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まこりんのつれづれなる日々



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2005.07.30

プリンターのインクはインクカートリッジを買い換えなくても、使い切ったカートリッジに詰め替え用インクを充填すれば、また使えることを皆さんご存知ですか?  わたしはつい最近知りました。今日も浅い知識でパソコンを使っているまこりんです。

100円ショップにある「プリンター用つめかえインク」の現物を見てはじめてそういうことができるということを知ったのだけれども、 それは先日試してみて、難なく成功。 調子に乗ったわたしは一段階上にステップアップするべく、今回は高価な「プリンター用インク」でなく、お安い「スタンプ用水性インク」を補充して挑戦。 ……してみたら、やっぱりだめだった。

開けて中を見てみたらもうプリンタのヘッドが真っ黒さ。ははははははは。
まぁ、水とスポイトとティッシュを使ってヘッドを綺麗綺麗するのに二時間かかったさ。 もっちろん、新しい黒のインクカートリッジも1ケ購入したさ。 つまりは無謀なチャレンジだったって云うことさ。 その話を友人に話したら「プリンター作っている会社がどれほどインクの開発に労力を割いているのか知らんのか?」とあきれられたさ。 はははははははは。

プリンターは精密機器です。無茶はしないようにしましょう。



2005.07.28

実は先日、mixiの潜入に成功した私なのだが、なんというか、だるーーい気分になった。 登録以前は絶対否定的な潜入レポを書いてやるっっ、と思ったが、その気力さえも奪われた。 云うのも馬鹿らしいというか、なんというか。ということで軽く感想だけ書き残してこのことは忘れる。

ひとつ思ったのは、mixiは硝子張りの牢獄であるということ、でもってmixiの住人はそれぞれがその牢獄の看守であり、囚人であるということ。 お互いを監視しあい拘束しあうシステムというか、そこに非常に不健全な匂いを感じた。
コミュニティー(2ちゃんねるで言うスレッドみたいなもの)など、人の気配はあるのに活気がないあたりとか非常に不気味だし、不用意に色々なところを散策するとそこの管理者が続々とわざわざ自ページにやってくるのも、もうなんだかだし、これほど「常に気配を窺われている」という被害妄想を肥大させるシステムというのも珍しい。 世の中には不自由であることに喜びを見出す人種がいるようだが、それは私とはかかわりのない人たちかなぁ。

しかし、その不自由さを引き換えにして味わえる情報が2ちゃんねるよりもつまらないというのはどうしたものか。 レビューなどを見ると、本当の『チラシの裏』というのはこういうものなのか、と唖然とするものがある。 SNSは貴族のサロン文化をネット化したスタイルに見えて(――コンセプトは絶対それでしょ?なんとなく直感だが)、結局ただのぬるい出会い系なんじゃないかなぁ。少なくともmixiはそうとしか見えなかった。 まぁ、それで楽しい云う人を否定するつもりはありませんがね。ただ、馴れ合いや無内容な言葉の投げあいは実社会だけで充分かな、俺は。別にネットで恋人探したくないし。



2005.07.27

近頃、なぜか中山美穂の91年のアルバム『De eaya』を結構聞いているんだけれども、これって、実は意外と名盤?
結構中山美穂のアルバムって、アイドル時代はユーロビートなりブラコンなり、当時の流行りに対して素直な作りで、まぁ当時はそれがカッコ良かったんだけれども、ゆえに今あらためて聞くと時代だなぁ、という部分も多いように思える。 一方92年以降のセルフプロデュース時代はバラードに没入していって、ファンはこういうの好きなんだろうなぁという世界でして、これはこれで、という。

そこでこの『De eaya』なんですが、当時はさほどピンとこなかったものの、改めて今聞くと結構今でも耐えうる音源が多いんでは、と思ったりするのですね、わたし的には。いかにも当時のハウスな「BINGO」とか「COKATOO」などはまぁ、時代だな、という感じだし、 それに後半はわりとバラード攻めになっちゃっているんだけれども、ともあれ前半「Paradio」までは凄くいい。 特にエスニック方向に強く傾いた「MANA」とか「Crazy moon」とか、全然今でもアリっすよ。 「つい最近日本に帰ってきた中山サンの新曲がこれなんだよ」といわれても聴かされたとしても納得するものがあるっつうか、「あ、これからはこういうエキゾでカフェっぽい方向でいくのね」と。 こじゃれた店でうすーくかかっていたとしても全然問題なし。15年近く前のトラックは思えないのですよ。

アイドル・歌謡マニアは筒美づくしな『エキゾティック』や角松敏生プロデュースの『Catch the nite』あたりを、生粋のミポリンファンはバラード攻めな『Mid Blue』や『Deep Lip French』あたりを1番のアルバムに推すんじゃないかなと思うけれども、 いやぁ、『De eaya』、これも捨てがたい。南国のリゾートって感じで、井上ヨシマサのサウンドワークが抜群。 バラード成分をもっと低めにして、ハウスっぽさを低くするともっとアルバム全体のエバーグリーン度は上がったのかもしれないけれども、時代性とファンの求めているものを考えたら、このあたりが限度だったんだろうな。 以前にも以後にもない中山美穂の世界だけれども、これも忘れちゃいけませんよ。やっぱり。



2005.07.26

【COMIC BATON】

「ミュージック・バトン」以降なんか色んなバトンがネット界を跳梁跋扈しているようだが、 三ツ雪柚菜さんからさりげなく「COMIC BATON」なるものをそっと手渡されたので、 答えてみる。

■本棚に入ってる漫画単行本の冊数

・1200〜1500冊くらい?

漫画ばっかり買っていた94〜98年頃には漫画購入リストをつくっていた。その段階で1200冊以上あった。 そのあと、ちょっと本を処分したり、買い足したりの繰り返しで、まあ、こんなものかな。

■今面白い漫画

ひとまず現在連載中のものということで考えてみる。

・「楽園まであともうちょっと」 今市子

やおいなのにテレビのホームドラマっぽくって面白く、今市子さんの作品では一番好き。 人とのつきあいのリアリティーがよくでていると思う。ぐだぐだで成りゆき任せなもんだよね、浮世ってもんは。

■最後に買った漫画

「夢幻の楼閣」 水上シン
「Crimson Wind」  Duo Brand

あー、俺、近頃やおいしか読んでいないな。反省。水上シンはどんどんエロにむかっていて、いかがなものか、と。絵は好きなんだけれどもなぁ。 「Crimson Wind」は透理サマのでっかい三つ編みがかぁいかったです。やおいはロン毛だぁっっ。

■よく読む、または特別な思い入れのある5つの漫画

・「残酷な神が支配する」 萩尾望都

やおい萌えの観点から行くとぶっちゃけ「マージナル」や「海のアリア」の方が私的には上なんだけれども、やっぱり、萩尾望都でひとつとなるとこれしか考えられない。 高校〜大学の思春期ど真ん中にこの作品を追っかけてしまったというのもあって、そういう意味でも忘れがたい作品。

・「ブッダ」 手塚治虫

「火の鳥」の偉大さは語り継がれているのに、なんでこの作品はわりと手塚作品の中ではスルーの方向なんだろう。不思議。感動の大作なのに……。 手塚先生は個人的にさほど好きな絵柄ではないんだけれども(――失礼っ)、そういう萌えやらなんやらといったこちら側のつまらぬ趣向など関係ないほどハイクオリティーで、読ませられてしまう。 もう、天才というしか。

・大島弓子の漫画の何か

「綿の国星」以降の大島センセの作品はどれも素晴らしいのでひとつに絞れません。無理。 ひとまずここで「ロストハウス」とか何かタイトルを挙げてもいいけれども、日替わりになっちゃう。

・吾妻ひでおの漫画の何か

吾妻ひでおの漫画は「漫画家・吾妻ひでお」というキャラクター込みで楽しむものなので、どれいうのは、無理。実験的な作風もその後の私小説作家のような転落とそれを描いた作品もどれも好きだなあ。 不気味くんとかなははとかのた魚とか、キャラクターもキモかわいい感じで愛着を感じますね。

・作品クオリティーでいうと、藤子・F・不二雄のSF短編集。"MY 萌え History"で考えると高河ゆん「アーシアン」(のちはや)。

上位4つは鉄板だけれども、5人目は厳しいなぁ。ひとまず、人に薦める5作目と考えたら藤子・F・不二雄で、「My 萌え」だけとしたら「アーシアン」のちはやということでひとつ。 藤子・F・不二雄の真価は「SF短編集」にあると思う。「ドラえもん」も素晴らしいけれども、彼を児童漫画の人と思ったらマジ、火傷するよ。硬質で乾いた浪漫が描ける人でもあるのです。 ちはやはもう、萌えの一言で、おっきなリボンがよくお似合いですね、ということで。

■バトンを渡す5名

よーし、パパ、今回は色々と回しちゃうぞぉ。

TSUKASAさん
tak-shonaiさん
ヒスイさん
びりてぃすさん
うなぎさん


トラックバックかけないでひっそりと回しますので、面倒くさいならスルーの方向でよろしくお願いします。 日記のネタに困ったら、という感じで。はい。

ということで、みなさん、チェーンメールはお好きですか?
まこりんからの回答でした。



2005.07.25

ふと思い立って、今月どれくらいのテキストを書いているのか、調べてみた。 単純にアップしたテキストを20×20にフォーマットした一太郎にコピペしてみて、概算をはじき出したのだが、 なんと今月は既に原稿用紙で250枚以上も書いていることを知って驚愕した。 お前はデビュー当時の高河ゆんか、と。栗本薫か、と。自分で自分に呆れた。

特に五月などは物凄く、400枚をこえている。一冊本だせるほどの量だよ。まったく。 先日アップした吉川晃司のテキストなんて、あれも原稿用紙で30枚越える結構な長文テキストなのに、かかった日数がわずか二日だもんね。 確かに、10代の頃中島梓が「小説道場」などでのたまった「わたしなんて月産○○○枚だもんね」なんて話に「へぇー、やればそんなに書けるものなのか」なんて素直に信じた時期もあった。 その後「あれは特例だよ」と、「自分にはそんな勢いも才能もないよ」と退けた時期もあった。 が、だねえ、いつのまに誰にも頼まれずそんな大量のテキストを書いている状態に陥っていたなんて、今の今まで気づかなかった。気づきたくなかった。

ま、わたしのは所詮、推敲をさして重ねない、飯の種にもならない、しょうもないチラシの裏テキストですよ。 そんなプロの月産枚数を引き合いに出すこと自体間違っていると思う。 実際、サイトにあるテキストを商品としての価値のあるものにきちんとブラッシュアップさせるには、もっと時間がかかると思うし。 とはいえ、やっぱり、驚かざるを得ないのは事実なのですよ。わー、こんなに必死になっていて書いていたのか、と。 いつも見ているサイトが、わりと、毎日テキストバンバンあげるサイトだったりというのが多いので、感覚が麻痺していたのかな。

昔はこれでも「いいたいことはあるのに、それを上手く言える言葉が見つからない」なんて下唇をかんで、黙ってしまうような子供だったのですよ、わたしも。 なにかいいたいと50枚綴りの原稿用紙を前にして、それでも何も言葉を落とすことができず、ただひたすら途方にくれる、なんてことも何度もあったのですよ。 今は、なんかその頃の惧れが逆になって、どうせどうやっても上手くいえないのだから、下手な鉄砲数打ちゃあたる方式だ、となってしまって……。 あの頃の私は遠くなったのだなぁ。しばし追憶。



2005.07.23

「がんばっていきまっしょい」から引き続いて松山の話。

ドラマを見ていて「俳優陣みんな伊予弁下手だなぁ」と思ったのは昨日も書いたと思うが、 やはり大阪が舞台の芝居を見る大阪人は、博多が舞台の芝居を見る福岡人は、みな、やっぱりそう思うのかなぁ。
確かに、そのように方言に対して厳しい視点で見る郷土愛の強い方もいるだろうが、それにもましてあのドラマの伊予弁は変だった。 わずか松山在住五年弱で在住中自らが伊予弁で話すことを一切拒否していたわたしが「こりゃ、ひどい」と思うほどなっていなかった。

生粋の松山人の友近と、徳島出身の大杉漣は良かったものの、あとはもう全滅という感じで、 よくある非関西人の話すベタな関西弁とか、非東北人のベタな東北弁とか、そういう地点にもいっておらず、ただ「どこのお国の言葉?」という居住まいの悪さだけがあった。 これは、つまり「パブリックイメージとしての「伊予弁」というのが世間にない」というのが、どうも原因なんじゃないかなぁ。


伊予を含む中四国地方ってのは、「関西弁」「東北弁」「九州弁」のような大きな地域で区切った枠組みとなる方言ってのがないんだよね。 まあ、基本的に瀬戸内海地方ってのは関西と九州をつなぐ海の回廊であったわけだから、基本関西っぽくあり、そこに九州テイストを織り交ぜ、というところなんだけれども なかには広島弁とか土佐弁とか、もう突然変異ともいうべき強烈な個性をもった方言なんかもあったりして、非常にわかりにくい。 そのなかで伊予弁ってのは地理的にもそうだけれども、ちょうど雄雄しく荒々しい広島弁と土佐弁にはさまれていて、そのせいか、地味で特徴のつかみづらいうすーーい方言なんですよ。

とはいえ、関西っぽくあればなんとか、というと全然違うわけで、伊予は関西と比べるとやっぱり断然田舎で長閑なせいか、関西弁のように言葉が霰のように頬にぱらぱら当たるようなあのテンポ感ってのは、絶対無いわけ。 そんな関西弁のなかで、もっとも伊予弁に一番近いなぁと思うのが京都弁だとわたしは思う。妙におっとりで、言葉に間があるのですよ、伊予弁は。 かといって、伊予弁は京都弁のように雅びていて、間で人の心の機微を読むようなところはまったくない。伊予弁の間はあっけらかんとした、ぼーーーっとしただけという単純な間なのね。 そこに広島弁風な荒っぽさがスパイスのようにからんで、言葉に野卑た印象を与え、という。つまり田舎っぽい素朴で暢気な京都弁が伊予弁だ、と私はおもったりしている。

なんというか、伊予弁は春の海でひねもすのたりのたりって感じなのですよ。音でいうと「ハ」行で、でもってなんかこう無駄に言葉をのばす。 ぽかんと口を開けたようなちょっと間抜けな、じいちゃんばぁちゃんみたいなしゃべり方。そこにゆったりとした時間がうまれ、あーー眠い、という。 ……女性コメディアンなのに妙にゆったりして抑揚があまり激しくない、はんなりとしているがさほど上品ではない友近のあのテンポ――あれは、伊予弁のテンポだとわたしは思うなぁ。

やはり、伊予の気候的特長もあってこの暢気節な方言が生まれたんじゃないかなぁとわたしは思う。 冬は中国山地のガードで雪が降ることもなく、夏は瀬戸内特有の気候で、日差しは強いものの空気が乾いていて爽やかな暑さ、秋の台風も、四国山地・九州山地・中国山地のガードでおよそ直撃がない。 ただ困るのが、日本にあって珍しく万年水不足くらい――ってこんな気候で暢気にならないほうがおかしいというか、そう思うよ。ホント。 ぽかんと口開けてだらしがなくしゃべっても、なにも支障がない、という。

さらにこうした気候条件は、伊予で俳句文化が醸成されるにいたった主要因の一つではと勝手にわたしは思い込んだりしている。 じぃっと、何も考えずにモノをひたすら見たり、黙々と本を読んだりするのに、伊予の風土と伊予弁ってほんとあっているんだよね。 そのせいか、伊予の人というのは、世に出て大きく羽ばたくいて世界を変えるというセンセーショナルな人とか、耐えに耐え忍びに忍んでお国を守る、というような日本人好みの偉人とか、あまり生まれないけれども、 まぁ、のほほんとぼんやりしていて気楽で、日々晴耕雨読という感じで、自分にあっているな、などと思ってしまう。

って今回は珍しくもお国自慢している私なのでした。



2005.07.22

続いて、ドラマに関する話題。

ドラマ「がんばっていきまっしょい」を偶然見た。
7、8年前に田中麗奈主演で上映した映画のドラマ化作品なのだが、 実はいうと、わたしはこのドラマの舞台である高校のOBだったりする。 映画上映時は、それがなんだか気恥ずかしくって見ずにいたのだが、ちょうどテレビがついていたので、なんとか恥ずかしさをおさえてドラマ版をみることにした。 ら、もう、高校当時の個人的な記憶が馬鹿みたいに甦って、参ってしまった。

いやさ、もし、あなたの出身校が舞台の青春学園ドラマを見るっつったら、もう、そういう形でしか作品とかかわれないっしょ。 夏服は私の頃と変わってしまってなんだか可愛くなってしまっていたけれども、冬服は以前のデザインのままだったし、そういうのとか見ちゃうとさぁ、ねぇ、 部活動室に額縁に飾ってある校訓「自律 協同 感動」(――母校のは正しくは「自律 協同 創造」)に笑ったり、 なんでボート練習を梅津寺でなく、今治かなんかで練習しているの?とか、 それにしても俳優みんな伊予弁下手だなぁ、あ、でもさすがに松山人の友近は問題ないな(――というか、友近は標準語でも伊予弁のイントネーションがあまり抜けていないように見える。まろんとして日向くさいいかにも伊予弁っぽいしゃべり方をする)とか、 そういう細かいところとか気になったり、 それにしてもこのボート部の五人、いかにもうちの生徒っぽいわ、綺麗な子もそうでない子もとにかく化粧っ気ナッシングでもっさりしていて真面目で、なんか妙に恥ずかしげもなくカギカッコつきの『青春』するような感じ、確かにいたいた、なあんて、勝手に得心したり、 いやぁ、もうね、不意にノスタルジーしてしまって、本当困ってしまった。

ちょっと調べてみたところ、映画版だと校内でのロケのシーンが多いらしい。テレビ版も第一回で我が校でのロケのシーンがあったらしいが、映画版はタイトルバックからして、校門から校舎を正面に構えた絵だったり、さらに校舎から見望む松山城とか、県の文化財指定になっている明倫館とか、樹齢120年を越す母校のシンボルツリーの青柳とか、 生徒、教員、OB、OGなら知っている「ここだよね」という校内の重要ポイントでのシーンがいっぱいあるらしい。エキストラで私の知っている学校関係者なんかも映っていたりしてね。更に松山のいろんな風景が織り込まれているようで、 あー、なんか調べるほどに、より見たくなってしまった。そろそろ松山を離れて10年近く経とうとしているものなあ……。

この「がんばっていきまっしょい」のエールに象徴されるように、わが母校というのは私が在籍した90年代中頃でも、いまだに嘘臭いほどに「バンカラ」で「健全」で「真面目」で「ひたむき」で「青春」でなんか「仲間」な感じで、という、退廃という言葉がまったく辞書にない学校でして、 だからこの物語の設定も、まぁひとつの虚構なんだけれども、「でもあの学校だったらあるだろうなぁ」という、そういうリアリティーをOBである私は感じてしまった。 普通であればドラマやマンガでしかありえない「学園がひとつの幸せなお祭り状態」というのを味わおうと思えば容易に味わえる場だったのですよ、あの学校は。や、マジで。 そういう空気をなぜか教師も地域の方も作ってくれるのですよ。 ―――これは教師の多数が元々OG、OBであったというのが密かに大きいのかも。よく授業の合間に"私が生徒だった頃"の話する先生いたものなぁ。団塊の世代で教室が足りなく理科室をホームルームにあてがわれた時代のOB先生の話とか、 1945年の二学期の話をする定年間近の先生とかいたものなぁ、空襲であたり一面何もなくなって松山駅から学校が見えた、とか。そういうところもあって"伝統を守る"という風土が他校と比べていっそう強いのかもしれないなぁ。 って、まぁ、それは学校関係者でも松山人でもない方にはわからない話で、そうでない視聴者は この物語を「現代に失われつつある健全な青春へのノスタルジー」と読み解くのでしょうが。

とはいえ、遠い昔の漱石の「坊ちゃん」といい、このドラマと映画といい(――ちなみに原作者の敷村良子さんもOGであるとのこと)、なんというか、いろんな人に愛されて幸せな学校だよなぁ、わが母校。 在校生時代はどうにもその健全さが居住まい悪くってそっぽを向いてしまってばかりだったわたしだけれども、それでもそれなりにあの場で受け入れられていたわけで、そう思うと、やっぱり暖かい学校だったなぁと、 懐の大きい学校だったのだなと、いとおしく感じずにはいられません。

ちなみに「がんばっていきまっしょい」のエールは本場は「しょい」で合わせた後「オー ウェイ」で〆る時もありますんでそこんところ、よろしく。 このエールを映画経由、あるいは映画から引用したであろうモー娘経由で知ったであろう方はそこがなっておりませんぞ。ぷんぷん。



2005.07.20

安浦さんがぼくらにさよならをして、代わりに柴田恭平主演の「刑事部屋」というドラマが始まったのですが、 ……いやぁ、このドラマ凄いよ。凄い。 何が凄いって、や、柴田恭兵演じる仙道晴見の萌えキャラっぷりにほどがあるっっ。という。 なんというかですね、仙道晴見は刑事ドラマ史上始まって以来の「不思議ちゃん刑事」なんですよ。

今日の放送は「老人の孤独死」がテーマで、食中毒で坂巻なる老女が自宅で死亡するものの、なぜか隣人の倉田なる中年男性の様子がちょっとおかしく、彼は大学で微生物研究をしているというが―――って話だっんですが、 あわただしい現場のなかひとり仙道は死体にずっとよりそって「おばぁちゃん、淋しかったね」と語りかけたり、 調査があっけなく終了しかけるのを「坂巻さんというひとつの星がこの空から消えたのですよ」とドリーミーな言葉で周囲を説得しようとしたり、 寺尾聡演じる同僚刑事の鵜飼が「どうも倉田がくさい」と周囲を色々調べているところ、仙道が作為なしで直球で倉田に突撃かまして鵜飼をぽかーーんとさせたり、 もう、仙道はもうどこまでもピュアでポエミーで乙女でちょっとドジっ子、という。
そんな仙道に同僚たちは呆れ気味で、距離を置いているのだけれども、妙に観察眼が優れているところや、献身的な仕事っぷりに (―――この回では、休日返上で勝手に坂巻の親類を尋ねて、遺体を引き取ってもらえるようお願いにいって迷惑がられたり、あるいは以前DVで問題を起こした夫婦宅にまた問題が起こらないようにと夜もすがら張り込んで近所の住人に変質者と勘違いされたりしていた) 最終的には同僚たちの信頼を勝ち得えいくんだろうなぁ。きっと。

とにかく「仙道晴見、54歳にもなって、君は何故そんなに清純なんだ」という。もう一言でいえばそうとしかいえないようなドラマなんですよ。マジで。こんな完璧な「受」らしい「受」をここ最近見たことないっていうほどの完成度の高さ。 はるみチャンはみんなの姫だぁ、という。エプロン姿がよく似合いですね、という。 つーか、テレビの料理番組を必死にメモしたり、なんかにつけてお空がテーマのポエムを語りだしたり、誰に対してもいつも敬語でフレッシュ、世間ズレまったくなしでとことん健気、そして実はクレバー、ていうそんなはるみチャンに萌えないわけがないでしょうがっっ。ねえ、そうでしょ、ねぇさんっっ。

特に暴力団ともつながりのあるちゃらぽらんな不良刑事、鵜飼とのバッドコミュニケーションぶりがもう、た、たまらんっ。 今回のラストは、鵜飼が他の同僚に「あいつが近くに来ると痒くなっちゃうんだよ」などとぬかしていたところに 仙道がやってきて「痒いんですか? だったら掻いてあげますよ」とせまる。やめろよと、逃げる鵜飼に「遠慮しないでください」と追いかける仙道、というシーンだったのだけれども、 もう、私の中できっぱりはっきりと、「鵜飼×晴見」だったわけで。

ともあれ、このドラマは、「あぶ刑事」でやおらーを悶絶させた柴田恭兵からの新たな挑戦状といって過言でないですよ。や、マジで。 もうね、お兄さん同人誌出しちゃうよ、という。そうとしか見れない作品です。 この作品がわからないというのは、やおら―ではありませんね、ときっぱり言い切っちゃう。 とにかく今期の一押しやおいドラマであることはもう間違いなったらないので、まだ一回もこの作品見たことないっつうやおら―の方は見れ見れ。



2005.07.18

近頃、日毎サイトが色々なところをこまめに変えているなあ、 と気づいている方はどれほどいるでしょうか。 報われないことに今日も労力を費やしているまこりんです。 まあ、サイト運営自体そんなもんか。



後々のために、ちょっと現在のサイトのデータを記しておく。

本サイトのデータ、05年7月上旬。
テキスト、画像含めた全容量7.5MB。
ALL PAGE Visit 1000〜1200。うちBookmarkからのVisit 250〜350。
一日あたりの転送量、50〜65MB。

只今ホームページを借りている以上転送量が気になるが、昨年秋の移転直後2、3ヶ月で爆発的に数字が伸びたものの現在は漸増といったところで、大きな変化はない。 突発的な何かが起こらずこの関数で進むのなら、厳しく見積もってもあと1年くらいはこのままで安泰かなぁ。
まあ、正直言ってこの数字がこれ以上膨らむということが今のわたしには想像できないのですが。 こんなマニアックなサイトにそんなに人集まるかよっていう。



2005.07.16

やっとやっとやっとやっとーーーーーっっ。 谷山浩子のレビューをあげることができましたぁっっ。

実はサイト開設当初から、谷山浩子は絶対しっかり取り上げようと思ったひとりだったのに、なかなか取り上げることができなかったのですね。 で、ひそかにここひと月くらい谷山浩子フェアを開催して、 なんとか書き始めたのですが、どこまでいっても青い山というかね、ぜんぜん終わらない。 もうね、死ぬかと思いましたよっっ。浩子は俺を殺す気か、と。死んだらテキストアップできないので、何とか帰還しましたが。ええ。 30枚以上のアルバムは、既に凶器です。

個々のレビューに関してはかなりさらっと流したつもりなのですが、結局ひとつのディスクレビューでは最大の長尺になりましたよ、なりましたさ。 それにしても改めて谷山浩子をじっくり聞き返して、彼女ってば"やおい界のユーミン"なんだなぁ、ということを再認識しました。やおらーは谷山浩子ひとまず聞け、と。

作品ひとつひとつも、自分の中での好き嫌いというのはもちろんあるけれども、どれもこれも作者のやりたいことがしっかりと見えるような気がする。 ベテランになると『これって敢えて出す意味あるのかなぁ』っていう縮小再生産な作品が必ず何作か出てくるものなのだけれども、彼女にはそれがないのね。 ものの考え方や詞作やメロディー、手なりで弾く時のピアノの音色、そういった基本的な部分というのは変わっていない、もう万年少女という世界なんだけれども、 それでも結婚やら加齢やらなんやらで自分の立ち位置が少しずつ変わるのを素直に受け入れて、作品にしているなぁ、という感じがあって。 だからレビューを書いていても「あぁーこっから先はどうでもいいなぁ」という本当に退屈なところがまったくなくって、コケがついていないというか、今でもフレッシュというか、 いや、手が抜けませんでした。やっぱり偉大な方です。



2005.07.15

中森明菜のライブのレポートをアップしました。もし、これからライブに行くのでまだ内容知りたくないという方は、見ないように気をつけてください。
また、どういう偶然か、カルメン・マキ&OZのテキストも今日アップしちゃいます。 ちょうど明菜様とかぶってしまったので、この際ついでだ、えいっとばかりに仕上げました。 マキ&OZは前々からきちんと書こうと思っていて、明菜のライブ前に書き始めていたのものなのですよ。
あと何個かそろそろ書きあがりそうなのもあるんですが、明日っ明日っ、今日はこれくらいで勘弁。



2005.07.14

四夜続けてamazonのアフィリエイトの話。
昔っから当サイトにつきあってくださっている方はご存知だと思いますが、 実は旧トクトクにサイトを置いていた時、インデックスにamazonのバナーがしっかりあったんですよね。 まあ、その時はトクトクの規約で「amazonのアフィリエイトに入ること」ってのがあったからつけただけの話で、 どういうシステムかもまったくわからず、もちろん誰かがクリックするはずもなく、そんなわけでトクトクから出たときも当然という感じでamazonのアフィリエイトも外したわけで。
――んで、今、改めてアフィリエイトのシステムの色々をちょっと知っておこうかな、と思い立ってさっきサインインしたわたしなのですが、―――や、結構クリックしているっっ。びっくり。意外。 ってまあ、驚くこともないんですが、 トクトク時代のことや「一生懸命画像くっつけても、せいぜい年間でCD一枚買えるくらい」との友人の話などを鑑みて、まったく期待していなかったわたしですから、クリックしているというだけでも意外なんですよ。 そんなわけで、クリックするだけではわたしには何の得もないのですが、なぜか嬉しくなったわたしがいましたよ。という話なのでした。



2005.07.13

amazonの画像つけまくっているまこりんです。
っていうか、在庫思いっきりある商品の画像がないっていう、アレは嫌がらせですか。 その代わりとっくに在庫なし廃盤すれすれの商品の画像があったりして、もう、わからんちん。 山口百恵のアルバムなど、入手不可の初回版には画像ついてるのに通常版にはまったく画像なかったりするし、いったい何がしたいんだっっ。

手に入るかどうかかなり微妙な作品の画像を必死になって張るのは嫌だし、「けなし」方向のレビューにLINK張るのもアレなので、ひとまずこんなもんにしておきますが、いやぁーー改めてみて、今手に入らない作品ばっか扱ってますね、自分。役に立たないことこの上ない。 画像をつけたさくさくレビュー(――山口百恵、中島みゆき、大貫妙子、沢田研二)は以前と比べてかなり重くなってしまったかもしれませんが、今時のPCとネット事情を鑑みればどってことないよね。たかが400KBだもの。ね。と一応確認しておこう。



あ、明菜様、40歳の誕生日、おめでとうございます。ってのも一応いっとこうっと。



2005.07.12

あーーー、なんかバタバタしています。
サイトは昨日今日と、なんか色々なところを微妙に変えました。amazonの画像とか、注意書きとかもう、細かくいろいろと。 って、忙しいときに限って掲示板にエロの広告うざ―――っっ。



なんだって―――っっ。萩尾望都「バルバラ異界」最終回!?
第3巻読む限りだと、まったく終わる気配なかったんですが、ていうかむしろ「萩尾センセ、またまたま大長編ですかい?」という感じだったのですが、終わっちゃうんですか? うわーーー、気になる。めっさ気になる。近頃、コミックフラワーズ買っていないんよーー。萩尾センセの作品をいきなり最終回だけ読むのもアレだし。 ま、いつものパターンですぐに単行本出ると思うけれども、あぁ、それにしても気になる。じたばたしちゃうよん。



2005.07.10

昨日の日記、ものすごい文字化けしていませんでした? パソコンのことがまったくわからないまこりんです。

いやぁ、実はね、昨日、ついにPCを変えたのですよ。 で、まぁ、新しいのにメモリを足したり、CD-Rドライブ入れたり、データ移したり、RealplayerやらMessengerやら、ひとまず必要なアプリケーションを突っ込んだり、 まぁそのついでにFTPの設定もしたのですが、いやぁ、設定間違えちゃっいまして。ははは。 文字コードなぜかJISにしていたよ、おれ。

もう、今朝サイト見て驚いたさ、日記だけ文字化けしているっ。なんでぇーーー、っと。 きちんと全部のテキストのソースに「charset=Shift_JIS」をいれているのにぃー―、っと。 もう無駄にソースとか改変したりして、主にmetaタグとかさ、がもうぜんぜんダメで、グーグル先生に聞いてもわからん。もうこのページだけJISコードでいいや、と、絶望の淵にただずんでいたのを、ふとそういえばFTPの設定って……、と思い出したら見事にビンゴでした。 もう、小一時間は翻弄されましたよ。

ついでに今回、OSもとうとうWindows98からWindows2000Proに変えてしまって、まぁ、これに慣れてないっつうのもあるし、ほかにも、キーボードの設定とかもまたあれでして、いろいろ細かいところに翻弄されて非常に、疲れきっております。コンパネとか、もういじりたくないっつうのっっ。 結構パソコンって、気がつかないうちに色々なアプリケーションをいれて、設定もこまごまと変えたり、と、自分が使いやすいようにカスタマイズしているんだなぁと、痛感しました。もう、果てしなくだるい。



ポルノグラフティーがそういうので、わたしもアフィリエイトについて本気出して考えてみました(嘘)。 っていうか、ついにindexに僕らのamazonへのLINKがついてしまったよ、兄さん。 もう、僕はアマゾンの手先なんだね……。

はてなのダイアリーの「はまぞう」をためしに使ってみて、あまりにも簡単な作業だったのを調子に乗って、 「J-POP CRAZY」方式でテキスト冒頭にアフィリエイトのジャケット画像をはりつけてみようかなぁ……と思ったのですが、 ――や、ほら、殺風景なのもなんだしなぁ、なんてね。そんな風に思うときもあるのよ。 で、amazonのアフィリエイトということならジャケット載っけられるし、これでいいかも、TSUKASAさんのやりかたパクっちゃおう、みたいな。 ってわけでやってみようと思ったらこれがもう、大変大変。私が莫迦だった。PCを変えたついでに景気良く、なんて思うんじゃなかった……。 一応、「The eccentric opera」と中森明菜の近作のテキストにだけひとまずつけてみたけれども、どうよ。 「The eccentric opera 全作レビュー」とか、もうなんか妙に見栄えが良くなって自分のサイトじゃないみたいなんですが。



2005.07.09

ちょっと南野陽子だったり、鉄道だったりする話。
自サイトのリンクがはってあるので見つけたのだが、『ナンノの「春景色」という歌に出ててくる「神戸線の海が見える駅」というのはどこ?』 という話題がありまして……。ここ→

「神戸線で駅から海が見えるところといったら、JR神戸線の須磨や塩屋のあたりなのでは?」といったような回答があって非常にこう、なんというか、時の流れを痛感した。
「春景色」がリリースされた86年当時はまだ国鉄民営化前、大阪−姫路間の東海道・山陽本線にJR神戸線なる愛称がついたのはJR化後の88年、ということで、この歌の頃は鉄道で神戸線といえば「阪急神戸線」しかない時代だったんですよね――ってこういうこと書くとなんだか自分がひどく年寄りに見えるなぁ。 (――あ、ちなみに神戸近郊の山陽電鉄、阪神電鉄のそれぞれの路線名称は「本線」)。

あともういっこ。「シンデレラ城への長い道のり」という歌の、ディズニーランドへ歩きで向かう二人の「ターミナルからバスを待たずに歩き出した」のターミナルが「浦安駅」である根拠は不明。という部分にもこれまた、時代を感じたわたしがいたわけで。 ディズニーランドの最寄駅、京葉線舞浜駅が開業したのは88年で、それまでのディズニーランドへの最寄駅というのは、地下鉄東西線の浦安駅だったんよおー――っ。これももう、忘れかけている昔話なのかぁ。
当時は途中停車なしのバスがピストン輸送で浦安駅とディズニーランドをいったりきたりしていたんだけれども、それでも輸送力が決定的に足りなく積み残しがデフォルト、休日となるとバスターミナルの前には長蛇の列が出来ていて、何台もバスを見送ってようやく乗れるという、たどりつく前にげんなりしてしまう感じで――だからこの歌のふたりは、ターミナルでバスを待つのが面倒くさくなって思わず歩きだしちゃうわけで。 あの当時のディズニーランド行きのバスの混雑を知っていれば非常に"あるある"な設定なんだけれども、こういうことも今は説明しなきゃわからんのかぁ……。

こういう当然と思っていた当時の事実が説明しないと通用しないというのは、年齢を痛感しますね。 やっぱ「ポケベルが鳴らなくて」とかも、もうわからないのかなぁ。



2005.07.07

人は傷つけた分、傷つけられます。
こんばんは。愛の伝道師、まこりんです。

ネタ切れついでに昨日の話をひっぱるけれども、 うちのアドレスがなんでそんなに2ちゃんねるにはられるかなぁとやっぱり不思議で仕方ない。 わたしのテキストって、そんなに2ちゃんねるへの親和性が高い?釣ってる? もうね、2ちゃんねるの中の人がいるというのなら問いつめたいですよ、わたしは。

まあ、取り上げられてもわりと好意的に流されることが多く、 年齢詐称メンヘルブス高齢毒女とかいわれのない人格攻撃されることなどそうそうないので、別にかまわないんですが、 不思議だよなぁ、と思ったりせずにはいられないわけですよ。

わたしの意見をそのままコピペしたような書き込みなんかを見かけたり、あるいはそういった書きこみに対して"あんたまこりんかよ"とか"本人来ている"とかそんなのを見ると そのストレンジ感はマックスに至るわけで、一体なんなんだこれは、という。そんな時、いっそのこと書きこみたいと一瞬思う反面、後々が面倒くさいのでいつもスルーなのですが、そこを踏み込むとどんな領域が待っているのでしょうか、ってなにも待っていない?
ともあれ、まぁ精神衛生上よくないので、あんまり見ないようにしているけれども、なんなんだろうなぁ、これは。

ちっぽけなつまんない人間がひとりでやっているこじんまりとしたいい加減なサイトだと自分では思っているんだけれども、ただのそこらへんにおっこっているネットのゴミのひとつというか――って卑下するのもわざとらしい? や、でもホント、毒にも薬にもならないような空気のような存在っていうか、そんなデリカシーだらけの控えめの人間なんですから、わたしは―――ってそこ、モニターの前で笑わない。



2005.07.06

お元気ですか。年齢詐称メンヘルブス高齢毒女のまこりんです――って、あぁまたここ読んでいる人の4、5人しかわからないであろう自虐をしてしまった。
何故か和田アキ子サマのテキストへのアクセスが非常に多くて驚いているんですけれども、また2ちゃんねるですか、そうですか。

っていうかまあ、リンクなら何もかもスーパーフリーなサイトといっているので、別に2ちゃんねるだろうがYahooの掲示板だろうが好きにリンクすればいいんだけれども(――とはいえアクセス解析のリンク元を確認するに、なんでこんなに"ime"入っているアドレスが多いのよと呆れはしますが。) 曝されているのが二年以上前のテキストっては、限りなく恥ずかしい。もう、地面に穴を掘って埋まりたいくらい恥ずかしい。耐えられん。 前に貴乃花のテキストにアクセス集中した時にもいったかもしらんが、昔のテキストって文章下手なんよ。ビックリするほど下手なんよ――――っっ!!!!
や、"じゃあなにか、そんなに今は巧いのか"といわれてきっぱり"そうです"といえないわたしなんですが、やぁ、でも、サイト立ち上げた当初よか、少しはすっきりした文章が書けているような気がする。日々これだけ書いているだけあってね。 ともあれ、2003年のテキストとかもう怖くて見直せないッスよ、わたしは。なんでこういう文脈なのか、レトリックなのか、句読点なのか、細かいひとつひとつまでがうわーーーっという。許せません。 しかも、取り上げる内容が非常に危なっかしいものが多い。もう、安易に上から目線でぶった切ったりとかしているわけで、もう怖いです。自分が怖いよ、母さん。

っていうかさぁ、こんな、ブクマで入ってくる方が300人以上いて、ALL PAGEのVisit数が1000人以上を超える大手の(――わたしのなかではもう充分大手っすよ、これで)個人サイトになるとは思わずに書いていたわけですよ、当時のわたしは。 本当にチラシの裏というか、どうせ知り合いしか見ていないし、という、そういうつもりで書いていたわけで、非常にぬるーい気持ちで書いていたわけで、 長文を書きなれていないわ、事前に構成は練らないわ、しかも推敲もしないわ、書きはじめたはいいけれどもだるくなったからこのあたりで適当にまとめて終わり、とかそんなノリで、アップしていたんですね、自分。 それが数百、あるいは一千人の目に触れるものになるとは思いもよらなかったわけですよ。

もうね、削除したい。こういう過去のものは次から次へと削除したい、という気持ちが非常に強いわけですよ、わたしとしては。これは俺じゃねぇーーよ、という。
まぁ、だから古いコンテンツをさくさく消してしまうサイトの管理人の気持ちというのもわかるわけでして。やっぱり、過去のものってのは、自分であって自分でないわけで、これを自分のものとして今でも責任取る心づもりがあるかと問われたら非常に答えづらい。
とはいえ、削除するっていうのは、ユーザー視点からして非常に私は嫌なんだよね。なんかおれ的にそれは「負け」なんよ。 久しぶりに訪れたサイトが過去のコンテンツをごっそり削除していてちょっと"えー―っ"と思ったっていのは経験としてあるわけだし、 そういうのを自分のサイトでリピートしたいとは思わんのね。
非常に矛盾しているわたしなのですが、ともあれ和田アキ子のテキストは微妙に加筆修正しました。 結局この矛盾を解消するのってこれしか対策ってないんだよね。 ただ、こればかりやっているとキリがないというのもあったりしてこれはこれで困る。 昔のテキストいじるのと、新しいテキストをアップするのとじゃあ、絶対後者のほうがいいっしょ、見ているみなさんも。



2005.07.05

何故かいつまでたってもmixiに招待されないまこりんです。 ――「て、だってそういうのって元々嫌いそうじゃん」と思いっきり、友人に言われたわけなんだけれどもね。 や、まぁ確かにソーシャルネットワーキングって、説明を聞くだに、こう、自分とは相性の悪いだろうなぁ、と。 ぬるーーーい退屈な馴れ合いの世界というか、物欲しげな善人顔の世界が広がっているんだろうなぁ、と思いこんでいる私ですが。
いやいや、先入観で語っちゃいかんわけですよ。見もせずにそんな悪口いっちゃいかんのですよ。 そんな「あのぶどうはすっぱい」いうきつねさんじゃいかんのですよ。

というわけで、わたしはいつか王子様が来る日を待ちわびるようにミクシの招待を待つことにしたのですが――やっぱり、来ないよ―――っ。
やっぱ、あれ、なんだかんだいって最終的には批判テキストを書こうという算段でいるからいけないの? そういう腹黒い心が見えるのかしら?
とはいえ、こんな日記を書いてまったく見ず知らずの人から招待されても困ってしまうわたしなんですがね。 ――結局俺は何がしたいんだ。



2005.07.02

「はぐれ刑事純情派」最終回。
えーーーっ、小川範子や岡本麗やぼんちおさむの仕事を奪わないでくれよ、藤田まこと。 借金返したのはわかったからさぁ。
っていうか、近頃のシリーズってシリーズ終了直後に太陽にほえろバリに殉職刑事が出ていたのね。 小学生の頃は何故か見ていたものの、なんとなく見なくなっていたけれども、終わると淋しいよね。 ま、続いたとして、見るかっつったらまず見ないけれども。
あ、久しぶりにきちんと見た小川範子さんはなんかあんまり顔が変っていなくてびびった。彼女、中学生の頃からやってたんだもんなぁ。感慨。俺も年を取るよ。



「金曜日のスマたちヘ」"杉田かおる、さよならセレブスペシャル"って。
杉田ねぇさんが、どこへ進もうとしているのか、俺にはもうわかりませんっっ。 なんなんだろ。どうしたいの?どうありたいの、ねぇさん? なんかもう面白いとか、そういうところを超えつつあるよ。 そろそろギリギリの向こう側なんじゃ、というか。ねぇ。どうよ、そこんところ。



2005.07.01

前々から不思議だったんだけれども――。 活発な同人サークルというのは、どうして二人組と言うのが多いかなぁ、と。
相変わらず、そのスジの人には当たり前の知識、そうでない人にはなんのこと、という話題なんだけれども、そうなのよ。 もちろん1人のサークルもあるし、昔ながら大人数のサークルというのもあるだろうけれども、 同人の発行ペースがはやい、あるいは長年同人活動を続けているというのは圧倒的に二人組のサークルというのが多いのよ。
これはなんでだろうなぁ、と思っていたんだけれども、TSUKASAさんとコラボするようになって、わかった。や、二人組ってのは、やばい。 同じ趣味の人間が一緒になって同じことをやろうとする、これは危険です。あんね、二人組ってのは、まったく歯止めが効かないのよ。 もう、周りをおいていって、どこまでもいってしまいますよ。本当に。

3人以上だと、極が色々うまれて、例えば対話にも、話している人、聞いている人、そしてそれを見ている人、という外部の視点が生まれる。何を話す何を作るにしても、その場に社会性というものが生まれると思うのですね。 一方ひとりだと、相手がいないから、逆に仮想として不特定多数を想定して外に話すなり、物を作り出すわけで。ひとりに耐えきるとそれはそれで普遍性が出てくると思うのね。
そこで「二人」。 この場合は、相手がいるから、お互いを対応させて進めることはできるんだけれども、そこから向こうにいる外部へと広がらないのね。まず場に他者の視点が生まれないし、 とはいえ、相手がいるものだからひとりの時のように、相手の姿を想定するということもしないわけで、孤独を通り越した末の普遍性というのも出てこない。
なもんだから、こう、合わせ鏡のように、わたし→あなた→わたし→あなたの繰り返しで客観性を失い、ぐわーーーーっと周りをおいてけぼりにしてふたりして誰もついてこれない高いところへ登っていってしまうんですよ。 しかも困ったことに当の二人はそれが結構面白かったりする、という。そして勝手に盛りあがっている二人ができあがる、という。

夫婦とか恋人同士の関係が複雑なのは、情愛が絡んでいるからというのもあるだろうけれども、基本ユニットが「二人」だからなのではないかなあ、とわたしはちょっと思ったりする。
誰にも理解できない形で勝手に二人だけで盛りあがったり、煮詰まったり、愛憎でぐちゃぐちゃになったり、というのは男女の誰でもそうだけれども、これは「人は二人になるとコミュニケーションがそれだけで自足し、客観性が排除される」という特性が生んだものなのではないか、と。

なぁーんて、相変わらず屁理屈こねているわたしなんですが、えーーとつまりは、だ。
またTSUKASAさんと対談しちゃいました。しかも今までの対談で1番長いテキストになっちゃいました。2日に分けて計10時間近く話しちゃいました。 しかも二人してこの作業がそんなにつらくなかったです。一体どういうことなんでしょうか。もう信じられません。 なんか二人で、とてつもない山脈の踏破を目指しているような気がして心配でなりません。このまますすんでいいのか。って愉しいからどんどんすすんじゃうんだけれどもね―――。
とはいえ見ている方も一緒に踏破してください。いや、マジで。二人を置いてかないでっっ。

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