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「初心忘れるべからず」と移ろいゆく言葉と文化庁


「初心忘れるべからず」

これは「修行や学業仕事など、物事を始めるとば口に立てた目標や志、その時の思いの様を忘れてはいけない」 という意味に現代ではとられているが、そもそもの意味はまったく違う。
ここにある「初心」を「初志」と同じ意味と捉えたこれは間違った解釈である。
「初心忘れるべからず」にある「初心」とは「初心者」の「初心」とまったく同じである。
つまり、まだ物事を始めたばかりで未熟で慣れない状態のことを指す。
よって、この格言の意味は「物事を始めた頃の未熟で失敗ばかりであった時の記憶――その時に味わった屈辱や悔しさ、そこを切りぬけるために要した様々な努力など、を忘れてはならない」という意味である。
であるから、まさしく「初心」状態の新入社員などがなにかのスピーチで「初心忘れるべからず」などというのは間違いであって、これはある程度その道を辿ったものが自らの中弛み、慣れによって生まれる慢心を戒めるために使うのが正しい。

そもそもこれは世阿弥の晩年の著書「花鏡」にある言葉である。
彼はいう。

是非とも初心忘るべからず
時々の初心忘るべからず 
老後の初心忘るべからず

修行を始めた頃の初心を忘れてはならない。
修行の各段階ごとに、各々の時期の初心を忘れてはならない。
老境に入った時もその老境の初心を忘れてはならない。

確かに、どんな時にも必ず初心がある。経験が浅いもの、今だ習得しきれないものというのは、命という有限と時間という無限がある以上はてることがないだろう。
つまり万事が初心であり、それを乗り越えるための修行、勉強を積み重ねていくだけで人の生は終わりを告げるのである。
「命には終りあり、能には果てあるべからず」である。命は果てあるが、道は果てしがないのだ。

では何故初心を忘れてはいけないのか。
それは、初心忘れれば初心に戻るからである。
今の自分が初心の頃味わった多くの苦しみと長き努力の上にあることを忘れ、元からこのような才能があったなどと慢心するならば、日々の努力をもおこたるようになり、すぐになりさがるであろう、
また初心の試行錯誤を忘れれば、壁にぶつかった時、初心の頃のような塗炭の屈辱をふただび味わうこともなるであろう。
「初心」とは決して戻ってはいけない場所であり、かつ修行を続けるならばつねにあらゆる段階につきまといかねないものなのでもある。
であるからこそ、初心は忘れてはならないのだ。
鄙びた田舎芸といわれ、武家貴族から厭われた申楽芸を室町文化の華となるまで高めた者の言葉らしいな、とおもう。

であるから、「初心に返る」「初心に戻る」という言葉の使い方となるとまったくの間違いなのである。
初心に返っちゃまずいのだ。
未熟で何から始めていいのかわからないような「わからないことすらわからない」状態に戻っちゃまずいでしょ。

――――舞台では集中力、緊張感こそが花となるものであるから、初心の時の集中力・緊張感を忘れないままに技術を上達するべし、という意味もあるかなぁ、とおもえるが、そこまでまだ世阿弥の芸能論を読みこんでないので、よくわかりまへん。失礼。奥が深いのよ、彼の言葉は。


閑話休題。
「初心忘れるべからず」とはかくなる意味なのであるが、とはいえ、ここまで「初心」=「初志」という解釈によって「初心忘れるべからず」という意が人口に膾炙された今、今更それに異を唱えるつもりは、私にはない。
人がコミニュケーションツールとして言葉を使役していく以上、人が移ろいゆくのと同じ速度で言葉とそれが持つ意味も移ろいゆくのは道理である。


―――と、ここで話は急展開する。
文化庁などが毎年行なっている「国語に関する世論調査」などというくだらないもののは現場で生で動いている言葉というものをなにか型で嵌めるような窮屈さがあって面白くない、と私は常々感じている。

去年はたしか「役不足」「確信犯」「気の置けない」などの語の誤用が話題にのぼったとおもうが、今年は、「檄を飛ばす」「姑息」「憮然」「的を射る」などが俎板の上となった。
その記事を読み、どうでもいいことをやっているよなぁ、という感想がおもわず先に立った。

だいたい、既に辞書にも「その意もある」として掲載されている語などを引っぱり出してきて「誤用が本来の使い方を上回っている」という結果を出すというのは 実験結果がわかっている実験を改めてしているようなもので、これは中学生の理科の実験か、これが仕事の文化庁は相当暇なんだな、と思わざるを得ない。


言葉に、完全な形態はない。
さまざまな環境などによって常に変化しつづけるものが言葉だ。
時にある語が生まれ、時にある語が死に、ある環境なかのみで使われる語やそこでのみ語の意が変わるもの―――地域間差によるものであれば方言と呼ばれ、職業によるものであれば業界用語などと呼ばれるだろう、もあるだろうし、それが特定の分野のみでなく広く伝播するという場合ももちろんあるだろう。
あらゆる環境の中でそれぞれの言葉にはそれぞれの命脈があり、その変遷も様々である。数年の命で終わる流行り言葉のようなものもあれば、数千年の命をもっていまだ盤石な言葉もある。長く元来の意を持って残るものもあれば、なにかの代替の言葉によって駆逐されるもの、意を変えて残るものもある。
それは生物の突然変異と進化の関係に近い。
多種多様で、網の目のようにそれぞれの経緯は複雑であり、そして、それは今この瞬間にも変化し続けているのだ。
文化庁の作業はこれをひと掬いにするような雑駁さと、膠着した思考が感じられて、気分が悪い。
だいたい言葉なんてものはどうしようと下々の者が勝手に変えていくものなのですから、そんなこと気にするものじゃありませんよ。


そしてなによりも気になるのが、これをとりあげるマスコミの姿勢である。
反動保守めいて、非常に気分が悪い。
特に、マスコミの日本語はなにか一つの完全なる形がその昔あって、それが今崩壊しようとしている、などという切り口は非常に厭な気分になる。
だいたい壮麗かつ壮大に聳え立つ「美しい日本語」なんてものは、ないんだよ。
世間で使われる日本語が汚いなぁ、雑だなぁ、と感じる機会は確かに増えたけれど、言葉というのはそもそも人の心の鑑であって、心根の美しい人が使うから美しく感じるだけの話で、心根が美しい人が少ないから日本語全体が汚く聞こえるだけのことでしょうが。
そこに必要なのは「正しい国語教育」などという部分的なものでなく、よりよい社会とよりよい環境、よりよい教育という全的なことでしょうが。

それに、そんなことをいうのならば、自ら先に誤字だらけのテレビのテロップを何とかするべきでしょうが。
本当ひどいよ、近頃のテロップの誤字。バラエテイーならまだしもニュース番組などでも平気で誤字をするから眩暈がする。

と、あいかわらず話がとっ散らかったままで今回も終わる。



2004.07.30
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