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まこりんのつれづれなる日々



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2006.1.30

 世の中は「力」がすべてだなあ、と近頃よく思う。
カタカナのカじゃないよ、「ちから」。 といっても、なにもこれは悪い意味でいっているのではない。
 力にだって、色々ある。 殴る蹴るといった、率直なわかりやすい力――暴力もあれば、 地位や名誉を使った権力もある。金の力もあれば、色の力、愛の力、言葉の力もある。 なんにせよ、その力のないものは持ちえているものに屈しなくては、ならない。どうあがこうとも力なきものは、屈せざるを得ない。

 だから――。
 このネットの世界も、結局は力の世界なんだなあ、と思う。 言葉の力を駆使したパワーゲーム。これがネットなんだなぁ、と。
 論理的な言葉、愛の溢れる言葉、直観力にすぐれた言葉、カッコいい言葉、どんな質のものでもいい、力の強い言葉のところに人は集まる。 力のある言葉は、広く敷衍していき、力のない言葉は、そこで途絶える。
 そこで力ないものが、泣き言をいおうが、嫉妬しようが、相手を貶めようが、それはゆるぎようがない。 自らが力をつけて、再び戦うしかない。
 PCと回線があれば誰でも自由に参加できるこのパワーゲームは、ほかのパワーゲームがそうであるように、終わりは来そうにもない。

 ライブドアのほりえもんが負けたのは、一言でいえば、金の力に頼りすぎたことだ、と思う。
 力には、その局面において必要なさまざまな力がある。 金の力は、確かに多くの状況を助ける力ではあるが、オールマイティーではない。
 そのことを彼は今まで学ばないでいたのか、あるいはどこかで忘れてしまったのだろう。 ――なんて考察は、あまりにもありきたりだが、なんとなく筆の勢いに任せて書いてしまおう。
 それにしても、彼には言葉の力がなかった。テレビでの発言や、あるいは、彼のブログなど見るに、それはちょっと驚くほどであった。 この人の言葉、なにひとつ信用ならないよな、と。 言葉に力のない人というのは、それだけで集団のトップたる資格に欠けているのではと私は感じていたが……かくしてこのような結果になってしまった。



2006.1.27

 今日、八百屋の会計で店主のおじさんに500円渡したら、 「はい、500万円おあずかり」といわれた。 感動した。絶滅危惧種のようなベタ、ありがとう。
 次はぜひとも、トーストをかじりながら『遅刻、遅刻』と登校途中の女子高生が見てみたい。



 うなぎの短編小説がうまくて感動的で、生意気すぎる。 いやがらせにLINKをつけてさらしあげしてやる。
 「くねくね」は"ひきこもりの夏休み"小説。やおいっぽい青春・友情もの。
 「死んだらみんな笑えばいい」はある意味悪漢小説というか、これ、フツーにうまいじゃね―か。こっちも微妙にやおい。
 「アトラクシア」は谷山浩子風リリカルファンタジー。
 身も心も乙女は「アトラクシア」、ひきこもりのキモオタさんとやおいの人は「くねくね」、一般人は「死んだらみんな笑えばいい」がお薦め。



 近頃、身内や友人の結婚話が多い。まだ結婚していない人も、いずれ結婚を考えているパートナーがいたりして、それに比べて自分は、と軽く落ち込む。おれ、展開遅すぎ。栗本薫の小説かよ。
 あぁ、いつになったら大人になれるのかね。でも、いつまでも浪人生気分なんだよ。浪人もくそも、すっかり合格して、入学して卒業している身分だっつうのに、 まだ18歳気分なんだよ、おれ。そこんところ、どうしたらいいと思う? とひとり夜更けに壁に向かって語りかける。あーー、テンション下がるわ。



2006.1.26

サイト設立当初の日記やテキストを見る。 誰も見ていないと思って傍若無人に書きおって。思わず嫉妬する。 そして訪問者の多さに自然と自己規制する今の自分のちっぽけさにいらいらした。 できうるかぎり客観的たろうとする文章に嫌気がさした。

昔のように、超個人的なこと書いてもいいやん。だいたい個人サイトって、そういうもんやん。 TSUKASAさん、サイトの更新なくってさみしいな、連絡ください、とか、 そういうどうでもいい私信を、書いたって、いいやんっっ。

そもそも、個人サイトなんてのは、社会生活では見せない自分のダメさやイタさをあえてひけらかす、そういうもんだと、そうじゃないですかね。 そういうものだと僕は思うよ。
そんなね、正解のない、万人が納得するなんてことのないテキストなんてもので、クオリティーとか、読者の視点とかね、どうでもいいんですよ。

そういえば以前、hisuiさんから、アドバイスを受けたのだが、それはかいつまんでいえば「客観的に書こうとするな。もっと、自分語りしろ」 というものだったのだが、果たしてそれは正鵠を射た発言だったのかもしれないと、ふと思いだした。

世のあらゆるタイプの文筆家をふたつのタイプに分類するとすれば、きちんとした大人が褒めるような冷静で客観的な<<ご立派な文章>>を書く人と、そうでない人に分けることができると思う。 どちらが良いとか悪いということはないのだが、 わたしは、後者のタイプの作家に、どうしようもなく、惹かれる。 しょうもないことを針小棒大で馬鹿馬鹿しく語る作家を、些細な事実の断片から妄想をふくらましてありえないほど強固な世界を築く子供じみた作家を、私は愛してしまう。

こういう作家というのは、畢竟、"わたし"という個性が作品の全てであって、 その文章は、光に透かしてみると、ひたすらに自分自分自分の印が押してあって、だから、どうにも世間の毀誉褒貶の落差が激しい。 だが、その鬱陶しさを含めて、なんか好きになってしまうんだよな、そういう作家の、そういう文章。 己の嗜好を鑑みるに、なにかを書くとしたら、わたしもこちらを目指すしかないのかもしれない。

だいたい、人を論理的に説伏するほど牽引力のある理性の持ち主じゃねぇものな、おれ。



2006.1.22

おまえがビジュアライブするっつうなら、おれだって、ビジュアライブする。してみせる。 いや、むしろおれこそがビジュアライブだっ。こんばんは、まこりんです。ってどんな枕だ。

サイト開設、三周年。おめでとう。ありがとう。 誰もいわないから自分で褒めちゃう。すげえよ、おれ。よくやってるよ、おれ。

というわけで、ひさしぶりに大量にテキストをアップしたわけなんだけれども、 アレだね、正味な話、伸び悩んでいるね、このサイト。
っていうかさ、書いていて、ひっじょーーに自己模倣だな、と、思うときがしばしばあってさ。 なんか、いつもとおんなじようなこといっている気がして、だるくなる。 以下いつものまこりんということで略、とかしたくなる。 いっそのこと、路線変更して、ドリーム小説とかのせたくなる。のせないけど。

このサイトはじめた頃は、音楽や小説などさまざまな作品を独善的な視点で語りたおすサイトって、そんなに多くはなかったけれども――だから、わたしがやろう、と思ったのだ。 近頃は、気軽にアップできるブログで、いろんなものの感想書きまくりのかたがずいぶん増えたし、またそのなかには 鋭い視点を持ったすぐれた方もいっぱいいしるし、 別にわたしがいわなくても誰かいうしなぁー――、っていう思いがわりと強くなってもいる。
ってわけで、みんなもっと好き勝手に語ればいいじゃん、みんな、ブログとか、開設すりゃ、いいじゃん、 そして俺にアドレスを教えればいいじゃん、そして、俺を楽しませてくれよ。 ――というのがサイト運営四年目に突入するわたしのいつわらざる本心なのである。



2006.1.21

と、いうわけで、22日へ向けて 書きさしのメモ帳をひっくり返しているわけだが、 まとまりのない言葉の断片というのは、色褪せるのが早くて、 一体このひとはなにがいいたいのだろう、なんでこんなことを考えているのだろうと、そこにあるのはわずか数ヶ月前の自分なのに、不思議な気分になる。

そもそもわたしにとってを書くというのは、なにかをしてそそのかして結果、こうなっている、というようなものであって、 これを書いているのがまさしく「わたし」であるという実感が薄い。 そのときのわたしの言葉は「そのときの」言葉であって、今のわたしとはさほど関係がないのだ。 ――と、こんなことを書いてしまうといかにも無責任なようなのだが、いつわらざる心情なのだからしかたがない。

まぁ、「自分は他人の始まり」という言葉もあるじゃないか。 みんな自分が自分であることに確信持ちすぎているんじゃねーの? 



2006.1.19

北原白秋が読みたい、ふと思った。
しかし、彼の作品が自宅にはない。買いに行くことにした。

近所の大きな古本屋には、漫画や最近のベストセラーは100円で投売りされている。 しかし、そうでない作品を安価で見つけるのは、少々ことだ。 文庫コーナーを探して、やはりない。
図書館で借りるのも、返すのが面倒くさいし、新刊を買うのも、そういう気分ではない。 どうしようか、と、その店の一番奥の天井までつづく壁一面の4mはあろうかという棚の、その一番上、 はしごをかけないと取り出せないところを何気なく見ると、ずいぶん昔、昭和30〜40年代に刊行されたであろう函入り上製版の文学全集がずらりと並んでいる。 北原白秋の名もそこにあった。
こういったものは値がはるのだろうか。 背表紙についた値札を見ると、なんと100円と表記とある。 これ幸いと、北原白秋他、萩原朔太郎、堀口大學、西条八十など、そこにある10冊近くを購入した。

本を開いてみると、感想を送るはがきや、リーフレットなどがまだ封入されていた。 この全集を買った者は、見栄でそろえたものの、1度も手にとらなかったのだろう。
切手を貼る部分に「10円切手をお貼りください」と書いてあるのが時代を感じさせる。 この本たちは、わたしよりもゆうに10歳は年上だ。 そう考えると、とても奇妙な気持ちになった。

古い紙の匂いというのは、それだけで切ない。 それは、絢爛な落陽のような白秋の詩によくあっている。
ただ、詩というのは、便箋とか、書きさしのメモ用紙のすみとか、 そういうどうでもいいような紙に、ふらっときまぐれに書いてあるようなのが一番いいのであって、 こういう函にはいった麗麗しい装丁というのは、ちょっとしゃちほこばって、よくないな。
そんなせんないことをつらつらを考えてながら、ぼんやりと読むとはなしに言葉を目で拾った。
こんな風に日々を過ごしていけるのならいいのだが、なかなかそれは難しい。



2006.1.18

今月22日で、このサイトは三周年を迎える。
というわけで、今、サイト開設記念日合わせでいろいろテキストをまとめているのだけれども、 ねぇ、これ、間に合うと思う? どうよ、そこのところ。
まあ、時間があるからといって、よりいいものが出来るとは限らないわけだけれども、 とはいえ、俺の今の行動、散漫すぎ。なんでこのてんやわんやの今、田原俊ちゃんの曲を編集してCD焼いているかなぁっっ!!! サイトと関係ないやんっっ。 もうね、どうなることやら、という感じです。
しょーもないテキストばかりだったり、最悪なにひとつテキストあげなかったとしても、許してやってください。 いっぱいいっぱいなんすから。もう。



2006.1.17

勝ち負けでいうと、今日の俺は負けだ。

自転車の後輪がパンクしたので、自転車屋に持っていく。
故障箇所を見せられ、タイヤがすりへっているので外のタイヤごとの交換だといわれた。 3600円。――まぁ、いい。 修理しているあいだ、向かいのスーパーで買い物をしてくると告げて、後を頼んだ。

スーパーで半額シールの貼ってあるパンを籠に入れているところ、先ほどの自転車屋の主人があらわれた。 後輪自体が曲がっていてスポークが何本かだめになっている、という。 買い物を済ませて自転車屋に戻って、話を聞く。 車輪自体を交換したほうがいい、という。そうなると6800円。
確かに以前この自転車を修理に出したときに、少し車輪が曲がっていること、よってスポークが折れやすいことも聞いていた。 ――これは以前、わたしがスポークが一本とれたことに気づかずに10日間近く乗っていたのが遠因のようである。
うーむ、どうしようか。

だったら、中古の自転車を買ったほうが安く上がるよ、と主人は悩むわたしに提案する。 見ると、同じ27インチの中古品で、5800円のものと8900円のものがある。 このふたつはどう違うのか、と聞く。
高いほうのはギアチェンジが出来る、ブリヂストン製でステンレスで出来ていて丈夫、物がいい、という。 安いのは、わたしの知らない会社の製品で、アルミでできているという。またわたしが持ってきたものもアルミ製だという。
「特にお客さんのように大きな男の人は、ステンレス製の方が壊れにくくていいよ」
かくして、ホームセンターで9800円で購入して3年使った銀色の自転車は今日をもってお役御免、8900円の自転車がその後継となった。
自転車って消耗品だよなぁ、ホント。



2006.1.15

昨日は明菜さまがミュージックフェアに出ていた。 もろちんわたしも録画して視聴、今回もなかなか素敵な明菜さまで、というか、近頃テレビでいい仕上がりを見せない明菜様にしては、かなりいい出来でない?  と、思い、ひさしぶりにふらふらとネット上をうろついてみた、ら、これがどっこい、酷評の嵐、あららら。 みなさんはどうお聞きになりましたか?
フリがないぶん、かなり丁寧に歌っていたな、という印象で、 絶賛、というわけではないけれど、ま、いいんじゃね、という感じだったのだけれども……。

なんというかな。明菜に関しては、わたしを含めたみんな(――ファンである人も、そうでない人も)、バイアスのかかった目と耳で、見て聞いているんじゃね――の?  と、わたしはふと思った。これを掘り下げると、長くなると思うので、日記でなく、きちんとしたテキストで。



先月はひそかに我が家は『悪魔のようなあいつ』祭りだったわけだけれども、その後も「久世ドラマ祭り」やら「桃井かおり祭り」など開催して、 で、今日は「真田広之祭り」。
しっかし、「必殺 4」のサナダ、カッコよすぎる。 陰間発お小姓経由で、今は南町のお奉行さんの真田くんの色悪っぷりが、たまらんっっ。 ただひたすらおのれの栄達のために幾度も殺人を犯し、それでいて能面のような涼やかな顔をして生きる、悪魔のようなあいつっぷり。
「あ、あ、あんたは、悪魔よっっ」
ラスト10分の真田指数がただごとでないです。もう、リミッター振り切れてます。レッドゾーンです。 このためにこの作品があったといっても過言でない。

ときに91年のNHK大河ドラマ「太平記」のダイジェストもみているのだけれども、今のところ、片岡鶴太郎演じる北条高時にこまごまといじめられる真田演じる足利高氏に 濃厚な真田ポイントを感じているのですが、今後もぐっとくる真田ポイントは続々出てくるのでしょうか、hisui先生。



ところで、まだまだ読み終わらないパールバックの『大地』。 王龍がやっと大往生して、息子の代の第二部にはいったところなんですが、感情移入できるキャラクターがでてきません、先生、どうしたらいいのでしょうか。
ここは、これから軍閥を作り上げるであろう、三男の王虎将軍のワイルドっぷりに萌えるべきなんでしょうが、今は、若くて猛っていてそれなりにカッコいいけれども、なんか、結局ちっちゃなところにおさまっちゃいそうな予感がぷんぷんして……。 全体のノリは第一部のほうがすきかなぁ。



2006.1.11

今、わたしの頭の中では、よけいな考えがうごうごうごめいているのだけれども、 それを文章にして、ここに書き残すと、めんどくさい人が現れてうざったいことになりそうなので、書かない。 てわけで、今日の更新もなし。

――なんて、おざなりな更新ナシが近頃続きまくっていたので、今日はなにかを書こう。
てか、今日は明菜サマのライブDVDとベストアルバムの発売日じゃね。 なにボーっとしているよ、俺。走らなきゃ、CD屋に走らなきゃ。
ってわけで、いまだに手にしていません。 明菜系のなにかを期待してやってきたみなさん、ごめんね。 ひとまずライブDVDはオリコンデイリー9位(――ちなみに音楽DVDではなんと1位)、ベスト盤は17位と、そこそこ好発進のようです。

あ、そうそう、明菜サマといえば、「落花流水」。 「落花流水」て言葉には、相思相愛のほかにもうひとつ解釈があるのね。
「落花」ってのは、もちろん「散りゆく花」の意で、春の季語でもある。それが水に流れる、と。 つまり「過ぎゆく春の景色」という意をあらわしているそうで。
そこから転じて、万物が流転するさまであるとか、人やものが落ちぶれ、衰退するさま、という意味もあるんだって。 つまり「諸行無常」とか、そのあたりに近いニュアンスもある、と。
ってわけで、この歌のこのタイトルは、どうやら単純なダブルミーニングっぽいようで。
「穢れ、落魄する明菜」と「性愛の淵にのみこまれる明菜」というふたつの意をこめて松本先生はこのタイトルをつけたんだろうな。



2006.1.9

本田美奈子の「Junction」のテキストで、「美奈子は"歌バカ"だ」なる由を書いた後に 平井堅が『歌バカ』なるベスト盤を出して、その記述が妙に気恥ずかしく、なおしたくなった。 ただ、かぶっただけなんだけれどさ。なんかさこっちが狙ったみたいで恥ずかしいよ。

美奈子関連のネタ被りといえば、美奈子の死に関して、 ほもかっちゃんこと勝谷誠彦氏が自身のブログで「棺を蓋いて事定まる」の故事を用いていたのもネタ被りで恥ずかしかったし、 あと美奈子の「つばさ」の白眉を「30秒のロングトーン」とテキストで書いたのを、後日ワイドショーでまったくおなじように取り上げたのもなんか恥ずかしかったよ。 べつに、うちのサイトみてんじゃねーーの? という気はまったくないんだけれども――そこまで自意識過剰じゃありませんってば、 なんか、こう、ね、きまりが悪い。

あ、ただ、ネット上のテキストで、自分のテキストに似ているな、と感じるものは、 「こいつぅーー、うちのサイトの読者じゃねーーの?」 と、わたしは勝手に勘違いしています。
「この歌手に、この作品に、こういう視点で、こういう修辞で、表記する」 ってのは、こりゃ、うちのサイト見ただろう。と。 モニターを軽くこづいたりなんかして、ね。
おいおい、恥ずかしがらずに俺の前にでてこいよ、悪いようにはしないぜ、と。
ま、だから、どうというのはないんですけれども。



2006.1.8

まったく忙しくないといったら嘘になるけれども、 とはいえ、いくらなんでもサボりすぎだな。サイトの更新。

ここしばらくは、本を読んだり、映画を見たりばかりで、それがとても心地よくって、どうも書くモードになれない。 世の中まだまだ自分の知らないいいものがいっぱいあるんだよなあ、なんて能天気に享受しまくっている。
楽しい気分の時は、あんまりそういう気分になれないんだよな。 それだけで満ち足りてしまうというか。
そこの浅い感想を書き散らすのも今は馬鹿馬鹿しくおもえるし、 かといって、しっかりしたテキストを書くのは、なんかしんどい。

今は、いまさらながらパールバックの「大地」を読んでいる――まだ第一部、だけれども、いやーーー、おわらない。 面白いけれども、全然おわらない。でも面白い。
中国の百姓、王龍の淡々とした一生が、ほんとうに、ただひたすらに百姓の日々なんだけれども、なぜか面白い。
正しいことも正しくないことも、美しいことも醜いことも、全てをひっくるめて、ただ、生きる。 大地から生まれ、そして大地に返るその日まで、ただ淡々と、生きる。 その姿に、なぜかひかれてしまう。
それにしても、阿藍って女はすげー女だなぁ。まるで地母神のよう。



2006.1.3

おまた?

当サイトも2006年、突入ですっっ。 この06年が、みなさんにとってよりよい一年になるよう、お互い今年も、はってはってはりまくって生きていきましょう。
いくぞーーーっっ。
俺もやるからみんなもやれよーー―っっ。

な、ん、て、さ。
そんなアゲアゲのテンションていうのも、さ。 うそ臭いわけでさ。
年越しもなにも、あたしゃ、年末から今日の今日まで仕事だったわけだし、さ。 そんなの、関係ないわけだ。
フツーに日常なわけさ。
もーー、テンション低低なわけさ。

というわけで、以下、繰り言をぐだぐた書いたのだけれども、それは全部消去して、 しとまず、ま、こんなです。と。 じゃ、これから俺は久世ドラマの「春が来た」を見るので。

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