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わたしの高校受験の頃



中学3年生の夏。突然、愛媛県の松山に引っ越すことになった。
私立中学に通っていた私にとってそれはまさしく青天の霹靂だった。
今、松山に行くとなるとすぐに半年後に高校受験が待っていることになる。 それに私の通っている私立中学はそれなりの費用をかけて入学したそれなりのレベルの学校で、それを投げるというのもいささか勿体無い。 わたしを親戚に預け今の学校にそのまま通わせるという案もあったが、結局私も松山にいくことになった。これは私の希望でもあった。

私は、実はその中学校があまり好きではなかったのだ。親が無理をして学費を捻出して送り出した学校であったが、なんだか自分にあっていないと常々思っていた。
大学受験を見越した授業は難しく、教科書に載っていないレベルの知識も平気で授業に組みこまれるので、真面目に勉強していないとすぐに取り残される。 生徒はみんなそれなりのいいところの子で、みんなそれなりに生意気でプライドが高かったし、男子校という閉鎖性がまたそれをより増長させていたようなところがあった。特に激しくいじめられたという記憶はないが、それなりにはみでた行為をするとそれなりにハブにされる。 それでも子供の無邪気な負けん気で、他の生徒がそうであるように私もまた、いじめられないように孤立しないようにと巧妙に友人を作りあい、勉強をしていないフリで放課後の図書館や真夜中の自室でひっそり勉強をしてはいつもそこそこ上位の成績を取っていた。
とはいえ、もちろんその行為に息苦しさを感じずにはいられなかった。
もう伸びないゴムをまだ伸びるまだ伸びると一生懸命引っ張っているような感じ。この学校に後何年在籍するのかということを考えると途方もない気分に私はなっていた。
だからこの場から逃れることができると聞いた私は、知らずにそれを喜んで受け入れていた。


松山で迎えたはじめての夏は、ひさしぶりになんにもすることのないぼんやりとした夏だった。
父の実家である松山の家は市街の外れ、市内ギリギリの場所、ちょうど山の中腹にあって、あたりにあるのは瀬戸内特有のため池と田圃と蜜柑畑だけだった。
わたしは時間を気にせず、テレビゲームをしたり、本をよんだり、好きな音楽をかけてうっとりとしたり、自転車でまだ知らない辺りを散策したり、遠くの西の海に沈む太陽をボーっと見たり、ばかりの日々だった。 とはいえ新学期早々、受験対策に親戚にツテがある大手の学習塾に入ることになって、その呑気な気分は一気に吹き飛ぶことになる。

夏休み前に一度気軽に受けたその塾の模試の私の結果はとても捗々しいといえるものではなかった。 考えてみれば、私の以前通っていた学校は高校受験を無視し、大学受験を見越した慣らしと仕込みの授業をしていて、学習内容はいわゆる公立中学のそれを大きく逸脱していたのだから、いきなりそこから受験に見合った模試を受けて好成績であるはずがない。 が、その結果を見て私と両親は素直に驚いた。
両親は松山にある唯一の上位私立校のA高校に入れる心づもりであった。この学校は中高一貫校で中学受験の偏差値レベルは私の通っていた中学とほぼ同じ位置であった。この学校は高校で1クラス分だけ生徒を補充するのだが、 これではA高校どころではない、県立の普通科にもようやくというレベル、といわれた。


少々話がずれるが、その頃の松山の高校のレベルのランクというのは極めてわかりやすいヒエラルキーがあった。 さきほどあげた私立のA高校はレベルは県内トップだが、県外からの寮生などが半分、松山市在住の生徒が半分という構成であること、高校受験に関しては枠が少ないこと、試験の内容がまったく違うこと、様々な点からいって完全に外様である。
それを別格にすると、市内の東西南北に散らばる県立高校が上位(ちなみにレベルを正確に表すとE高→S高→N高→W高→C高)となり、そこを補完する受け皿として私立高校が存在する。男子は私立N高校、女子は私立S高校。これは別枠としてある県立の商業・工業高校の補完先にもなっている。 この受け皿の私立にも難しいレベルの生徒はさらに私立のMS高校、J高校が用意されている。
この完全公立上位型のヒエラルキーが数十年頑なに守られていて、絶対であった。

さらに年に何回か県内の中学生全員が受ける業者の統一模試があるのだが(――名前は忘れた。偏差値追放運動によって今は廃止されたと聞いている)、これが設問形式、レベル、配点ともに何年も前からずっと変わらない県立高校の試験のスタイルを完全に踏襲していて、ここの点数 をそのまま上のレベルの高校から順に輪切りにすれば、そのまま自分の受かる学校のレベルがわかるという実にシステマチックでわかりやすいしろものになっていた。
確か225点満点(――公立高の受験にはそこに面接点が25点プラスで250点満点だったと思うが、間違っているかもしれない)で210点が「E高」200点が「S高」と10点ごとにレベルが区分けされていたと記憶している。中学の進路診断にもこの模試の結果はそのまま利用されていて、「お前、××模試で結果がいつも185点くらいじゃ、S高は無理だよ」なんて話を普通にしていた。

愛媛県が四方を海と山に囲まれて人の移動がきわめて少ないこと(――新居浜・今治の東予地区、松山の中予地区、宇和島・大洲の南予地区と各地区の交流ですら海と山に阻まれきわめて少ない。受験にしたって学区を越えてまでの越境受験というものはまず99%ない)、そういった地勢によって培われた愛媛の呑気な県民性、それらが県立高校の受験スタイルを数十年間同じままにさせ、さらに県内の受験生全員が受けるプレ受験ともとれる業者模試を生み出し、結果、受験前に生徒を効率よく交通整理させ、高校へとリリースする制度をシステマチックに築きあげていたのだった。 とはいえ、この事にはっきりと気づくのはもっと後のことである。話は14歳の夏休み明けに戻る。




帰途の車のなか、両親は「だったらやっぱり東京に置いておいたほうがよかったかも」などとせんのない事を言っていた。 さらに始業式翌日に転校した学校でいきなり行なわれた実力テストの結果でわたしは250人中120位ほどという平凡な結果を叩きだし、模試の結果の裏づけを見事に取ってしまった。
早速友人となったクラスメートに「え。そんなに悪いか。俺と同じくらいの成績だし」などと慰められたものの、私の無邪気なまでのプライドの高さはそれを許さなかった。
件の学習塾のクラスも市内に10数校あるなかの中心となるフラグ教室の特Aクラス(――私立のA高校狙いの子はここにはいる)に入ることは許されず、準フラグ教室のAクラス(ここはやる気にみちた「E」狙いの子がはいる)に温情でくみこまれるというのも当時の自分には許せなかった。

私はそれから二学期末までの4ヶ月ほど猛勉強をすることになる。 自分の今までの人生の中で「夢中で勉強したなあの頃」と思える時期というのはこの4ヶ月と大学受験の直前の1ヶ月ほどだけである(――って、不勉強だな、俺)。
「基礎をおさえたい」と最初に塾長に生意気に告げたのをそのままに馬鹿みたいに簡単なテキストを大量に渡され「こんな簡単なのを渡すなんて馬鹿にされてる、俺」と怒りながら一気に数日で仕上げ、まだ学習以前の項目を参考書を片手に予習の段階ですべてをさらい、塾の担当教師となった高圧的な講師に授業外にすれ違いざまに質問される重要公式の質問(――もちろんちゃんと答えられないと新聞紙で丸められた精神棒が飛ぶ)などもその場でさらりと答え返したり、ともうギンギンの優等生になってしまったのであった。
結果わたしは、10月後半に行なわれる業者の統一模試では218点を叩きだし、二学期の期末の結果は9教科合計で学年2位までのぼりつめるにいたった。

というところで、そのままA高校に向けて加速したかというと、そうではなかった。

ある程度仕上がってきた状態でA高校の過去問題を見ると、どうも今まで見た教科書や参考書・問題集のどれにものっていない事項がぽつぽつと設問されているのだ。本屋で売られている「最高水準」と銘打たれている問題集などを見ても設問にないレベル。
アレっ?と私は戸惑った。
これは今考えてみれば簡単な話で、A高校の設問は高校で教えるものの基礎のレベルに片足を突っ込んでいたのだ。だから中学生の受験向けのモノの学参などを見てもあるわけがない。
あ、傾向がまったく違うんだ、となんとなく私は気づいたが、それに見合った参考書はない。 さらに塾はA高校向けの授業ではない。首都圏や関西圏ならこうした出題パターンのある上位高が山ほどあるから、それなりの参考書が店頭に並んでいるかもしれないし、塾などでもそういったコースに対してそれなりの門戸を開いているのかもしれないが、なにせ松山ではそれはわずか40の席である。店頭にそれ用の本があるわけでも、塾でそのための指導が(私が入ることのできなかった「特Aクラス」以外に)あるはずがない。 結果、私はほとんどA高校向けの勉強をすることをしなかった。
とはいえ、英語なら高校1年の基礎文法。理科なら理科1。数学は数1。社会は高校の地理・歴史の基礎編の参考書と問題集を買って勉強すればよかったんだけれどね。そうすればいいんじゃないかと薄々気づいてはいたけれども、結局そうした勉強にわたしは踏み切らなかった。

というのもある日、学校見学に訪れたA高校のイメージが自分にあっていないような気がしていたからだ。
市街の外れの小高い丘の上にあるその高校は一貫の男子校ということもあるだろうが、私には自分の通った東京の私立中学のイメージと2重写しになった。
私は松山に移ることで精神的にかなりの部分解放されていた。しかしこの学校に入るとまたそれ以前の頃に戻ってしまうのでは。そんな惧れがA高の学び舎に訪れた私の中に生まれた。 またあのような生活が待っているとなると憂鬱だなぁ。そう思えて仕方なかった。
比べて一方のもはや安全圏となったE高は、路面電車の大通りを一本はいったところにある市街の中心近くの共学高で自由な校風と周囲には聞こえが高い。自宅からも最も近い高校で自転車で通える範囲。 両親や塾の講師達には預かり知らぬところで、選ぶならこっちだよなぁ、という気分が私の中では高まっていた。
とはいえ周囲にそれを告げるのは色々面倒くさいし、ほっておいてこのままのレールに乗ればA高校は落ちるだろうからこれでいいや、と私は放置しておくことにして、わたしは年末からまた以前のような呑気にテレビやゲームに親しむようになった。


正月を過ぎるといよいよ志望校を最終確定し、願書を提出。いよいよ本番である。

ある日の塾の授業後。講師は私を含めた10人近くを呼び出し、高知にある私立×○高校を受けてみないか、と持ちかけた。その高校は新設の進学校で、今度はじめて松山でも受験を行うという。私は「べつに高知に行く気ないですけれど」と応えた。講師はそれにこう返した。
「×○高は『E高』と『A高』の中間くらいのレベル。ここが受かれば『E高』には受かったようなもの。べつに受かっても進学なんかしなくてもいいから、度胸試しに軽い気持ちで受けてみないか」
結局私は他の生徒たちと同じようにそこを受験することにした。
私立×○高校は高知の地元の大手進学塾が経営母体である。きっと私の通っている愛媛の大手塾と同業のよしみで繋がっていたのではなかろうか。生徒を青田刈りしたいという学校側の意図とすこしでも合格実績を多く残したいという塾側の意図が合致してこうした流れになったのだろう。 願書以外に特に受験の際に提出するものはないからといわれ、模試を受ける感覚で受験することにした。(今になって、よくよく考えてみれば中学の内申書の提出なしの受験だったわけだ。いくら塾基盤の学校とはいえ、なんだかすごいな)

成人の日に受けたその試験は県立の試験とくらべると難易度は高かったが、さほど突っ込んだ内容ではなかった。受かるだろうなと思い、実際受けた通知もそれだった。
ともあれ行く気もない学校の合否など特に感慨はない。翌日、いつものように無邪気に学校に行くと、始業前に担任教師に呼びとめられた。

「△△(私の本名)、お前、×○高校を受験したのか」
「はい。でも、『試し』で受けただけですよ。別にあそこには行かないですから」
その言葉に明らかにほっとしたような表情になった教師はそう続けた。
「そうか。だったらいいけれども。そういうことは事前に言っておいてくれよな」
「でもなんでセンセ、知っているんですか」
「お前、今朝の新聞見なかったのか。塾の折りこみ広告に名前が思いっきり載ってるから。先生、もうびっくりしたよ。お前の名前がどんってあるし。他の先生にも色々聞かれるし。こっちにも色々あるんだからさ。よろしく頼むよ」

「色々あるんだよ」の「色々」とは何かというのは、薄々気づいていた。
その教師は個人面談での私の「A高校を受験する」という言葉に、ダメだとも内申書を書かないとも決していわなかった。けれども「困ったなぁ、参ったなぁ」とでもいいたげななんともいえない表情をわたしにかえした。 そして視線をあわせずに「わかった」とだけ言って、「じゃあ『第1 A高』『第2 E高』『第3 N高』ということでいいな」と確認を取った。

その時私は塾からある資料をもらっていて既に目を通していた。
それは、それぞれの県立高校のそれぞれの年度の合格者を出身中学校で分類した表であった。
これが不思議なほどにその数が毎年変わらない。○○高校の合格者のうち××中学出身の合格数はいつも△人前後、ばかりなのである。多少の数の増減はあるものの、ほとんどといって傾向が変わらない。今まで、○○中学の子がいっぱい合格していたのに今年はまったく、などということがまずない。 またよく見ると、高校のある場所と中学のある場所の関係による親和性も見受けられる。つまり、近い場所にある学校からより多く合格者を弾き出している。 中堅校から下なら、立地で選ぶというのはあるだろう。しかし、上位でもその傾向が見受けられるというのはどう考えてもおかしい。
中学校側と高校側はやはり、それなりにうっすらと繋がっているな。他の生徒がそう思ったのと同じように、私もそう感じた。
模試の結果と学校のテストの結果から生徒を志望学校別に順位づけして、自校の枠分より下になる生徒には志望校の変更を促して、最終調整でなるべくより多くの生徒を公立に合格させるってシステムなんだ。と私は解釈した。


2月。結局私はA高校に不合格の通知をいただくことになった。
冒頭の英語の試験で、こりゃダメだな、と私は確信していたので、そこに感慨はまったくなかった。
しかし、大人というのは面白いもので、ケロっとしているわたしをまるで腫れ物のように扱った。「次があるから。がんばれ」などと塾の講師に励まされると、ここは傷ついたような顔をしなくちゃイケないのかなぁ、とわざとけなげな表情を作って微笑んだ。こういうところは本当にいやな子供である。
両親はどこで繋がっているのか知らないが、私の試験の結果の仔細を知っていた。「合格まであと12点足りなかったって。でも理科がよく出来ていたと褒めていた」
それに大問2つか小問3つってところかぁ、案外出来ていたんだ、とわたしは呑気に考えていた。

その後の話によると、ツテなのか、実力なのかわからないが、A高校には補欠という形で合格させてもらえたらしい。しかし、親は何を考えたのかわからないが、私の知らないところでそれを辞退していた。 親がもう少し見栄っ張りか、無駄に教育熱心であったなら私はA高校に行くところであった。それは感謝しなくてはならないのかもしれない。

とはいえA高校を滑って傷ついているだろうとナーバスに対応してくる大人達にあって、中学の担任の教師だけは違った。
「まぁ、しかたないことだよな」と慰めつつ、明らかに心がこもっていない。『A高を受ける』と私がいった時の難しい表情とくらべると明らかに晴れやかな顔つきなのだ。

その数日後。私立のすべり止め高の方の合格発表はなぜかクラスの担任経由だった(これもよく考えるとすごい)。その時、通知を一人一人に渡し、最後に「3年○組 よって全員合格」と担任が高らかに宣言してクラスは盛りあがったのだが、 そのあと担任教師は私とのなんとなしの雑談で「でもあの時『しかし、残念ながら私立の受験に失敗した人が一人います』って言おうと思っちゃったよ」と笑った。
それはまさしく私のA高校の受験のことである。
「でも先生。それって言ったら中3生の担任教師失格じゃないですか?」と私は返した。(あぁ、昔っからきついなぁ、俺)

そんなことは言わなくても、ほとんどのクラスメートは私がA高を受けたこと、そしてそれに失敗したことは薄々気づいていた。A高校以外の愛媛県の高校の受験日は私立は一律何日、公立は一律何日と決まっている。それ以外の日で受験で休んだっていうことは……。と考えれば誰だって推察がつく。まるわかりなのだ。
こうやってA高校のことを茶化してくれたほうがこの時の私にとっては居心地がよかったのであるが、とはいえその担任の教師が私の心理を読みとってそう振舞ったのかというと多分そうではないだろう、と思う。


3月、公立高校の受験日になった。
私はもはや受かるものだという気分で受験に向かっていた。「高校側が提示した集合時間の10分前に高校の門を潜ったすぐの前庭で自主的に集合」という約束が中学からあったのだが、わたしはなにも集ったところでどうなるものでもなかろうとその集合時間ギリギリに門を潜った。
わたしの中学のE高受験者のなかでそこに集ったのはわたしで最後であった。
また遅れてくるのかと思った、などのクラスメートの言葉にみんな律儀なんだなぁと感心していると 「お前は、いつも自由でいいよな」と見送り係の教師は私を見て笑った。
「『高知の×○高』とか勝手に受けるんだもの」
悪意はなさそうだったのでそのまま流したが、自分の行動が中学教師たちの範囲の外にあり、彼らはそれを受けとめかねているんだな、というのはなんとはなしにわかった。

そして10分経ち、見送りの保護者や中学の教師たちを残して、私を含めた受験生はグランドに集められた。事前の情報によると、実質倍率は1.2倍だという。この愛媛県の高校受験のシステムは見事に作動していた。これで落ちるはずがない。高校側の説明を虚ろに聞いていると、 近くのガソリンスタジオから聞きなれた歌が流れ始めた。中森明菜の「地平線」だった。この渋い選曲にここにいる500人以上のうち何人がこの歌を知っているのかな、などと考えた。おそらく両手で足りるほどであろう。
そうこうしているうちに生徒は次々と校舎のなかに吸いこまれ、そして試験が始まった。
試験は2日間あった。最後の数学の試験で大問1つをつまらない計算ミスで落としたことにテスト終了直後に気づいたが、まったくの不安はなかった。
塾で問題の答えあわせがあるという情報をクラスメートから聞いたが、そんなものやろうがやらなかろうがもう結果は出ているものを、と思った私はその誘いを拒否した。
そして当然のごとく、わたしはE高校に合格した。


中学の卒業式。
私は人気のなくなった校舎の廊下を担任教師と一緒に歩いていた。よく考えてみれば、私はこの教師と短い期間ながらもやたら親密であった。先ほどいったような軽口をよく交わしていたし、変に大人な世間話もしていた。クラブ活動も彼が顧問のクラブに「色々と面倒なんだから、俺んところにいろ」と勝手に入れられようとしたのを「そんなのつまらない」と駄々をこねて変えてもらったりしたことがある。なんで仲がよかったのか、よくさせてもらえたのか。今、考えてもわからない。
その時ふと彼は洩らした。

「こんなこといったら悪いんだけれどさ。E高校に決まってよかったな、って思っているんだ。いや、A高が悪いってわけじゃないんだけれどさ。もしお前がE高を蹴ったら、来年のうちの生徒が可哀相だしさ」
そのまま続けた。
「お前にとってE高はすべり止めかもしれないけれども、ほとんどの生徒にとっては目標なんだよ。もし蹴ることになったら、その目標の枠が来年から1つ減るかもしれなかったからさ」

彼が、私のA高校不合格を聞いて、少しほっとしたような表情だったこと。他の教師の「自由でいいよな」という発言。そしてデータやシステムから見えたもの。今までぼんやりとそんな気がすると薄々感じていたものが、明確にひとつの形になった。 私は教師が最後の最後に正直に言ってくれたことを私は好ましく感じた。
黙っているわたしに気づまりを感じたのか彼は話を切り替えようとした。

「でも、今度はお前の弟だよな」
「あ、あいつは受験とか、そういうことはどうでもいいと思っているタイプだし。私みたいに面倒くさいことは言わないし、しないと思いますよ。ってそもそも勉強好きじゃないから、適当で大丈夫」
彼は笑った。人気のない廊下にその声は響いた。


それから私は、クラスメートやその教師と共に校庭で校門の前で何枚かはしゃいだ記念写真を撮り、そしていつものように別れた。
それからしばらく。クラスメートや担任と何度か年賀状のやりとりや長期休暇の時期の遊びにつきあったりというのはあったが、もう逢わなくなって10年近くなろうとしている。

もし、同窓会が開かれようともわたしのところに連絡状はこないだろう。なぜなら半年しかいなかった私は「卒業アルバム」に名がない。 そしてなにより当時住んでいた父の実家も今は場所を変えて随分経っており、わたしもその頃の名簿を失くしてしまった。


2004.12.11
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