メイン・インデックス雑記>わたしが煙草をやめたわけ


わたしが煙草をやめたわけ


 ある日、友人に訊かれた。
 「なんで煙草を喫っているの?」
 その友人は煙草を必要とする人がどうしてもわからないという。私は今までそんなことを一度も振り返って考えたことがなかった。 確かになんでだろう。自分もその質問に即答することが出来なかった。
 友人は続けてこういった。今まで何度となくこの質問を親しい喫煙者に投げかけても、自分の納得する明確な答えが返ってきたためしがない、と。

 私の喫煙のきっかけは一言でいえば「なんとなく」だった。
 煙草をくわえて背中を気持ちかがませて、手のひらで風を遮ってライターで火をつける。すっと息を吸って、そして煙草を指先に挟みこんで口元から離し、ため息のようにゆっくり息を吐く。 辺りに立ちこめる紫の煙と煙草の匂い。そうした喫煙の一連の仕草に子供っぽい憧れを持って吸いはじめ、いつしかそれが習慣になっていた、という感じであった。
 「煙草を吸っていると落ちつく、気分が楽になる」
 当座の回答にとわたしが彼へ告げた言葉がこれであったが、やはりこれでは通り一遍で説得力のある回答ではない。
 「そもそもなぜ煙草を喫っていると、気持ちが落ち着くの?」と、早速再質問である。
 ここで煙草に含まれるニコチンの効果と中毒性を縷縷と語って説明しようと思ったが、これまた通り一遍でどうにも説得力が感じられない。
 はてと考えこんで1冊の本が不意に思い出された。


 社会学者でフェミニストの上野千鶴子氏の著書「セクシィギャルの大研究」という本。人間のとる無意識の仕草やポーズ、更に手にする小道具などを心理学・社会学的に分析し、「しぐさの文法」とでもいうべきボディーメッセージを解読した良書である。
 その中に、サングラスや帽子といった小道具、さらに口元にペンを当てたり、長い髪や本や雑誌などで顔を隠したりという行動は自分と周囲の間に遮蔽物を置くことによって、周囲の状況から一定の距離をとろうとして思わず出た現実逃避、自己保身の信号だ、と解読している部分を思い出した。
 さらに、他人とのコミュニケーションをとりながら自分の衣服の端を直したりペンなど自分が手にしているものをいじったりする癖、これもまた相手とのコミュニケーションをとりながら、その場から逃げてしまいたいという心性を暗に表現した行動、――コミュニケーションをとる一方で自閉的なセルフコミュニケーションをとり、ナルシシズムの世界に片足かけている状態である、と看破していた。
 この部分を思い出して、はっとした。あ、煙草を喫っていると落ちつく理由はこれかもしれない。と。


 自分にとって耐えがたいが、しかし、体ごと逃避するわけにはいかない現実状況に接した時、 煙草を口先でくわえれば、自分との間にひとつの遮蔽物がおかれ、状況から一定の距離を保つことが出来る。さらに口から吐き出される紫煙は自分と周囲を遮る格好の遮蔽幕だ。
 さらに、火をつけたり、灰を灰皿に落としたり、煙草を口先に寄せたり離したりという煙草を喫う一連のしぐさもこれまたわかりやすいセルフコミュニケーション―――、 周囲の状況から独立して自分のためだけの行動、強い言いかたをすれば自分のための愛撫といえるわけだ。
 つまり「喫煙」というのは、この生きにくい社会という現実から、束の間の逃避をし、自分を慰撫することの出来る「簡易・ひきこもりの殻」と言い換えることすらできる。と。


 この説明は「喫煙者のひとりであるわたし」という視点から見て、妙に合点がいった。
 時間が持たない時、親しくない人と会話しなくてはならない時、煙草に火をつけると妙に安心する。あの感覚ってのはこれだったのかぁ。

 こう考えると、あれだけ煙草の害毒が喧伝されながらも公共の場で喫煙しようとするものがあまり減らないということもよくわかる。
 朝、通勤列車がプラットホームに滑りこむ数分の間にも喫煙コーナーで一服する人。コーヒーショップ、寒風吹きすさぶ出入り口近くの喫煙席を陣取ってまでも一服する人。 彼らは全て耐えがたい現実にようよう耐えて束の間、自分の殻に浸っているのだ。

 周囲の人間に対して無頓着な喫煙者が実に多いというのもここに由来するのではなかろうか。
 ナルシシズムというのは、本質的に他者の存在をまったく考慮しない自閉的コミュニケーションである。 喫煙という行為がナルシシズムをベースに成り立っているというのであれば、その行為をよくするものが周囲への配慮が欠けるというのはむしろ当然である。 逆にテレビなどで勧めている「他者に喫煙の害を与えぬように周囲を考慮する社会的でピースフルな喫煙」というのは矛盾以外の何者でもない。

 社会的でもピースフルでもいたくないから煙草を喫うのだ。今の自分にいっぱいいっぱいで、周囲のことの未来の自分のことも脇において自分の世界に浸っていたいから煙草を喫うのだ。
 副流煙の害や二次喫煙など知ったことかと、禁煙ゾーンでの喫煙、同席した相手への一言の了承もなしの喫煙、さらに雑踏での歩き煙草、吸殻のポイ捨てなどをするものこそ本当の「喫煙者」なのだ。


 と、ここまで考えたつれづれを友人に話していると、なんだか自分が煙草を喫っているということが、ひどく愚かしく子供じみた行為のような気がして仕方なくなってきた。 そう言うと、友人は、じゃあ、煙草を喫う意味ってないよね、と灰皿にあった火のついた煙草をもみ消した。友人は熱心な禁煙運動家だったのだ。
 それ以来、わたしは結局一本も煙草を喫っていない。


2005.02.23
落葉拾いのインデックスに戻る