、明後日の方向でいきなり切れられた。
 しまった。なんかよくわからんが、地雷踏んだ?
 ボウイをGLAYやラルクとおんなじ箱に入れんなよ、お前ら、ということでひとつ。



2006.10.16

 ぬはははは。無茶だ。
 若き日の吉川とヒムロックが、腐女子にサービスしております。

 http://www.youtube.com/watch?v=qBBNpdDri-c&mode=related&search=

 てか、これ、明らかにまったく需要のないところに供給しているだろ。
 こんなことやっても、吉川×ヒムロック本とか、そこに布袋が加わって、三角関係どろどろの芸能パロやおいとか出ませんからっっ、って、あったりして。やおい界って、思ったよかずいぶん奥底深いものな。
 それにしても笑えるな。
 いくらV系のホモ耽美路線がもはや通過儀礼となっているとはいえ。いやはや。
 吉川に頽廃・耽美ってのが、もはやお笑い以外の何物でもないよな。無理ありすぎ。



2006.10.07

◆ 「oh ♪ dolly 25 」

 「ベストヒットTV」を潰して生まれた藤井隆の新番組。 なんか妙におされな歌番組だな、おい。
 びっくりするほどシンプルなセットだけれどもセンスのよさでフォロー。 普通ならカメラを切り替えたり、編集するところ――トークから歌への部分とか、をあえて編集せずワンカメでパンして繋げるのが、なんか昔の「夜ヒット」みたいで、生じゃないのに生放送っぽいシズル感が漂っていて良かった。 切り紙の名札を各自手で持って登場するオープニングもなんか好きだな。
 CGをさりげなく使ったり、今っぽいな部分も出しつつも、昔のローテクのいい部分も率先して使っているところが、良さげ。 ただウィークリーマスコットという名の、女芸人枠はいらないかな。
 ゲストの郷ひろみは「林檎殺人事件」(with 藤井)、「東京」(矢沢栄ちゃんのカバー)、「ロンリーチャップリン(with 森3中)」と新曲「LIFE」と、手堅い選曲。 今後のゲストのチョイス次第では、好きな番組になれそう。 末期「ベストヒット」のように、藤井色にあわない歌手とか大量投入されないことを祈ろう。
 ――って、来週のゲストは、南野陽子なのな。 ミポリンや美奈子や由貴ちゃんなど、同期アイドルの曲を歌うって、見るしかないやーーん。 藤井隆、ほんとに、ナンノ好きやなぁ。隙あらばブッキングしてくる。
 ところで、ナンノは美奈子のどの歌を歌うんだろ。ふたりは親友だけれども、歌の路線は真逆だからなぁ。やっぱ手堅く「Oneway Generation」かな。



2006.10.06

 なんか昨日今日と、アクセス数が不自然に多いっ、どこかにアドレスが晒されているのか? と、調べたら――、うああぁぁっっ。

 http://hiroko.com/index.html

 谷山浩子さんが、うちのサイトを取り上げているぅぅぅ。
 悶絶。
 こ、こういう時、じたばたしちゃいけないんだっ。
 そう心に言い聞かせるけれども、ご本人が、私のテキストご覧になったと思うと、 ダメだ、辛抱たまらん。平気なそぶりができない。
 好きな歌手をひとり選べといわれたら、お登紀さんやみゆきやジュリーを断腸の思いで諦めて、明菜、谷山、書上奈朋子まで絞って、最後のひとりが選べない、そんな私ですよ。 そりゃ、混乱しますってば。  しかも「読んですごく面白かったのと嬉しかったので勝手にリンク」なんてお言葉を……。
うううっっ。ひたすら平伏。

 谷山さんに限らず、わたしのテキストを、とりあげた歌手や漫画家のご本人が読むということも、決してないわけじゃないんだよな。 それはネットなら当たり前の話なんだけれども、目の当たりにするとやっぱりあせってしまう。
 ご本人が目を通すことになっても堂々としていられるような立派なテキストが書けるよう、精進しなくては。



2006.10.05

 久しぶりに中島みゆきの「Singles」を聞く。
 そういえば「悪女」って、ツンデレソングなんだな、とふと気づく。
 「いかないで」の一瞬のデレっぷりを愛でる、そういう歌なんだな、と。
 そう見ると、彼女の歌のほとんどがツンデレに聞こえるからあら不思議。 「あした天気になれ」とか「ひとり上手」とか「やさしい女」とか「かなしみ笑い」とか「霧に走る」とか「見返り美人」とか「やまねこ」とか、全部ツンデレやんっっ。
 てか、中学生のわたしは、みゆきさんのツンデレっぷりに萌えていただけなのかもしれない。そういえば、そんな気がするぞぞぞぞ。



2006.10.03

 メールボックスを開く瞬間、
 「来いっっ」
 とひそかに念じているまこです。
 いつだって、素敵メールを熱望しています。
 なかなか返信しないけど(←傲慢)。

 以前ここで話をふってみたEUROXの未確認「不思議」セルフカバー楽曲。情報を提供してくれた方ありがとうございます。 その分をプラスしました。

 あと、加藤登紀子ファン会報「Seeds net」にて今夏、執筆したテキストをサイトにアップしました。 そういえばきっちり加藤登紀子を論じたテキストって、サイトではあまり挙げていないのだなあと、今更ながら気づく。
 11月に「愛はすべてを許す」「夢の人魚」など、70〜80年代のアルバム数タイトルが復刻されるという、絶妙なタイミングでの 「80年代の加藤登紀子」のテーマ。再発売を知っていたわけじゃないのに。なんか、いい偶然だなぁ。
 ところで今回アップした前編と同時に後編もお渡ししたけれども、こっちの掲載いつ頃になるのかなぁ。 どうなんすかね、小椋さん。と、内輪ネタしてみる。



2006.10.01

 自己満足ネタ。
 うな式作家ランキングにならって、「まこ式 好きな漫画家ランキング」してみる。
 あくまで「好きな」なので、巧拙や良し悪しはまったく考慮に入れてません。 もちろん、好感の一片もない作家は挙げていない、はず?

 (愛しています。没原稿でも読みたい)
 萩尾望都 吾妻ひでお

 (気がつくとなんどもくりかえし読んでしまう)
 大島弓子 藤子・F・不二雄 大竹直子 岩崎陽子 藤たまき 白井恵理子 日の出ハイム 

 (わたしに強烈な印象を与えた作品、あり)
 山岸凉子 手塚治虫 森川久美 坂田靖子 波津彬子 皇なつき 山田章博 西原理恵子 西炯子 岡崎京子 ふくやまけいこ 佐々木淳子 紫堂恭子 西崎祥 施川ユウキ

 (執着する気にならない程度に、普通に好き)
 ささやななえ 木原敏江 奈知美佐子 近藤よう子 橋本多佳子 篠原烏童 牛島慶子 ハルノ宵子 橋本正枝 高橋なの 梶原にき 南川恵  猪川朱美 安曇もか

 (好きな作品もちらほら)
 佐藤史生 神坂智子 内田美奈子 森脇真末味 内田善美 明智抄 藤田あつ子 新井理恵 BELNE 長岡良子 水上シン  今市子 諏訪緑 須藤真澄 原哲夫 ひさうちみちお 桜玉吉 

 (そういえばひと通り読んでいるな)
 吉田秋生 山田ミネコ 花郁悠紀子 高野文子 さべあのま 鳥図明児 東城和実 河村恵利 上杉可南子 東山聖生 川原由美子 下村富美 Duo Brand ちばひさと 吉田光彦 

 (好きだったこともある、かも?)
 道原かつみ 文月今日子 岸裕子 秋里和国 竹宮恵子 岡野玲子 高河ゆん 黒川あずさ 義澄了 車田正美 松田洋子 鳩山郁子 吉田戦車

・ 萩尾・吾妻の二柱は10年来の鉄板
・ 大竹直子 岩崎陽子 藤たまき 白井恵理子 日の出ハイム のAクラス入りは、高すぎなんじゃなかろうかと思ったけれども、読み返し率の異様なる高さからいって、ここにいれるしか、と、観念した。なんか自分にしっくり来るのよ。
・ 施川ユウキと手塚治虫をAクラスに入れるかどうか最後まで迷った。
・ 明らかにCとDに壁がある。Cより上は本気で好きと言えるけれども、それ以下はちょっと口篭もる感じ。好きだけれども……、っていう。
・ Fは、あえて名前を挙げなくてもいいような……。かなりギリギリラインだな、おい。


 こういう作業って、自分以外誰も面白くないんだろうけれども、楽しいよね。 ひとまず、今、わたしの本棚に並んでいる漫画の作家名をずらっと列挙してみたわけだけれども、これって、多い? 少ない?



2006.09.29

 HAGGYさんのプログで紹介されていた国土交通省の空撮サイト、( http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WF_AirTop.cgi?DT=n&IT=p ) 1974年から91年までの全国各地の空撮が閲覧できるんだけれども、これが面白い。
不覚にも半日以上このサイトで遊んでしまった。
 わたしの生まれ故郷は埼玉のベッドタウンなんだけれども、その頃の74年の空撮を見ると、 家がないっっ、というか、道すらないっっ。ただ一面畑と田圃と雑木林、それが着々と開発されて、 自分の見知った風景になっていく。
 道ができ、拡幅され、建物が建ち、駅前が整備され、川の護岸工事がすすんで、細い川は地下にもぐり、 こういう段階を経て、かわっていったんだなぁ、と、それがよくわかる。  70〜90年代に開発、再開発された地域を見ると、その違いがはっきりわかって面白いんじゃないかな。
 と、地図好きのまこがいうております。



2006.09.26

 一部の(――あくまで一部の)愛猫家の、ファナティックな、まさしく「猫かわいがり」としかいいようのないそれが、不快だと思う時が、しばしばある。
 猫自体可愛いのはたしかだ。猫でなくてもいい、犬でも鳥でも魚でも、なんでもいい。小動物になつかれて、うれしくない人なんて、この世にいるだろうか、と思う。
 とはいえ、彼らに共通して漂う、ペットを通して自己を慰撫している雰囲気、ペットの猫と飼い主の自分とを同一視しているような感じが、暑っ苦しいのだ。
 わたしもまた、愛を欲しがるさみしい人間であるから、彼らの感情の一部はわかる(――つもりだ)。
 わかっているから、わたしはペットを飼わない。飼えば私は過度にペットにもたれてしまう。
 だから、「たかが猫だろ、もっと距離置けよ。その愛しかたはどう考えても自己愛のバリエーションだし、鬱陶しいよ」と、わたしは見たくない自分を見るように不快に思ってしまうのだ。



 残酷な仔猫殺しを日常的に行っていることを全国紙で告白し、今、話題になっている作家の坂東眞砂子。
 その行為自体は、狂的な愛猫家のそれとはまったく真逆ではあるが、わたしは、その心性自体は非常に近しいものだと、感じる。
 坂東氏もまた、自己を慰撫するように、猫を可愛がる人ではなかろうか。 彼女の「人が愛せないから猫を愛する」という言葉は、まさしくそれを象徴してように、感じる。

 彼らは、自己と他者(――ペット)を同一のものとみなし、依存的な関係を結ぼうとする。 その関係性に距離はない。肌と肌が常に密着していて、なんら侠雑物が入る余地がない。
 「"わたし"は"かれ"であり、"かれ"の神である――」
 彼らの根本にある観念は、これだ。
 ゆえに、自分の望むものはペットの望むものであると、信じて疑わない。 自らが与えてほしいとのぞんでいた愛を彼らはそのままのかたちでペットへ切々と注いでゆく。
 それが極まれば、ペットの生殺与奪の権まで自らのものとして当然と思い込むだろう。
 坂東眞砂子の行った行為は、ちょうど狂的な愛猫家の左右反転した姿――鏡像にちかいのでは、と私は感じる。

 ただ過剰に可愛がるではあきたらずに、歪んだ醜い己の心性すらも投影し、 泣きながら「猫を殺している時、自分をも殺しているんだ」などと、わけのわからないことを言いながら(――とはいえ、これも共依存的愛猫家を象徴するひとことだな) 生まれた仔猫を崖下に放り投げる。
 それは、狂的な愛猫家の心の裏返った様であり、鬼子母神的な、ある種普遍的な歪んだ母性のありよう、と映る。



 わたしは、仔猫殺しそれ自体が、そこまで罪深い行為であるとは、思わない。
 いのちは、誰かの都合で祝福されたり、あるいは屠られたりするものだし、 そもそもわたしたちはなにかを殺さなくては生き長らえることのできない業を背負っている。
 殺された仔猫は可哀想なのは確かだが、この世とは、残酷で不条理な、そういうものでもある。
 とはいえ、「生の豊饒性」などどつまらぬ詭弁をたれて、いくらでも忌避できる道をあえて避けて、生まれたばかりのいのちを無残に葬るという選択肢を選び、 その反論がつのると、何が批判されているのかもわからず、またどうでもいい屁理屈をたれる彼女と友達になりたいか、といわれればNOだ。
 不気味だし、気持ち悪いし、頭が悪いし、なにより愛がない。

 彼女へ、ペットの避妊手術の重要性やら、ペットの飼い主としての倫理観やら、いのちの大切さやらを懇々と説いたり、あるいは、彼女の稚拙な論理を論破したとしても、それは彼女の耳に届かないだろう。
 彼女はそれを欲しているから、そうしているのである(――それは、彼女の文章の端々に漂っている。彼女は、車で犬猫を轢き殺してしまった時のように、うっかり猫を殺しているわけではない)。
 だから、たとえ咎められ、その行為を止めたとしても、彼女は、それとは違う残虐な行為を無意識のうちに、求めていくだろう。

 かように彼女の自己像は、愛のありようは、歪んでいる(――と、私は感じる)。
 そして、その歪みは、あれはダメだこれはダメだ、と対処的に指摘しても、真に正されるものではない。
 彼女が、自らの心に眠る秘密(――なぜわたしは人を愛せないのか、とか、なんで世界中の男が私を好きになって欲しいだなんで思うのか、とか、なんで生き物の死骸を見ると落ち着くのか、といったさまざまな「自分が自分でしかない理由」)の源流を見つけ、開示し、縺れて歪んだ自己をほぐさなくては、それは、決して矯らないだろう。
 そして、それがかなうのは、まさしく文学的営為、それのみである、と思う。



 だからーー。
 書けばいいのである。
 つまらぬ屁理屈をこねた自己満足エッセイではなく、手垢のついたフェミニズムエッセイでなく、 グロテスクなおのれの欲望を満足させるホラー小説でなく、 おのれの闇を開示する、自分の心の痛みに直接触れる、小説を。
 自分を守り慰撫する文章でなく、裸の自分を曝し、傷つける文章を。
 みたくないと今まで避けていた最低の自分を、見つめ、書けばいいのだ。
 彼女が見なければいけないものは、仔猫や鶏の死骸だとか死霊だとか、そんなものでは、ない。
 彼女が見るべきなのは、もっとグロテスクで、悲惨で、どうしようもなく、手におえない、自分という哀しい魔物、である。
 彼女が自らの業を作品で昇華しきった時、もしかしたらその作品は、自己愛の強い淋しがり屋の悲しき愛猫家たちにとっても、意味のある作品になるかもしれないだろう。

 ―――と、彼女の著作を満足に読んだこともない私が言う、の巻。
 だってーーー、彼女、文章もきもいんだもーーーん。まこは爽やかな文がよみたいっつーのっっ。



2006.09.21

誰しもがひとつの炎を 身の内に抱えて生きている
それは命果てるまで 決して消えず
あるときは 憑りつかれた舞踏家のように激しく
あるときは 入眠前のため息のように静かにゆらめき
なにかを暖め なにかを照らし なにかを焼きつくす

それはとてもすばらしいこと
けれど とても残酷なこと

わたしは わたしの炎で身を焦がす
止めることもできず ただひたすらに炎につき動かされるままに
その激しさで なにものでもない 私自身を滅ぼしていく

なにも見るまい
なにも思うまい
なにも語るまい

ただひたすら自分に疲れ果て
自棄気味の誓いを立て 
それを容易く破る
その繰り返し




2006.09.19

 猫の森から帰還。レポートは近日アップするかも。

 ふと、昔の自分の文章を読み返す。
 眩暈を感じる。
 とっさに「閉鎖」の文字が脳裏をかすめる。

 ひどい。ひどいというか、うざい。
 比喩とか、暑っ苦しい。暑っ苦しいのに、寒い。どういうことだ。
 そして、失礼。率直と毒舌を履き違えているような、デリカシーのなさ。
 読んで不快になる人もなかにはいるだろうなぁ、こりゃあ。
 さらに、いらない文章が多すぎる。
 わたしの過去の文章を庭に例えるなら、雑草が伸び放題。どんな廃屋だよ。
 刈りこまねば。
 てかその手間かけるよりも、いっそ庭ごと破棄したほうが……。
 まぁ、閉鎖してソッコー似たような別サイト開くのもお寒い感じなので、実際はしないけれども……。

 あぁ、もっと文章がうまくなりたいなぁ。
 どっかで、文章がうまくなる薬とか、売ってません?
 と、今日も相変わらず似たような愚痴愚痴愚痴愚痴。
 なんか、こう、若いリビドーに任せただけの、直感力著しいあぶなっかしい文章から卒業したいですわ。いいかげん。
 根本的な文章力と、大人の如才なさをわたしにっっ。



2006.09.11

 MSNのメッセンジャーに入れないぞこるぁぁぁ。
 今朝までフツーに入れたのにィィぃっっっ。
 と、キレキレ状態を落ち着かせるべく、今日は、やおい漫画系の閑話。


 読者からの報告――。
 西炯子さんの「STAY ああ今年の夏も何もなかったわ」が映画化されるらしい。
 な、な、なんというか、見たいような見たくないような……。

 http://373news.com/2000picup/2006/06/picup_20060624_8.htm


 そういえば、昨年出版の予定だった大竹直子さんの「艶本・義経記」はどうなったのかな……。
 昨年大河「義経」放映中に出版に漕ぎつけることが難しく、06年春頃の予定となったようだけれども、 やっぱり時期がズレたせいで流れてしまったのかなぁ。だとしたら、か、哀しい……。まだまだ、わたしは待っているんだけれども……。ってか、率直に言って、ファンだし。大竹さんの本格和風やおい、読みたいし。

 出版が流れる、といえば、 そういえば02年頃出版予定となっていた、赤木たけのり子さんの単行本も……、これはさすがに流れたんだろうなぁ。きっと。
 この人も、池上遼一風の劇画絵でやおってくれる貴重な漫画家さんなのになぁ。この人もぉぉ、寡作だよなぁっっっ。ううううっっ。
 出版なんてそういうものだとは思うけれども、それにしても、企画が立ち消えになるのを聞くのは、哀しいよぉぉ。あまり活動が派手でない作家さんならなおさら。

 栗本薫さんが定広美香さんの「アンダーグラウンドホテル」を「なんども読み返してしまう重厚なやおい」と褒めているのを聞いて、結局かおりんとは、やおいのツボが根本的に違うのかもなぁ、とあらためて思う。
 別に、「アンダーグラウンドホテル」を貶すつもりはないけれども、うーーーん。読んでいるだけに、うーーーん、と。
 そういえば、定広さんって、その昔、「太陽を盗んだ男」のパクリのようなオマージュのような、リスペクトのような短編(――タイトル失念)描いていたし、 さらにその昔、東里桐子さんと一緒に描いた暴走族漫画(「天使のほほえみ」)も、あれも思えば薫好きするやおい漫画だったしなぁ。ふたりはツボが似通っているのかもなぁ。
 結局、やおらーにとって好きなやおい/そうでないやおいの区別って、作品クオリティーよりもどれだけ自分のツボを押したかに終始するところ、あるよな。

 というわけで、いまのまこっちゃんのツボ押しまくりんぐ、一押しやおい作家が日の出ハイムさん。
 昨年、初の単行本を上梓して以来、とんとんとんと発行して、四冊目の新刊「花の学蘭ハニー」。……ツ、ツボだ。ばっちりツボだ。か、かわえぇぇ。 表題作の受の子、真田指数高すぎだよっっ。 お約束の別れのキスがないのに、「えっ、ちゅうしないの?」という顔した次の瞬間、「なにおれ期待しているの、はしたない」といった感じで俯いて顔を赤らめるお姿が、うううううっ、たまらんっ。
 いまのところ、わたしこれはちょっと……、というのが一作もないっ。素晴らしいっっ。
 営業とか、編集とか、色んな都合なのか、毎回毎回きちっとエロエロなシーンを入れているのも、さほど違和感がなく、 とはいえただのエロ話にはならない、切なく淡い少女漫画の系譜でいてくれるのが嬉しいじゃあないですかっっ。 やおいはこうでないと。
 というわけで、遠い昔に発行してとっくに売り切れてしまってる同人誌まで漁って手に入れている。ええ、ただのファンですよ、もうっっ。
 あ、「アラシガハラ」は原作の「嵐が丘」というより、松田優作主演の映画版の「嵐が丘」のイメージだよね ?



2006.09.10

 だるい。
 はげしくだるい。

 実家に帰った。
 母が、唐突に
 「見積書をパソコンで作りたいんだけれども」
 と、いいだした。

 実家は自営の零細水道業者で、いまだにPCが導入されていない。
 とはいえ、あらかじめフォーマットを作ってしまえば、文字打ちができる程度のスキルで、見積書程度ならできるはず。
 母はテレビゲーム大好きっ子だから、PCと親和性もあるだろうし。それにPC得意な妹があれだけ長いこと一緒に暮らしていたのだから、多少は知っているはずだろうし。
 安易にわたしは、いいよ、と、妹の置いていった古いパソコンを立ち上げて、エクセルで、さっくりと簡単な見積書のフォーマットを作った。
 「ここにお客さまの名前、ここに摘要、ここに金額、ここに個数を入れれば、後の計算は、全部パソコンが勝手にやってくれるから。後はプリントアウトして、終わり」
 と、説明する。
 これで終わりだ、と思った。
 ――ら、世の中、そうは甘くなかった。
 「で、どうやって、字を入れるの ?」
 ここから親子の長い長い旅が、はじまった……。



 電源の入れ方。終了の仕方。画面の開き方、閉じ方。マウスの持ち方。クリックの仕方。ポインターの合わせ方。 英数/かなの変換の仕方。文字入力の仕方。漢字変換の仕方。削除の仕方。コピーとペーストの仕方。単語登録の仕方。保存の仕方。印刷の仕方。
 相手がどこまで知らないのかわからないので、場当たり的に教える。
 ここまで教えたらなんとかなるだろうと安心したその矢先にその前段階でがっつり躓く。そしてまた教える。
 ざっつ、後手後手。
 もちろんデフォルトで、教えた矢先に忘れる。
 忘れると、冷静になって思い出そうとせず、すぐに思考をフリーズさせ、助けを求める。これもデフォルト。

 「電源入れたら色んな文字がいっぱい出てきて画面が暗くなったんだけれども」(ただ起動に時間がかかっているだけやん)
 「何回Delete押しても、この字が消えないんだけれども」(そりゃ、カーソル左側の字は消えんわなぁ)
 「上の方が見えなくなったんだけれども」(カーソルキーかスクロールバーで上にもってったらいいだけやん)

 ……無理。
 無理無理無理無理無理。
 どう客観的に見ても、60歳を優に越えたおばぁちゃんには、無理だぁぁぁっっ。
 いくら、今、母がケータイでファイナルファンタジーをやっている、いうても、無理。無理なものは、無理。
 わたしだって、なにも知らない状態からここまで教えられてできるか、と考えたら、かなりきっついのを、そんな無理ですってば。

 それでも諦めない母。
 うちの母は、根性だけは、無駄にあるのだ。
 今までも、そうやって相手を無理やりねじ伏せるようにして、体得していったものが彼女には、多くある。
 自らの適正を見抜く能力にかけている、ともいえるかもしれないが、まぁ、ちょっと真似できない。
 「わたしには、パソコンは、性にあわないわ」
 そのひと言を待っている子の気持ちをつゆ知らず、彼女は右手の人差し指のみで、じっくりじっくりタイピングしてゆく。

 その姿を見ながら、 そういえば、どうやって、自分はパソコンに詳しくなっていったのかなぁと、ふと思いを馳せる。
 気がつけば、簡単なものと思うようになっていたパソコン操作だけれども、確かに、少しずつ少しずつ、色んな経験の積み重ねで、ここまで来たんだよな。
 マウスは、スーパーファミコンの「マリオペイント」が最初の出逢いだったよなぁ。
 タイピングは、高校の頃、ただでもらったワープロをつかって、雑文を書いたり――それも文芸部の冊子つくりがきっかけだったかな、所蔵CD・書籍リストを作ったり、あそこで基本は覚えたんだよなぁ。
 インターネットは、大学卒業の頃、ドリームキャストではじめて覚えて――、それから一年ちょっとで、ようやくパソコンを購入して、それも最初は使い慣れなかったけれども……。

 と、数時間、ぼんやりとPCと格闘する彼女を眺めつつ教えつつ、思う。
 ようやく一枚の見積書が完成する。やたら感心する母。
 ひとまず、これでおしまい。と。安堵するわたし。
 彼女がこのフォーマットをつかって見積書を作ることが、早晩あるとは到底思えないが、まぁいい。
 教えた事柄のほぼすべてををメモに書き残して、さらに兄の本棚にあった「エクセル入門」を母に渡して、わたしは帰途についた。



 自宅に着くに早速母から電話。
 「『御見積書』ってなっているところを「請求書」ってしたいんだけれども」
 ――絶句。質問のレ、レベルが……。しかし、気力を振り絞って、返答。
 「一番上の『御見積書』ってなっている四角い枠をクリックして、字をかなで打ち込めばできるよ」
 「でも一番上に行かないよ」
 ――またまた絶句。行かないわけないだろ。てか、状況がまったくわからん。
 「いかないのかぁ、もう、それは諦めるしかないのかもしれんね」
 喉まででかかる。しかし俺が先に諦めたら負けだ。
 「十字のカーソルキーで上にもっていくか、マウスで上に持っていくかすれば、上に行くよ。後で試してみて」
 なんとか返答して電話を切る。
 と、その後で、見切れて一番上が見えないのを勘違いしているだけか? だとしたら、「マウスでスクロールバーを上方向にドラッグすれば」っていわなきゃダメか、 あぁ、でも、ドラッグとかスクロールバーとかいっても、一応、前に説明したけれども、絶対わかんないだろうし、とぐるぐるする。

 彼女の闘いは、まだまだ終わっちゃいない。
 むしろこれからが本番。
 そうおもうと、ぐんなりした来た。

 諦めて白旗あげてくれ。マミー。
 俺はマミーより若いぶん、モノの覚えと頭の回転はいいけれども、マミーほどの根性はないんだよ。



2006.09.09

 わたしのソウルメイトは、どこにいるのだろうか。
 わたしはいつだって、仔犬のように孤独に震えているのにっっ。
 ソウルメイトのかわりに、今、わたしの手にあるのは、ダンボールいっぱいに同人誌―――。
 もう、これでいいのかもしらん。
 たまらん、同人誌。
 これがあればちっとも淋しくないのさっっ、――と嘯いてみる。

 というわけで――一週間ほど、自宅をあけていました。
 ネットを見ることのない一週間、自分のいない間に、素敵メールがどっさり届いてたら、サイトが炎上していたら、あぁ、そしたらどうしよう、どうすればいいんだろう、 と、ドキワク感いっぱいでPCを立ち上げたのにいつもとおんなじでやんの。
 つまんねーーー。

 おいおい、そんなことよかまこっちゃん、色々と事務的なことが滞ってんじゃーねーの ?
 と、お思いの方、まったくもってその通りです。とり急いでお返事メールとかしますので、日記はここまでっっ。以上。



2006.09.02

 わたしは音楽レビューが、よくわからない。
 そもそもわたしは楽譜が読めないし、コードのひとつもわからない。これでは楽器が弾けるわけもない。 音楽のジャンルだって、本当のところ、よくわからない。
 だから、音楽レビューの、音楽的知識―――知ってしかるべきという感じで使われる固有名詞が、全然わからない。 わからないから、音楽レビューが、よくわからない。
 わからないからといって、わかりたいともあまり思わない。 わかったらより楽しめるかもしれないなぁ、とは思いつつも、自分の興味のわかないお勉強をするのは、趣味じゃない。 みんなが知っているからって、別に、知らなきゃ、なんて思わない。
 だからビートルズもストーンズも私は、聴かない。
 だって、わたしは、別に音楽家じゃないもん。レコーディングディレクターじゃないもん。ただのリスナーだもん。
 もちろん、そういうレビューを書く人を否定するつもりはないけれども、 自分とはかかわりのないところにいる人だなぁ、と思う。

 CDを買う大半の人は、わたしのように音楽的知識なんて、なにひとつない。体系的な知識もないし、楽器ひとつ弾けやしない。
 じゃ、なんでわたしたちは音楽を聴くのか。 そこには「夢」があるからだと、思う。
 「夢」なんて、抽象的で、青っぽい言葉を取り出すのも、今更だけれども、 今この場所にいるちっぽけな自分から、ほんのすこし飛躍するためのなにかがそこにあるから、わたしたちは音楽を聞く(――し、本を読むし、絵を見る)のだと思う。
 そこになにを「夢」見るのか。
 わたしが、音楽でも小説でもなんでもいい、作品について何かを語るなら、 ここにこんな素敵な、あるいは奇妙な、あるいは残酷な、あるいは甘い、夢があったよ、と、さししめすように語れたらいいな、と思っている。
 もちろん、それは、私にしか聞こえない幻聴なのかもしれないけれども――。

 というわけで、まこっちゃんはソウルメイトを探す長い旅にでます。
 もしかしたら、あなたのところへ行くかもしれませんよ?
 いいかげん眠いので寝る。
 んじゃ。

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