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中森明菜 「少女A」

消費される少女

(1982.07.28/ワーナー・パイオニア/L-1616)

1.少女A 2.夢判断


 人一倍自閉的で、夢見がちだったひとりの少女、中森明菜。そのデビューに用意されたのは「スローモーション」というミスティフィケーションの塊のような歌であった。
 それは中森明菜の一面を的確に表した歌ではあった。しかし、そういった甘い歌のみで彼女の内面の全てを表現しきれはしなかった(――のだと思う)。
 貧しく、バラバラだった明菜の家庭はそうした心になかに潜む甘い夢を赦しはしなかっただろう。後年彼女は「親を喜ばせるため、貧しさから脱けだすため、それだけの理由で歌手になった」と述懐している。―――他、彼女の不幸な幼少時代の告白は「中森明菜・心の履歴書」の回に詳しいのでそちらを参照されたし。
 幼い彼女にどっしりとのしかかる汚らわしくうとましい「現実」――それを打ち破るためにめざした歌手の世界。しかし、歌手になっても、その「現実」から彼女は逃れることはできなかったのではなかろうか。

 ふわふわとしてやわらかそうで、可愛らしく、人間らしく扱われるアイドルの世界―――そう思って飛びこんだであろう彼女に待ちうけていたのは、彼女にしてみれば「自分を性の商品として切り刻んで消費しようとする世界」にだったのかもしれない。

 デビュー期から彼女は様々な小さいトラブルを起こしている。
 2月の肌寒い冬の海に入ってのグラビア撮影に「冬の海に入って震えもせず、にこっと笑うことなんてできないに決まっているじゃない」と喧嘩(――トーク番組で自ら語ったこと)。
 またインタビューと聞いて訪れたら「ファーストキスはいつ? ブラジャーをはじめてつけたのはいつ? 今のパンツの色は?」とのセクハラ質問の応酬に「わたしは歌手だ」と喧嘩(――これは82年の7月号の「GORO」ではなかろうか)。
 これらのトラブルは彼女からしてみれば「わたしは人形じゃない。一個の人格だ。なぜそう扱わない」といった主張だったのではなかろうか。
 ―――しかし、彼女は偶像(アイドル)になってしまった。もはや人間ではなかった。

 「ちょっとエッチなミルキーっ娘」というキャッチフレーズに、ジャケットに印刷された可愛らしい少女のパンチラのイラストをみればわかるように、はなから事務所も、レコード会社も、彼女の取り巻く周囲は彼女を「消費する性」として、フェテッシュな欲望の器としてしか扱っていなかった。
 当時の明菜担当のレコード会社の宣伝部員の言葉でこのようなものがあった。

 いいコですねぇ。でも表情はエロチックでしょ。唇をひらいて宙を見つめている時なんか、ゾクっとする。82年のオナペットNo.1でしょ。
(ワーナー・パイオニア 富岡信夫氏の弁)
 オナペット……。わたしは男どものオナニーのためのペットか―――。そう周囲は見ているのか――。明菜はそう落胆したのではなかろうか。

 デビュー第2弾として用意された「少女A」。沢田研二に提供するもボツとなった「ロリータ」を改作されて生まれたといわれているこの曲。スキャンダラスでインパクトの強いタイトルであるが、曲自体に犯罪的な匂いというのはまったくない。

思わせぶりに くちびるぬらし
きっかけぐらいは こっちで作ってあげる

 詞全体に性的なニュアンスが漂っているが、あくまでそれらは「思わせぶり」の段階に留まっている。その点は山口百恵の「青い果実」などの性典路線に近い。


じれったい じれったい
何歳に見えても わたし 誰でも
じれったい じれったい
私は私よ 関係ないわ

 しかし「青い果実」のように「あなたが望むなら」と受け入れることが明菜にはどうしてもできない。ならば、と、啖呵を切る。
 山口百恵が「プレイバック part2」で「馬鹿にしないでよ」と啖呵を切った時、彼女は既に成功し、成熟し、周囲から認められたひとりの女性であった。歌も外車を乗りまわすほど裕福で自立した女性として描かれている。
 しかし、ここにある啖呵には、根拠となるものがあまりない。彼女はやっぱりいたいけで力を持たない一少女にすぎない。そんな彼女にただひとつできることは「拒否する」ことだけだ。「関係ない」と繋がりをぶちりと切ることしか。


特別じゃない どこにもいるわ 私 少女A

 タイトルの「少女A」とは、未成年犯罪者の呼称の「少女A」ではなく、あなたとはまったく関係のない、名前で呼ばれることのない具体性のない、ワン・オブ・ゼムである「少女A」なわけである。

 この歌が図らずもヒットしたのは、明菜自身のなかにあった性の商品として俎上にのぼってしまったことへのいらだち、それをなんとか拒否したいという心性がまずあり、それが多くの当時を生きる少女達の心性とシンクロしたからではないだろうか。 この曲のヒットのすぐに、女子大生ブーム、女子高生ブームがやってくるのは歴史の事実である。

 社会は薄く広く、全ての少女をあたかも偶像(アイドル)のように、身体性や人格の希薄なフェテッシュな欲望の器としようとしていた。 もちろんそれを積極的に認め、その社会で生きようとした少女達も多くいたであろう(―――松田聖子はその象徴として機能したのではなかろうか)。しかしそれが受け入れることのできない少女達も多くいたであろう。
 社会は少女を性の商品として遠慮なく切り刻む――それを少女たちは「拒否する」ことでしか意志表示はできない。しかし、一時拒否しようにもその手のひらから逃れることはできない。そこに中森明菜が「少女A」を歌った。この瞬間、彼女が80年代を代表する歌手となることが決まったのかもしれない。
 この流れは以後もブルセラ、援助交際という言葉が生まれた90年代後半まで延々と続き、それを背景に華原朋美、安室奈美恵、浜崎あゆみ、といった歌手も生まれることになる(――いうなれば彼女たちは「少女A」の末裔達である)。

 とはいえ、この「少女A」路線に現れる男性像の個別具体性のなさというのは「スローモーション」における男性像の個別具体性のなさと全くパラレルである。 どちらもカギカッコの「男性」であって、そこには顔がなく表情がなく、極めて茫洋としているという点においては全く変わりがないのだ。
 つまり、この時点において少女にとっての男性とは「自分を愛する存在か、犯す存在か」でしかない。 たえず少女は受動の側であり、男性の視線に晒されており、その視線の差異によって「愛」と「暴力」かに振り分けられているだけであって、彼女自身が積極的になにかをそこから「選ぶ」ということはない。
 ひらたくいえば受身なのだ。
 彼女は卵のような殻の中にこもっているだけで、男たちは、その殻の向こうがわ男たちは手前勝手にその卵を値踏みをしているだけ。 少女は時折耐えきれず啖呵を切りながら、自分たちの都合のいい「おとめちっく」な幸福を卵の殻の中で夢見ている。そこに相互の意思疎通はない。
 これは、愛がない。未来がない。こころが乾いてしまう。
 中森明菜の、この分裂した2つの世界が統合するのは「北ウイング」まで待たなければならない。


2005.04.13
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