私の母は典型的な書痴、いわゆる本の虫であった。 60、70年代のSFやミステリー、ノンフィクション(それも多岐に渉っていてオカルトじみたのやら社会派っぽいのやらいろいろ)、漫画ももちろんどっさり、手塚治虫からレディースコミックまでずらりと実家の彼女の本棚には並んでいた。 ある日。私がなにか面白い本はないかとその本棚を見ると同じ本が2冊あったのを見つけた。母に聞いてみた。母曰く 「読んでないと思ってまた買ってしまったの」 この答えに当時の私は弟と一緒に「ありえねーーーー」とわが母の天然ぶりを笑った。 「読みきった作品忘れるかよ、大体話の内容以前に、タイトルとか本の装丁とかそういうのでわからない?」 長じて母の遺伝的形質を受け継いだ私の部屋もまた本に埋もれているのだが、実は今、私はこの話が笑えなかったりする。 実際、忘れてしまうのだ。 びっくりするくらいすっかり。 もちろん強烈に印象に残ったモノであるとか、最高にのめりこんだモノというのはなかなか忘れない。 今、筋書きをここで書けといえば書ける自信のある作品ももちろんある。 だが、その数よりも遥かにおぼろげになっている作品のほうが多いのだ。 それでもある程度記憶が鮮明な作品は登場人物の名前であるとか印象的なシーンであるとか筋書きとはいかないまでも、これはどういう話だったのかという全体のテーマみたいなものとかが思い出せるものはいい。 だが、内容をまるまるごっそり忘れていたりするのものが一番多いのだから性質が悪い。 例えば、中学生の頃赤川次郎を高校入学前後には村上春樹をよく読んでいたが、じゃあ"「ノルウェイの森」ってどういう話だったの"と聞かれてもまったく私には説明できない。 でも、かといってその作品に対して完全な記憶喪失状態になるわけではない。 ひとまず"確実に読んだ"という記憶と"タイトル名"は覚えている。 しかし、それ以外は見事に忘却の波に洗われてしまう。細かいディテールやらなにやらは消え、非常に輪郭のぼやけたイメージのみが残ってしまうのだ。 ――例えば「この小説は春の霞のよう」とか「この漫画は青みがかったグレイっぽい感じだった」とか「冷たい氷をずっと持っていると感覚が麻痺して熱く感じてしまうような錯覚って感じの話だった」とか。こんな抽象的なところだけが残って、様々な固有名詞や物語の展開などは綺麗さっぱりになくなってしまう。 (ちなみに今の私の中での赤川次郎は「新興住宅地の人通りのない夜道の街灯」のイメージで、村上春樹は「胸のぽっかり開いた男がその穴からまっ青な夏の空を覗いている」ってイメージ) 非常に抽象的で感覚的。 でもって、それが自分の個人的な記憶と重なり合ったりする。 その本に対する抽象的な印象がにプラス、"これをいつ、何処で読んでいて、その時の自分はどうだった"とかそういったものと結びついていくのだ。 「この本を読んでいる時は幸せだったな」とか「これは試験期間中にふてって読んだっだっけ」とかそういったものと。 読書の記憶だけでなく、記憶というものは概してこういうものなのだとおもう。 細かいディテールがどんどん失われていって、人や物など、あらゆる固有名詞が消える。そして残るのは輪郭のはっきりしない情動だけ。 好きな歌に南野陽子の「曲がり角蜃気楼」という歌がある。 恋人との別れの歌で「こんなにあなたと歩いたのに ひとつになれなかったね」という部分。愛し合いよりそっても埋められない人というものの持つ宿命的な断絶をさりげなくついていて、切なく、私は好きなのだが、一番すばらしいのはここ。 曲がり角蜃気楼 出会い、心を交しあい、愛し合った人すらもいつしか、忘却の波に洗われ、個々の顔が消え、霞んでいく。 しかし、輪郭がぼんやりとなろうが、記憶そのものは消えない。 具体性のない、だけれども優しく匂やかで捨てがたい、そんな言葉に変えることの出来ないあえかな記憶だけが残る。 その記憶は、普遍的な、例えていうならば、天の愛といったものに近い。 花が咲き、雪が降る。それらの美しさを受け止める時のような記憶に変わる。花鳥風月の天の恩寵に近くなるのだ。 そうして思い出の向こうの全ては、花になる。 強烈に閑話休題。 読書について話を戻す。 もちろん、若いうちでこんなに忘れまくっていいのだろうか、と少々不安にかられたりもする。 だいたいこうして忘れ去ったってことはこの書物は私にとっての意味のないものだったってことじゃない?などと考えると頭が痛い。 ――個人的な思い出と抽象的なイメージしか残らないのなら、これはもう、一体なにが身になったのか、という。 本を読み始めて十数年でこうなんだからこれから先となるともうこれは途方もない。 これからなど、読んだ記憶もタイトル名もなにもかも忘れてうっかり二度買いとか、今後は大いにありうる話だ。母を笑うことなど出来ない。 ――確かにまだ私は二度買いはしたことがないが、これは記憶力が母より優れているというわけではなく、私の読書スタイルはある作家のファンになると嫌気が差すか全作品コンプリするまで一気読みするってスタイルだからだろう。 これだと取りこぼししようがないので既刊の作品を読んでないかもと思って二度買いすることもない。 こんなにも読んでから先どんどん忘れていってしまうのなら意味がない、もう本とか読むの止め、となるかというと、 そういったことはまるでなく、やっぱり何か新しいものをと手に取ったりしている。これは読む習慣のない人にはわからないだろうが、一種の病に近い。 私などは、言葉の世界の向こうにある虚構の甘さにに酔ってしまっているという状態で、 「この夢の中でずっと包まれていたい。ずっとこの物語の中に浸っていたい。」 ただこの思いだけで本を手にとっている、という感じ。 しまいには、深刻に、何故私は紙の中の世界にいないのだろう、思ったりするのだから、もう、重病だ。 よく読書というとなにか偉いこと、学問に類することと勘違いする善良な方がいるようだが、これは大きな間違いであって、どんな内容のものでも私のような読者はいかにその読み物がエキサイティングであり、興味をそそるものであったかということでしか評価軸がなく、そこで仕入れた知識も知識のごみのようなもの、トリビアばかりで、けして体系だった学問のようなものにはならない。 まあ、誰か偉い人が「学んだことを全て忘れ去ってそれでも残るもの、それが真実の学問」みたいなことをいっていたので、読書もそんなものということで、正当化してこれからも読んでいってしまうのだろうが。 忘れまくっても、いいじゃないっていうことで。 そして、みんな花になるんだから。 |
2003.09.02