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全編曲・全演奏が本多俊之。マキと本多俊之が正面から相対して、作られたアルバム。このような作品群をDuoシリーズと銘打っている。 バックトラックは決して作りこまれていない。サックス一本であったり、あるいは、マキのアカペラであったり、意味深なシンセ音がマキの歌とほとんど関係なく鳴っている、というそういう曲もある。 ひと組のシンガーとプレイヤーが、男と女が、まるでお互いの心を読みあうかのように対峙している。ふたりの間にはとほうもない漆黒の深淵がある。そんな印象をもつ作品。 二分、三分の小品が並ぶが、そのどれもが息苦しく、緊張感に満ちている。 音が鳴っているのに歌が流れているのに、なぜか静寂ですらある。 ちなみに、同名のビデオ作品、またエッセイ(講談社刊)もある。「幻の男たち」――それは、マキの目を通して映るプレイヤーたちの姿なのかもしれない。
プロデュースは本多俊之と山内テツ。 これも未聴なのでまったくわからん。
Duoシリーズ。本多俊之に続いて、今度は渋谷毅とのさしの勝負に臨む。 渋谷のピアノのみをバックにマキは歌っているアルバムだが、渋谷のピアノは端正で瀟洒で都会的でありながら、あくまで懐深く、まるで父親のように、マキの歌を受け止めている。 これは、本多俊之と渋谷毅の素質の違いか、あるいは年齢の違いか。 おなじDuoシリーズでも「幻の男たち」に漂っていた不穏さというのは、まったくない。 「CAT NAP」以降それまでのファンを置いてけぼりにして暴走するマキだが、 このアルバムはマキのジャズシンガーとしての確かさが味わえる作品で、 70年代のマキの作品が好きという人にも安心して薦められる。
再び本多俊之プロデュース。「CAT NAP」以降実験が過ぎ、歌が率直に届きにくいアルバムが続いた。 それはマキにとって新たな挑戦ではあっても、お世辞にも大成功といえるものではなかったと思う。 だがその路線もこのアルバムでようやくひとつの成果を得たのかな、と。そんな印象を私は持つ。 タイトル作「アメリカの夜」や「POSSESSION OBSESSION」の都会的なクールネスを私は薦したい。 これは、今までのマキでは出せなかったものであり、しかも、きちっとマキの歌として成立している。 ちなみにベスト盤「Darkness 3」にアルバム全曲が完全収録されているので聞く分にはそちらでどうぞ。
「アメリカの夜」での成果を更に押し進めたマキ自身のブロデュースによる作品。 "ポップスのアルバム"ということで、前作からの土方隆行、ボビーワトソンに加えて、渋谷毅、ホッピー神山、セシルモンロー、つのだひろらが参加。 マキのアルバムにしては珍しく派手なアルバムになった(が、これがポップスか、というと、こんなエッジ感のあるポップスは、もう既にポップスではないでしょ)。 セシルとマキのボーカルの掛け合いにホーンセクションが心地いい「KEEP ON KEEP ON」や「ZERO HOUR」、 ホッピー神山の派手なシンセに「サインはなしだぜ」と突き放すマキが良い「放し飼い」などはこのアルバムだからこそ。 中島みゆきの「36.5℃」のようなアルバムをマキで言うならなにになるかとなると、このアルバムかな、と私は思う。 実験的で各プレイヤーが好き勝手やっているようでありながら、作品として世界をもっていて、かつ聞き手を選ぶような部分がマキにしては珍しく少ない。
今回はBobby Watsonにプロデュースを任せている。 "アンダーグラウンドの女王"マキがあえてアンダーグラウンドと名づけるのはかくなる意思か。 アドリブのポエトリーリーデイングのように脳裏によぎった言葉の断片から、 様々な情景が浮かんではきえていく、九分を越える大曲「YS ムーンライト」(――タイトルは60年代、YS-11で東京-大阪-福岡を結んだ深夜航空便からか)をはじめ、 Penelope Peabodysとのボーカルの掛け合いに流浪の哀愁漂う「あたしたち」、 マキの育った北陸の海辺の風景から、今の都会の闇だまりでうずくまるように歌っているマキへとワープする「TOW(曳航の恋歌)」(――しかし、これ、キラキラシンセ音にゃ驚くな)など、 これまでのアルバムとはまた違った不思議な空気がアルバム全体を満たしている。 都会の夜更けの夢の切れ切れを繋ぎ合わせたような、というか、そんなイマジネイティブな作品集。
「幻の男たち」(1983)に続く本多俊之とふたりきりの制作のアルバム。 前作「幻の男たち」と比べてより演劇的になっているといっていい。 散文詩めいた、芝居の科白めいた、沈んだマキの呟き。そこに闇の舞台だからこそ成立する虚構が生まれる。 真っ暗な舞台にひとつのピンスポット――その真ん中にマキがいる、わたしたちは息をつめて、彼女の一挙手一投足を見つめている。 そんな視覚を感じるアルバム。 はりつめた孤独な夜間飛行、というかんじ。 現在発売中のベスト盤「Darkness 2」の一枚目はこの二枚からのセレクション。
このアルバムは、いい。 80年代のマキのベストはこのアルバムじゃないかな。 マキの、都市での、人肌の触れ合うことのない孤独な私生活とその心象風景。その模様がドキュメンタリータッチに淡々と続くのだが、 しかし、アルバムを1枚聞いたあとには、 ひとつの物語のような、そこに立体的なひとつの生が浮かび上がる、という感じがある。 古いマンションのエレベーターで起きた1幕を描いた「Tokyo アパートメント」、 ふられて酔いつぶれた女の思考のループがいかにもな「明日、大丈夫」など 些細な風景にリアリティを感じる。
1988.12.24、池袋文芸座オールナイト公演、1987.07.03〜04、新宿紀伊国屋ホール公演、京大西部講堂でのライブ音源からセレクションしたライブ盤。
これはそのまま「Nothing at all to lose」の続編的アルバムといっていいかな。 台詞や効果音など、さまざまな音響の向こうに、都市生活者の孤独が浮かび上がるような、アルバム。 「このアルバムを聞き終えたとき一本のシネマを見たような印象を受けるなら、嬉しい」と歌詞カードに書いてあるが、じつにその通り。 M-3では原田芳雄が参加。M-8は酔いながら道をとぼとぼ歩いているていで歌う。聞こえるか聞こえないかの声で歌っている。が、これがいい。 また「あいつが一番〜Chrome Sister」もびっくりアレンジで面白い。「ダンサー」はちょっとやりすぎだったかな。怖いよ。
「WHO'S KNOCKING ON MY DOOR」以来、徹底して実験的につきすすんだ浅川マキの究極系といったアルバム。 二枚組で1枚が一曲のみ、しかもタイトルが「無題」という、もう見た目からしてものすごいが、聞いてみるともっとすごい。 なんだか大変なところに行き着いちゃったよ、マキさん。 爆音ギターに、うなりまくるベース、眩暈の嵐のような音像に、マキが時におらぶように、時に知ったことかとつきはなし、歌う。 今回、すべての詞が清水俊彦の詩集「直立猿人」を参考したもので、浅川マキが頭をよぎる氏の詩の断片を自由に歌ったものなのだが、 これもまぁすごい。現代詩をそのまま歌っているよ。 昔なつかしの「少年」を大胆にリメイクした「少年 (U)」とか、マキの語りがすんごい「FLASH DARK」、なにがなんだかわからないとしかいいようのない「憂鬱なひとり歩き」など すごいすごい。すごすぎて大好きです。このアルバム。マキでしかありえない。
アドバイザーとして、土方隆行、後藤次利の名前が明記されている。 80年代は70年代に築きあげた世界を否定し、実験的、音響的なアルバムを連発していたマキだが、 このアルバムでようやくひとつの地点に落着したように聞こえる。 80年代の一時期のアルバムのように、各プレイヤーが暴走しマキの歌が聞こえない、ということもなく、逆にマキの声ばかりが厳前と立ちはだかり息苦しくなる、ということもない。 プレイヤーも自然に演奏しているし、マキの歌も自然に立ち上がっている。とはいえ、もちろん70年代の諸作のようなだけの世界ではない。 80年代のマキを通り過ぎたからこその、新たな、そして穏やかな地平がここには広がっている。 70年代の名曲「こんな風に過ぎていくなら」「別れ」「あの男が死んだら」と80年代の「コントロール」「今夜はオーライ」、さらに新曲とそれぞれが出自の違う楽曲が渾然と並んでも、まったく違和感がない。 ポップスとして非常に聞きやすく、それでいて、マキでしかありえない、という世界が作られている。このあたりはヒットメーカーとして名を挙げた後藤次利の成果だろうか。 オールドロックなギタープレイに「あの頃の頃忘れてもいいだろう だけど忘れなくてもオーライ あんたの都合いっとくれ」と旧友に投げかける「今夜はオーライ」、「オーイ、聞こえるかい 元気なんだろ オーイ 手紙はしないぜ 面倒くさがりの仲間だったろう」と今は会えなくなった友人に歌を贈る「some year parst (2)」には、ほろっとしてしまう。 マキには、骨っぽく男くさい友情が何故かよく似合う。
まず一聴して、83年作品「WHO'S KNOCKING ON MY DOOR」と90年作品「BLACK -ブラックにグッドラック」がふと脳裏に過ぎった。 このアルバムは、「BLACK」と同じく、清水俊彦の詩集「直立猿人」からの作品、「別離」「無題」を収録している。 また、「WHO'S 〜」からの作品「暮らし」も収録している。 そういった流れからのイメージももちろんだが、これら3作に漂う「死」のイメージ、それがなにより似ている。 「WHO'S 〜」は寺山修司の死を契機にして生まれたアルバムであるが、 このアルバムに満ちているのも、紛れもなく『死』である。 「WHO'S 〜」「BLACK」での「死」は、あくまで生者として死に立ちあっていおり、死に対して冷徹に線引きしているようなところがあるのだが このアルバムでは、その生と死の線が溶解してしいて、死の中、闇の中にまさしく飲み込まれるような、そんな雰囲気が漂っている。 「闇の中に置き去りにして」というタイトルも、どこか孤独なマキの、遺書めいた、死出の旅立ちに向かう者の、いまわの一言のようにも感じる。 70年代の夜のさかり場に紛れ込んだような「いい感じだろう、なぁ」あたりもいいが、 「閉ざす」「暮らし」「無題」の虚無的な世界がすべてを覆ってしまっている。 このアルバムの発売前の仮題が「ラスト・レコーディング」であった。いかにも最後のアルバム、というしんしんとして死神の手が闇の向こうから忍び寄るような作品だけに、 この「ラスト」が「最後」でなく「最新」の意味であることをわたしは願うばかり。 |
2003.07.01
2004.01.28 改訂
2006.04.12 追記