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メイン・インデックス少女漫画の館>小川良 「妖臣伝(妖雲 大内太平記)」

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小川良 「妖臣伝」

日本史JUNEの傑作

(「妖臣伝 厳島合戦異聞」上・下/幻冬社文庫/1998.10)
(「妖雲 大内太平記」/叢文社/1997.04)



 読後、心地良い風を感じることができた。
 大きな物語を読了しきった時にだけに吹きぬける暖かくも切ない風だ。この世界から離れたくない、でも離れるしかない、さよならと心で手を振って本を静かに閉じる。それを味わえたという一点のみで、少なくともわたしにとってはかけがえのないすばらしい小説だ。

 「妖臣伝」。この小説を、伝奇の形をとった歴史JUNE小説の傑作とわたしは言い切る。
 話の軸は戦国時代、周防・長門で起こった「大内氏」→「陶氏」→「毛利氏」の下剋上の権力移譲、陶隆房(後の晴賢)の謀反前夜から「厳島合戦」までの歴史の流れと、そこに絡む様々な人間ドラマが描かれている。しかもその人間ドラマはかつてのJUNEを愛した諸兄諸氏には見逃せないものばかりなのだ。
 高校で日本史をきちんと勉強していたなら(――または数年前のNHK大河ドラマ「毛利元就」を見ていたら)あえて説明することはないが、陶隆房は主君である大内義隆を1551年に弑逆する。「下剋上の典型例」として高校の日本史の教科書にも掲載されている。
 それからわずか4年後、1555年厳島において同じく大内氏の臣下であった毛利氏によって陶隆房は討たれることになる。それが「厳島合戦」である。
 この物語のひとつの大きなテーマは大内義隆と陶隆房の相克である。この相克を、かつての寵童と主君の愛憎のもつれと作者は読み解き、物語を構築している。


■ 雛は親鳥に復讐する  〜「義隆」と「隆房」〜

 隆房は主君・義隆に対してどこか子供じみた甘えを持っている。「私の言う事為す事全てを義隆様は絶対汲んでくれるはずだし、そうでなくてはならない」という根拠のない絶対的な甘えがあるのだ。家臣として忠実に実務をこなす一方で、かつての寵童としての日々に身についたその甘えは拭われることがない。  しかし隆房の思いこみは少しずつ、しかし確実に打ち破られ、それと共に、主君に対する思慕は嫉妬と絶望、怒りへとゆっくりと変質してゆく。

 一方の大内義隆もまた、成人した隆房をどこか寵童としか見ることができない。能臣としての彼の成果は、彼のかつての容姿に霞み、義隆は正当な評価を彼に与えることをしない。義隆は隆房のあらゆる的を射た進言を、まるで子供のわがままをかわすようになだめすかしてしまう。
 「わたしはもう昔のような、ただの寵童ではない。充分に仕事をこなせる。経験も実績もある」
 どれだけの裏付けをもってしても、義隆は隆房を寵童のように、慈しもうとする。  大内義隆、陶隆房ともに寵童時代の呪縛から逃れることができなかった。そこに悲劇が生まれたのではないか、と、作者・小川良は見立て、物語を構築している。
 もちろんそれは、かつての二人が、どれほど色濃く、甘やかな日々を紡いできたか、の、裏返しでもある。実際読んでいると、ひとつひとつの出来事は、まるで夫婦喧嘩や親子喧嘩のような、いっそ微笑ましいともいえるすれ違いなのだ。しかし、二人では夫婦でも親子でもない。主君と臣下である。世間の夫婦や親子のような関係修復には至らない。彼の謀反は「こっちを見てくれ。ちゃんとみてくれ」とただをこねている『子供の家庭内暴力』のようなものとして私には映った。(―――それで殺すなよ、と思うけどね。)
 ちなみにこれを男女であてはめると、きわめて今日的でフェミニズム的な読み解きが出来る。男が女に求めることはいつの時代もセックスとリラクゼーション。女は、女の立場だからこそ得られる特権的庇護を得ながらも男の特権(―――才覚や実績で認められる社会的存在としての自分)を得ようとしてこじれて、自滅する――って、この読み方は深読みで不可読み。

 この二人の相克が一定のリアリティーを持ち得るのは大内義隆と陶隆房との性的関係が史実であることもさながら、当時の武家社会における男色<衆道>が、エリート養成の教育機関の役割を担っていたいうことをきちんとおさえているからだと思う。
 家族の中の一個人でしかない一人の子供が、君主の統制下、集団的行動をとる「社会的存在」となるためのトップダウンの教育、それが主君と小姓の関係である。性愛という、血をまじえて行うからこそ生まれる強い信頼関係、それによって自己の所属する社会への忠誠と帰属意識をすりこませ、またもっとも主君に近いところで生の施政や戦略を見聞きし、能力を養う。よって武人としての意識が確立し、一定の能力を養った段階で、彼らはみな前髪を落とし小姓の時代を卒業する。前髪を落とした瞬間、小姓は男性にとっての性愛の対象ではなくなり、自らが成熟した男性として小姓を愛でる側へと移行する。
 日本の中世・近世の武家・寺社社会における男色の構図――小姓と念者の関係は「コドモを社会的存在であるオトナにカスタマイズする機関」という大きな一面を持っていた。言い換えれば、近現代における学校に極めて近しい役割をそれは担っていた(――と考えると、学校では生徒と教師が性的関係を結ぶのはタブーとされながらも、それが一種のロマンとして容易く成立するのも頷けはしまいか、というのは蛇足)。
 では当時の女性はどういう経緯をもってオトナ――社会的存在になるの、というと、これは簡単だ。「女性は社会的存在になれなかった」。女子供は男でないから、社会的存在ではないし、だからこそ永遠に男の性愛の対象なのである。

 閑話休題。では、この小説の通奏低音ともいえる大内義隆と陶隆房の男色的関係とはなんだったのか。なぜ下克上は起ったのか。
 これはつまり、義隆が育て間違ったのではなかろうか。情愛こそあふれんばかりに注いだものの、施政者としての矜持や実務の仔細、武人としてのあるべき姿を、彼は隆房に教えこまなかった。だから隆房は年を経ても小姓の時代を卒業できない。かつての愛の名残がしこりのように残り、想いが大内家のために粉骨砕身して勤めるという形へ素直に昇華していかない。
 そして一方の義隆も、心の底では彼を卒業させたいと思っていない。というか、小姓との関係の、その社会的意味合いすらも彼はわかっていなかったのだろう。京から流れ落ちた貴族達と遊ぶのと同じようにただ美しい少年達を耽溺したに過ぎなかったのではなかろうか。
 義隆は早晩滅びるべき者であり、彼を討つ役割にもっとも相応しかったのが、義隆の能臣になるべき素質を多分に持ちながらもそれを果たせなかった隆房である、という事に他ならない。ここに陶隆房の無惨が浮き彫りになる。


  (以下ちょっと萌え語り)

 ―――などとついエラソーなことをいってしまったけれども、読み返すにやっぱり義隆、男としてサイテーの人種。口先だけでその場限りの、典型的なプレイボーイ体質。口癖の「そなただけだ」っていつも誰にでもいっているだろお前。
 思慮深いフリをして、ただの優柔不断、責任が取れないだけ。この厳しい戦国の世で生き残れるかっての、あほっ。
 つか、二回も謀反の嫌疑にかかった隆房を「ま、いいんじゃない」と言い切る名家のボンボンっぷりと、隆房への溺愛っぷりにもう、なんというかっなんというかっ。おまえはある意味、神。ホントは隆房に殺されるの、待ってたんじゃないの、と。
 一方の隆房も、いつも「殺せ」「殺せ」ってああたヒステリーすぎる。自分の道理が通らないといやいやな困ったちゃん。嫉妬に駆られて陰謀しまくり。器、ちっちゃ。最初は江森三国志の孔明に見たててみたが、それよかぐっとアホな子かも。
 モノの勢いな陰謀は失敗の連続。それでも不屈の精神で次もがんばっちゃうあなたは、ちょっぴりヤッターマンのドロンジョ様風。一応ビジュアルもセクシー系だし(笑)。

 しっかし、どうみてもおれには義隆は魅力的にみえん。でも、女はこういうホスト的な束の間のやさしさに弱いってのは知っているぞぉぉ。つまりこのふたり、ダメな男にダメな女は惚れるの典型。って相変わらず無茶苦茶にいっております、私。


■ 結ばれない花は決して結ばれない  〜「次郎」と「善常」〜

 では一方の核、毛利氏はどのような経緯をもって、大内氏を(実質的に)滅ぼした陶氏を追討するにいたったか。そこに到る物語に作者・小川氏は、二人の架空の人物を配している。それがこの物語のもうひとつのヒロインとヒーロー、小田村次郎と善常。このふたりによってこの物語は独創をもって牽引されていくといっても過言ではない。

 陶隆房の謀反の企みを知った小田村家は、謀略にかかり隆房の手によって一族郎党は虐殺の憂き目に遭う。
 唯一生き長らえたのは、義隆の小姓であった小田村次郎。彼を助けたのは、善常という隆房子飼の僧形の忍びであった。善常は次郎を以前から見初め、叶わぬ恋と知りながらも付け文を送りつけるなど、彼に秋波を送りつづけていた。今、叶わぬ想い人がこの手に。善常は次郎の片手を切り落とすことを条件に彼の助命に成功する。善常は真実を次郎に告げないまま、彼を喝食として手元に置き性愛で雁字搦めにする。次郎は過去を全て忘れ、善常の下にいようとまで思うようになる。
 しかし、あるきっかけに全ての事実を知った次郎は善常の元を離れる。仇敵は、陶隆房と善常!! 小田村家の再興と敵討ちの為に次郎は毛利家に身を寄せる。

 しかし、次郎の小田村家再興の願いは、砂上の楼閣である。己以外の全ての血族は既にこの世になく、家人たちも散逸してしまった。彼は天外孤独だ。今更お家を再興して何があるものか。
 毛利隆元を善常との日々で体得した色事で篭絡し、毛利家の家論を陶氏追討へと傾けることに成功はしたが、彼の心はどんどん醒めていく。
 そんな心許ない彼の心の隅に過ぎるものがある。否定しよう否定しようとしても今まだなお肌に残る善常への思慕だ。
 善常は次郎がもう忘れようと決めた頃に限って、様々な包囲網を破って彼の下に現れる。そのたびに次郎の熾となった思慕が、再び激しく燃えさかるのだった。

 そしてしばらく。「厳島合戦」後、陶氏の残党として捕らえられた善常を見る。虫の息で横たわる彼。次郎はやおら刀を取り、善常の首を刎ねる。
 「ああ、善常。やっとつかまえた。嬉しい、嬉しい」
 狂喜し、何度も何度も唇に舌をさし入れて善常の頭蓋を抱きしめる。次郎はサロメとなった。
 鬼が出た。その無気味な姿に衛士たちは色めきたつ。長槍が飛ぶ。何本かが次郎に突き刺さり、彼は果てた。しかし死しても善常の生首を彼は離さなかった。

 次郎は本来一族郎党が虐殺された時に死ぬべき人間であった、とおもう。
 彼を生かしたのはまさしく善常の愛だ。しかしそれは大きな時代の潮流にあってあまりにも頼りないものであり、むしろ愛ゆえに彼はいっそう悲愴にみちた生き様を演じざるを得なくなってしまったといえるかもしれない。
 次郎にとって善常は仇敵である。しかし、その仇敵が今の自らの存在証明である。次郎には善常しか心のよりどころはない。大きな矛盾に、彼の霊も肉もゆっくりと引き裂かれていく。幻影に過ぎないお家再興に自らを賭ける彼の姿には、どこか無惨の匂いが漂う。
 死なせてやれ。それが彼の幸せだよ。そう思わずにはいられないが、一方でそれでも愛する者を求め、生きていて欲しいと願う善常の気持ちも充分わかる。
 はなから叶わぬ恋であったならいっそ良かったものを、運命の悪戯が徒な花を散らしてしまった。


  (以下かなり萌え語り)

 しっかし、善常さん。あなた、実はマゾでしょ。なんか、この二人は主従プレイにもっていけなかったゆえの悲劇、って感じが――っていきなり飛ばしすぎ?
 善常が貴族コンプレックスがあるらしいことは次郎を最初に強姦するシーンを見ればわかるけど、そこには、高貴なる者を踏みにじり支配したいという思いとうらはらに、そんな高貴な者に許され認められ愛という名で支配されたいという思いがかなり濃密に漂いますが、如何?
 善常さん、あなたは相手を器具使って嬲ったりするより、相手の足を舐めて一人で気を遣るほうが似合っています。
 あなたの攻めきれなさ、支配しきれなさが、この関係を破綻させる大きな起因になっているように私には見受けられますが。  そんな愛に迷う善常さんへ、私からのアドバイスでした――って、なんだそりゃ。

 あと、おい、次郎ちゃん、あんた愛しているなら態度で示しなさいよっっ。いわないと逃げるぞ。愛は。
 とはいえ、この素直になりきれない乙女なとまどいが萌え。そんなふたりは典型的なJUNEカップルなのでした。あー、マジ萌ゆる。二人がいちゃこりゃしてるの想像しただけで、軽く死ぬる。
 このふたり、主従プレイになってたらサーモンのダダカズシリーズの「百太郎×一也」級に「一生やってろ」のカップルだったろうな。うん。


■ それぞれの宿命を背負って 「さぎり」・「頼子」・「白菊丸」・「冷泉隆豊」

 物語は上記の2組の愛の相克の他にも多様かつ魅力的なキャラクターたちによって彩られていく。
 全ての事実を知りながら、時代の大きな潮流に押し流され、それでも武人の気骨を持って鮮やかに討死した冷泉隆豊。隆豊の姉御の娘、謀略と謀反によって天外孤独になってしまった無邪気な姫君、頼子。彼女をやさしく扶育する物語の狂言まわしである流浪の剣士、さぎり。さらに彼に心を寄せる白菊丸という遊芸者。
 じつに魅力的なキャラクターが的確に配置され、物語は大きなうねりをともなって動いていく。それぞれがそれぞれに決して逃れることのかなわぬ宿命を背負い、ある者は死にある者は生き延び、ひとつの物語を紡ぎ、そして物語終わって全てが散り散りになる。そこに無常なる人の世というものを痛感させて、切ない。これこそが大河歴史小説の醍醐味。


 ちなみに。この物語は情愛の粘っこいところが物語の展開の牽引力になっているわけだけども、視点がさぎりや冷泉隆豊の側に立っているのが、救われるよね。すきっとして無駄なく、男らしい人物の視点で物語が進むので、ねっとりとした愛憎が物語の地下水脈として延々と流れながらも、けっして鬱陶しく感じない。特に主人公のさぎりの五月の薫風のような爽やかさは読んでいてほっとさせられる。(―――友達になるなら絶対さぎりや冷泉隆豊みたいな人。度量があって大人で頼りになるもんね)。

 さぎりと白菊丸と頼子のトリオは、ホント仲よさそうで、物語で何度か3人で旅する場面があるんだけども、若夫婦とその子供という感じで微笑ましい。がそれゆえにあっけなく惨殺される白菊丸に哀、そして愛。
 ほんっとね、読んでいて、最後の最後、死ぬなりなんなりでみんなが散り散りになってしまうのがカワイソでカワイソで。最後、さぎりが毛利家をおん出されてさぎりと頼子が別れ別れになるのも、また。えーっ、生き残り組すら、散り散りかよっっ、みたいな。
 善常と次郎は本当は刑場でぶち殺されたんでなく、二人でうまうまとその場を逃げて愛の逃避行なのっ。とか、そこにさぎりと頼子の二人も絡んで今度はみんなで「水戸黄門」状態で諸国漫遊することになるのっ。――とか、つまんない妄想している私はダメですか。そうですか。

 ちなみにこの作者の小川良という方、本職は教師らしく、現在のところ出版された小説はこの「妖臣伝」のみ。上手い小説書きのすべてが職業作家になるべきというわけでもないと思うので、小説に専念して欲しいとは絶対いえないけれども、今作だけにとどまらずに、丁寧に作りこまれた歴史・伝奇小説を是非ともまた書いて欲しいな。少なくとも、私は読みます。大竹直子センセと河村恵利センセも読むんじゃないでしょうか。こんな真面目に読んでもヨコシマに読んでも楽しめる一大JUNE歴史ロマン書かれちゃ、次の作品も期待せずにいられないっつーのっ。

 最後の最後に、またまたものすごく下世話でどうでもいいこと。
 純情可憐で一途でおしとやかで薄倖そう。見るからに誰かに縋りついていないと生きていけない、なんともよわよわと儚げな遊芸者の白菊丸。彼は物語の主人公のさぎりに一方的にひっそりと想いを寄せている――けど、実は、という設定なのだけれども、そんな白菊丸が、強くて逞しくてカッコイイさぎりよりも頭ひとつぶん背が高いという描写があって、ここを読んだ時私は「この人、絶対『やおい』意識してこの小説書いているっ」と確信した。文庫版のあとがきで作者が女性ということに妙に納得したりもしましたが、はたして――って、ホントどうでもいいことだわ。
2003.07.07
加筆 2005.01.26
加筆 2010.08.16
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