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メイン・インデックスまこりんのつれづれなる日々>まこりんのつれづれなる日々  2005年8月



まこりんのつれづれなる日々



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2005.08.31

ぬははは。大学生を除く世の学生たちよっっ。 「勝ちか負けか」で云ったら明日からお前ら全員負け組だぁっっ。
どこもかしこも夏休みで浮かれおったお前らの勝利の凱歌は、もう俺の耳に届かないっっ。届かないったら、届かない。 ――え、じゃあ「夏休み」のない大人たちは勝ち負けで云ったらどうなのよッ、ってもちろん負けですよ。永遠のルーザーですよ。ええ。

やぁー、まぁ、マジレスすると、なんですな。 わたしの住んでいる街って新興住宅地でさ、この時期に大型スーパーとかいくと、もう大変なんですよ。おい、子供がスーパーからまけ出ているよッ――っていったら云いすぎだが、もううんざりするほどおいでになられていて、で、子供って群れるでしょ、だから、もうなんというか、子供を愛でることにおいて人後に落ちることのない私でももう無理です、お腹イッパイです、という。 ま、そんなだったのだけれども、やぁー明日から街が静かになってめでたい。子供はやっぱり学校行っとくのが一番、と。



2005.08.30

先日は「飽きた」と言い放った日テレの24時間テレビだけれども、今回はなんと平均視聴率も募金額も歴代最高だったようで、 こういう時自分とマスの印象の違いに驚く自分がいるわけで、ってまぁいいけれども。
団塊世代の半素人がマラソンしたって云うのが、よかったのかなぁ。 団塊世代って、無条件にマスコミに乗っちゃうような無定見な性向があるからなぁ。 と、まあ、ぶつぶつ云っても、来年もマラソンショーなんだろうな。きっと。



2005.08.28

まこりんです。 日本テレビの24時間テレビがはじまると「もう夏も終わりなんだな」と切なくなるとです。
まこりんです。 新本格ミステリが好きな人を無条件で小馬鹿にしてるとです。
まこりんです。 あえていまさらヒロシネタをふる自分が結構好きとです。

みなさん、お笑い第5世代の皆さんは好きですか?  塵芥のごとく、吹けば飛ぶよな彼らの存在感が俺は大好きさっっ。 みんな、ダンディー坂野をテツandトモを三瓶を忘れないでやってくれ。 例えつまらなくても、忘れないでやってくれ。 いつまでも覚えていてくれ。 そして「俺ってくだらないところに記憶中枢使っているな」と10年後に呆れてやってくれ。
って、眠いので、ろくな言葉が出てきません。

ところで日本テレビの24時間テレビはもういいかげんマラソンショーは止めないのか? また欽ちゃんとアグネスだしてわかりやすいチャリティーショーにしろとは云わんけれどもさ。 なんつーか、飽きた。
「感動をありがとう」とか「本当の主役はあなたです」とか「サライ」とか「負けないで」とか、ぶっちゃけ、飽きた。



2005.08.25

元々小心な人間なのだろう、「やってはいけない失敗をしてしまう」という夢を私はよく見る。 夢の中の自分に驚いて、はっと目覚めるなんてこともしばしば――時には寝言を出してしまうこともある。

夢の中で失敗したのだから、それで気をつけるようになって、実際は……というのであればよいのだが、本質的にそそっかしい人間なので、やっぱりうっかりやってしまうなんてこともあり、 もう、なんだか悪い夢を見ただけ損したという、非常に残念な結果になってしまう。

そんなわけで、仕事での私はたえずプレッシャーの嵐で、近頃は仕事の後もどうにも頭の切り替えができない。 心配事が頭からこびりついてはなれない。 と、まぁつまりは、近頃サイトの更新が遅い言い訳をしているわたしなのであった。



2005.08.24

亡霊のような言葉というのがあると、近頃よく思う。

それは例えば、雑誌や広告を彩るコマーシャルな言葉――― なめらかであたりさわりなく、そのくせどこかきいたことのある、退屈な、 あってもなくても何も変わりはしないような、言葉。虚を飾ざるような言葉。 そんな言葉たちはどこか実体がなく、亡霊めいて私には見える。 その言葉は向こう岸にいる私たちへ向けられた言葉でなく、どこかにいる誰かの自意識を補填するためにある言葉なのであろう。 だからその言葉が、重ねられれば重ねられるほど、私たちは疎外される。

それは例えば、ネットで取り交わされる匿名の言葉―― あるいは正論であったり極論であったり、もしくは密度が濃くあったり無内容であったり、 そういった言葉。 それも、どこか亡霊めいて私には見える。 言葉自体に確かな意味があろうと、何故だろう、空気のような、風のような、一瞬で霧散してしまう印象がある。 雑踏のなかで不意に耳に入った言葉のように、はっと思い振り向いてももうそこには誰もいない。そんな感じがある。

言葉というのは、単純に「わたし」と「あなた」がいて、はじめて「生きる」ものだと思う。 『私はこうこう思っている。それをあなたに届けたい』それが言葉というコミュニケーションのはじめであり、終わりだ、と。 だから、「わたし」の在所がない、あるいは「あなた」を想定していない文章というのは、亡霊のようになる――と、私は思っている。

そんな亡霊の言葉にならないために、と、わたしはこうして今日も何らかの文章を綴っているのだが、果たして、それは誰かの心にしっかりと届いているのだろうか、 皮肉でも、焦燥でも、ため息でも、追憶でも、嫉妬でも、思慕でも、なんでもいい、この言葉に身体は宿っているか、 そうと思うと、なんとも心もとない気分になる。 私の言葉も、誰かにとっての亡霊に過ぎないのだろうか、と思う時もままある。



2005.08.23

今度もそうは、いかんざきっ。 ――あ、いや、別に。ただ云ってみたかっただけ。

欲望まるだしで必死な政治家先生たちのお姿が残暑に素敵な彩りをそえる今日この頃、 皆さんはいかがお過ごしですか。 サイトを休むつもりもなかったのに、ずいぶんあいてしまったまこりんです。 え――いっ、もう夏バテじゃ、夏バテ。 くそ暑い時期に、○○○○や××××の顔をテレビで何度もアップで映すなっつーのっ。まったく。

それでも、テキスト書いたり壁紙変えたり、なんだかんだと色々ひっそりとやっておりますが、 どうにも本調子じゃなくって……。日記ですら、1週間近くあいちゃったよ。
きちんとほぼ毎日きている方には申し訳ないな、と。 秋にはがんばりたい、と。そう思っとりますです。はい。

メールフォームで感想等をお送りの方、いつも楽しく読ませていただいています。 ――リターンアドレスの記入がない方もたくさんいらっしゃいまして、そういう方はただ単純に読ませていただくという感じで、 気楽でありながら、心苦しく思っております。返信をもらうより、またひとつ新しいテキストを、ということかなと勝手に思い、 期待に応えようと、それなりにがんばりますので見捨てないでやってくださいね。



2005.08.17

「みんなのテレビ」で僕らの和田アッコの30数年ぶりのベストテン・ヒットm-flo loves AKKO WADA「HEY」の披露があり、 もちろん、私ははじめてその歌を聴いたのだけれども、 なんというか、アッコ、もしかしてモノごっつリズム音痴?

ち、ち、ち、ちょーーーっとばかり、驚いた。 いや、あの、なんというか、アッコが歌う部分とそうでない部分の落差がなんというかかんというか、ごにょごにょ。 あの、まぁ、音痴といったら言い過ぎなのかもしれないけれども、アッコってば、たえず強拍が前に来るようなそういう古いリズム感の持ち主で、そのことに自覚がないんだろうなぁ、と思いました。 って、あぁ、またアッコのこと悪く言ってしまった。 まぁ、リズム音痴は「出来るリズム」の曲だけやっている分には表面化しないそうなので、大丈夫。無理しなきゃいいのよ。つまりは。



2005.08.16

今年は終戦60年、日航機墜落事故20年ということもあり、それに関した番組が多い。 それらを見るとはなしに流したりするが、そうするとなんとも気鬱になっていけない。 生きている私たちと死んでしまった人たちとの間に、何の違いがあったのだろう――などと余計なことを考えてしまう。

私たちの生きている意味がさしてないのと同じように、わたしたちの死にはさして理由がない。 私たちは、時折行われる死神主催の抽選会を逃れ逃れてただ生きているだけに過ぎない、と私は思ったりする。 ある日突然、「ビンゴ」の声があがり、死の鉞が身を引き裂く。私たちはその時を待っているだけの存在なのかもしれない、と。
ただ、まだ声のかからない私たち。だからこそなのか、先に呼び出された人たちの理由を考えずにはいられない。 そこに答えがあるはずなどないのに、後ろを何度も振り返ってしまう。

もしかしたら、私の目は既にリーチがかかっていて、もう呼び声がかかろうとしているのかもしれない。 ふと、おもったりする。もう私という物語は最終章なのではなかろうか、と。 それはたわいのない妄想に過ぎないし、そもそも私たちはそれを知ることはできない。



2005.08.12

友人から聞いた話なのだが、エロゲーなどのオタクアニメ系業界では今は「メイド」や「妹系」ではなく「つんでれ」が来ているのだそうだ。
「つんでれ」とはなにやら、と訊くと、 曰く、「恋愛ゲー・エロゲーなどで最初はつんつんしているけれども、いい感じになってきたら主人公に過度にでれでれしてくる女性キャラクター」のことなのだそうだ。

「それってどういうの? 例えて云うと『めぞん一刻』における管理人さんとか、『きまぐれオレンジロード』における鮎川まどかみたいな性格のキャラ?」
「あぁ、まどかは典型的な『つんでれ』だね」
「じゃあ、江森三国志の孔明さんとか、サーモンのダダ・カズシリーズの一也サマとかは?」
「サーモンの……一也は、あああぁぁ、あれこそ『つんでれ』。一也は『つんでれ』以外の何者でもない。相当ハイクオリティーのつんでれキャラだ。彼は」

それから小一時間ほど、何がつんでれで何がつんでれでないか、ということをふたりして語り合ったのだが、どうやら、わたしはつんでれキャラが思いっきりタイプのようである、という残念な事実が発覚した。



そもそも「つんでれ」という言葉をもって概念化しなくても、恋というものは、総じてつんでれ的なものなのではなかろうか、と私は思う。 惧れと好奇心のゆらぎの向こうにある苛烈なまでの他者との一体化願望、それが恋というものなのでは、と。 古い歌で、こんな歌がある。

つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる
つれないふりをしてすげない顔をして、そういう人に限ってあっけなく恋に落ちるものなのだ。 これは、近世小唄の祖とも言われている安土桃山時代の堺の僧、高三隆達の歌謡を集めた「隆達小唄」に収めされたひとつである。 いつの世も恋というのは変わらないのだなあ。



それにしても「つんでれ」といういかにも今時のオタクっぽい語感がどうにも肌にあわない。 いかにも雑な生活を送っている人の作った言葉という感じがする。 私は「そんなキャラクター達を『つれなのふり』と言い換えてはどうだろう」 と、友人に提言した。しかし「そんな小唄、誰も知らないよ」と一蹴された。 それもそうだ。私もこの小唄はPANTA&HALの「つれなのふりや」という歌から知っただけに過ぎない。 

「つれなのふりや」は頭脳警察を解散したPANTAが二枚のソロアルバムをリリースした後に自身の新たなバンドPANTA&HALを結成して後にリリースした79年のアルバム『マラッカ』に収録されている。 このアルバムは、現在の日本経済の生命線であるオイルロード――中東からマラッカ海峡を経て日本へと到る道中を歌ったコンセプトアルバムである。 PANTAのハードボイルドで男くさい浪漫がつまった名盤として推す人も多い。



「つれなのふりや」でPANTAはレゲエのリズムに乗せて「俺の声が聞こえるか」「俺の声に応えるか」「俺の舟に乗りたいか」「俺に舵を任せるか」「俺と海を渡れるか」「俺に体を預けるか」と小細工なしの直球でたたみかける。 このあたりの聞き手の煽り方は頭脳警察以来なのだが、そこで唐突に「つれなのふりや」「すげなのかおや」と異化させる。これがいい。

オイルロードがテーマのアルバムなのに、牧歌的とも云える、非常に野卑た男くさい歌で、 本歌が安土桃山期の堺の歌人のものでもあるせいか、 この歌のPANTAは堺から粗末なオンボロジャンクでシャムやらルソンへ向かおうとする安土桃山期の陽気で荒くれた海の民という印象をもつ。

この前の曲が「マラッカ」。「アラビアの原油をたらふくつめ込んだ日本行きの20万トンタンカーがマラッカ海峡を渡る」という歌。 このふたつの交差が、さながら、日本行きの近代的な巨大タンカーと日本発のPANTAを船長にした時代遅れの小さな朱印船が、回廊のような細いマラッカ海峡ですれ違う、というイメージが広がって面白い。



まったくの蛇足であるが「つれなのふりや」を参考にして長淵剛は「Captain of the ship」を作ったのではなかろうかと私は思っているが、実際はどうなのだろうか。 まあ、「つれなのふりや」はレゲエの陽気なリズムが全体の重さを救っていて、純粋にポップスとして楽しめる作品にもなっており、「Captain of the ship」の怪作ぶりとは良くも悪くも一線を画しているわけで、まったく一緒ということはまったくないのだが、 どうも似通った着想で、ちょっとばかり気になってしまう。ぜひとも聞き比べて欲しい2つの作品である。



2005.08.11

業務連絡。

くらたま先生。薄味のコメンテーターお仕事もいいですけれども、"小泉純一郎は「だだっ子」。小泉さんとデートしても自分勝手で疲れるだけだろうし、岡田さんはまじめ過ぎて面白みがない"なんて、 あまり賢くみえないおばちゃんのような持論を語って2ちゃんねらーを釣らないでください。

うちのくらたま先生のテキストにアクセスが集中しちゃうぢゃないですかっっ。まったく。 「このテキスト、まったく的外れ。近頃のくらたま先生は凄いんだから」なんてスルーされるように、がんばっていい仕事してくださいよ、もうっっ。



2005.08.10

"ギガワロス"も"テラワロス"もなんだか手垢にまみれて、使うのに相当の恥ずかしさがこみ上げてくる今日この頃、"イロメロミックス"のCMが流れてくると思わずチャンネル変えたくなりませんか? こんにちは、まこりんです。

いやぁーー、あのAAって、どうよ。使い古されて、すっかり廃れた2ちゃんAAの数々がなんかもう、むしろ懐かしいという感じで、ねぇ、いったいどの層へ訴求しようとしてるCMなんだ。 いまだに本気で「ナウい」とか、そういう死語使っているおっさんに出会ったときの、絶妙な気まずさというか、 和田アッコのダブルピースとか"ヒューヒュー"に通じるものがあって、ダメ。本人は"アリ"と思ってやっている、"若い子のノリについている俺、カコイイ"と思っているというのがまた痛すぎる。 あの絶妙なズレはわたしには耐えられない。相手に悪気はないんだろうけれども、あんまりにもあんまりです。こんなに視聴者の居住まいを悪くしてどうする。
って、世間的には、2ちゃんのAAって、マイナーなもの? そんなに知られていないもの?

あ、「電車男」のドラマもそんな恥ずかしさが覆っていて、私はダメだなぁ。いいわるい以前に恥ずかしさに正視できない。できませんっ。 みなさんはそうでもない?



2005.08.07

毎年のいつもなのだが、八月はなんというか、無気力になる。 後向きでメランコリックな詮無いことがつらつらと頭を占領して、どうにも建設的なことに心が向かない。 サイトも何かを書こうとは思うのだが、どうにも感傷が先に立って勢いが殺がれて、上手く仕上がらない。 日記もくだらない身辺雑記ばかりになってしまう。

夏の鮮やかな日差しはなぜかわたしを空しくさせる。
何かもを追想の彼方へと押しやっていく。
そして、からっぽの空にからっぽの心が映る。

などとポエジーになっているが、実際今日やったことは、冷やし中華作ったり、水風呂に入ったり、「塊魂」の記録更新したり、なんですがね。 ま、つまりは、なんだ。うちのサイトのおニューのテキスト、しばらくあがらないっぽいです。



2005.08.06

家の前庭の雑草刈りをした。 これを秋まで放って置くとコオロギやスズムシなどの秋の虫の棲家になって、夜更にパソコンのある居室の窓を開け放すとなんとも風流なのだが、 春先に雑草刈りをしなかったせいで、鬱蒼として、見た目が何とも風流でない。というかむせ返すように暑苦しい。 コオロギたちには悪いが、えいやっ、とばかりに昼前に刈りまくった。

下草を引き抜くと、その下で安らかに暮らしていたダンゴ虫やらアリやらはさみ虫やらが住処を失って大恐慌状態で右往左往する。 そんなこと知らぬ私は、それでも引き抜く引き抜く引きちぎる。 神々の手はいつの時もかくなるも残酷なのである。終末の時に、理由などないのである。

などと、汗を滝をように流しながら下らぬことを考えつつも、一時間強でひとまず、ある程度片付いたので終わり。前庭の最後の審判はここまで。
しかし、いつも思うのだが、雑草を根っこごと抜きおわった後の庭というのは、程よく耕された畑のように土がふかふかになって、なんとも草が根付きそうな感じがある。 結局、わたしは前庭の破壊と再生を繰り返しただけ、ということなのだろうか。では、さながら私はまこりん家前庭のシヴァ神ということか。 というわけで、雑草と私をめぐる争いというのは未来永劫続くのである。そして少年は神話になるのである。

と、まぁ、今日も詮無いひとり言なのだが、うっかりバミューダパンツで作業したせいか、ふくらはぎがなんとも痒い、かゆかゆ。見るとぽつぽつと赤い斑点が……あぁ。これアップしたらキンカン塗ろっと。



2005.08.05

さらに続いて、料理の話。
前回前々回と「手抜きでうまい料理を作るまこりん」っていうのをやたら主張しているけれども、そこんところ実際どうなのよ?  とお思いの読者の方に、ひとつ、お安く簡単でマジうまの料理を紹介。

「味塩コショウで作る擬似ケンタッキー・フライドチキン」

【用意するもの】

・鶏肉 (どの部分でもいいけれども、一番安いむね肉で充分)
・化学調味料・塩・胡椒が一緒に混ざった調味料
・小麦粉

【作り方】

・鶏肉は表面がぬるぬるしている状態のまま、そこに「味塩コショウ」を表面にうんざりするほど、胡椒の粒で全体がうっすらと灰色がかるほど、これはもう罰ゲームかという寸前まで、まぶす。
・更にそこに、小麦粉をつれられるだけまぶしまくる。2、3分置いてしっとりなったら、また更に小麦粉をつけるくらいの勢いで真っ白になるまでまぶす。
・適当に中まで火が通るまでしっかり揚げる。揚げている間の火の調節は普通のコンロなら特に必要ないかな。白っぽいのが気持ちキツネ色がかったくらいで私は引き上げる。
・美味しくいただく。

馬鹿みたいに簡単で、料理のポイントはあんまりないんだけれども挙げるとすれば、ひとつが「味塩コショウの量」。「こんなにつけて大丈夫?」と思うほどつけちゃう。私はトレイに味塩コショウを20〜30gぐらい出して、そこではたはたと鶏肉全体にきちっとまんべんなく両面つけて、最後に軽くはたいて落として、ってくらいの量かな。
あともうひとつが、「鶏肉の大きさ」。そこそこの大きさがある方が失敗しない感じがする。 外がカリッカリで、中がジューシーって一番ベストな仕上がりになりやすい。小さいと、その一番いい時の見極めがちょっと難しい。ひとつが手のひらくらいの大きさがベストかなぁ。ただ厚みがあると火の通りに時間がかかるのでそこは注意。 わたしはむね肉の一枚のぶ厚い部分だけをスライスして薄くして、大きさはそのままにして使う。そうすれば、火の通りも早いし。

って、こんな簡単なフライドチキンが、マジうまなんですよ、奥さん。え、たったこれだけで? という、マジカルな味わい。 もうね、お酒やら醤油に漬け込んでがんばったり、市販の専用の素を使ったり、スーパーのお惣菜で買ったりというのが馬鹿馬鹿しくなるほどのうまうま。 味は、これがなんと意外に「ケンタッキーフライドチキン」に一番近い。特にちょっと冷めた時の、皮がしんなりして、そのかわり味がしっかりして、なんてのはケンタそのもの。ケンタのチキンをうちで再現したいという方はぜひともやってみてみて。



2005.08.03

8/1に続いて料理の話。
どうもこと料理に関しては自己愛が強い人間のようで、人様に紹介された「うまい店」というのが、さほどその人が誉めるほど「うまい店」に思えない時というのが時々ある。 もちろん中には本当にありえない上等な店もあるし、また菓子系統は洋も和も作るのが骨なので素直に美味しくいただくのだが、そうでない時はつい「これだったら、自分で作ったアレの方が安くて美味いな」と思ってしまう。 そんなことが多い。

まあ、私は同世代の人間はまだ年齢から言って、そんなに上等な店をたくさん知っている人というのは少ないだろうし、またわたしも本当にいい味がわかるような繊細な舌を持っているとも思えないのだが、 ともあれ、どうにもわたしは何か人様の料理を食べる時、せっかく出されたものなのだから黙って美味しくいただこう、と思う一方で、 無意識に自分の料理と引き比べていることが多い。 素直に美味いと思った時は「どうやれば容易にこの味を再現できるか」と自分のスペックに合わせてそのテイストを盗もうとするし、そうでない時は、これとこれをすれば自分好みになるかな、などと考えたりもする。 ――と、こう書いていると、なんだか厭なグルマンのように聞こえるかな。 ま、前回書いたように、わたしは手抜き命の「なんちゃってグルマン」で、むしろ美味いものに大枚はたいて惜しまない人など小馬鹿にしている口なんだけれどもね。

料理っていうのは、偏差値でいうと、致命的に不得手でない限り、どんなひとでも60くらいまでは普通に努力していればなんとかたどり着くもんだと思うんだよね。 ただ、そっから先、特に65から70ってのが、もう果てしなく難しいわけで、そうなると、素材やら料理人の繊細な腕やら、というもう色んな意味で選ばれた領域に行くのかな、と。
グルメ偏差値で云うとわたしは選ばれた領域を目指さない、目標偏差値60のグルマンというか、いつも食べられる、お安くお手軽な美味しいものを目指しているというかんじで、それより上位を「労力のわりにそれって報われなくない?」なんておもっていたりするのだ。

偏差値的な話でついでに言うと、普段ジャンクフードばっかり食べている人が雑誌紹介される有名なお店に並ぶ、っていうアレは、受験で言うと、偏差値50以下の人がトップクラスの学校を記念受験するという、あのテイストに近いんじゃないかな。まあ、本人が楽しいのならいいけれども、あまり意味がある行動に見えないぞ、という。 だからこそ、そういう店の多くは客の足元を見るようになってしまうんじゃないかな。



2005.08.02

7/26にわたしが放り投げた「COMIC BATON」だけれども、どうやら約一名を除いて(――ってそのひとりは家人なのだが)皆さん答えてくれたようでありがとうございます。 バトンを渡した時は、親の愛情を試すためにいたずらをする子供のようにひそかにどきどきしましたが、滞りなく受け取ってもらえて、よかったよかった。 俺ッ、愛されてるっっ。

それにしても、漫画というジャンルが多岐にわたっているのか、それとも私が不勉強だからなのかしらないけれども、皆さんそれぞれ挙げる作品がわたしにはまったくわからんものばかりで、ちょっと焦った。 読んでいて、「あぁ、アレね」とさえ思えねぇっ、という。や、まぁわたしもマニアックなもの取り上げとりますが。 今さっきまで読んでいた漫画は施川ユウキの「がんばれ 酢めし疑獄」だし。どれだけ知っているよ、という。 「MUSIC BATON」と比べるに、漫画って音楽より更に細かくジャンルわけされていて、今は個人でしか物差しが計れないところまでいっているんだなぁ、なんて、そんなこと、思いました。



2005.08.01

私の母が致命的な料理音痴だったせいか、わたしは小学生の頃から料理を頻繁にするようになっていた。 最初はもちろんインスタントラーメンとか冷凍食品とか、ほとんど料理といえない代物ではあったが、 高校に進学する頃にはもう普通に、マーボー豆腐とか、鳥のからあげとか、月見うどんとか、一品料理を勝手に作っていたし、 大学に進学して一人暮らしするようになってからは、現在に到るまで、わたしはほぼ毎日台所に立っている状態で、 そのせいか、わたしは変に料理が上手い。

「変に」というのは、思いっきり手抜きで邪道で、コストと時間重視で、 「本格派」とか「こだわり」とか「厳選された素材」とか「じっくり煮込んだ」とか「繊細な味付け」とかもう、そういう方向とは確実に一線を画した路線。 つまりはお安く簡単で、そこそこ美味いもの、という、だらしがない主婦の料理なのだ。

しかも私の料理はひとことでいえば「化学調味料・命」。 わたしの台所には、砂糖壺、塩壺のとなりにしっかりと「化学調味料壺」がしっかりあって、 そんなかには、1kg 398円の業務用の化学調味料がたっぷりと、もう、いくらでも使ってくれろ、という勢いで鎮座ましていて、 これを和洋中関係なく何の料理にもドバドバ入れる。入れまくる。

あんね、私から言わせていただければ、世間の人は化学調味料の本気の力をあまり知らないね。 料理に化学調味料使う人も、ホンの気休めのように、パラパラっと一振り、とか、小袋に入ったのひとつ、とか。 こんなもんじゃ、化学調味料の実力は出ないのですよ。もっと過激にかつ繊細に使っていこう。 煮物とかは大胆に、大さじ一杯位は入れていこう。それくらい使うと、 「アレ、もしかしてこれって、本物のいい出汁を使った時の八割ぐらいの位置にはいっている?」 ってあたりまで行きます。マジで。あんまりにも入れすぎると頭痛くなるけれども。
正味の話「なんかこの料理、方向としては間違っていないけれども、味がパッとしないな」って時は、料理酒をちょっと入れてひと煮立ちさせるか、塩か化学調味料で整えれば大抵何とかなる。というか、なんとかさせる。

月桂樹とか豆板醤とか味醂とかニンニクとか生姜とか、料理に案外欠かせない強い味方の存在を知るのも大切だけれども、 料理を下手な人は、化学調味料と料理酒の使い方からまず知るべきなんじゃないかなぁ。 案外大胆に何の料理に入れて大丈夫なのよ、このふたつは。入れたことによる失敗ってのはもう、全然少ないし、入れたことによる効果が大きい料理というのはホンと、驚くほど多い。 きわめてローリスク・ハイリターンな調味料なので、がんがん入れて色々試してみて、自分の好みの按配を決めていくといいと、わたしは思う。

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