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苦い追想  〜栗本薫〜

追悼・栗本薫の馬鹿が死んだ (記・09.05.27)
その後の追悼・ほんとうのさようなら (記・09.05.30)

浜名湖うなぎさんと栗本薫 中島梓・追悼ファンブックを刊行しています。
新刊は栗本薫とJUNE。(11.07.03)。通販サイトはこちら


 世間でいう「イタい人」が、わたしは、さほど嫌いではない。
 もちろん職場や家庭など、身近にいられるとちょっと困ってしまうのだが、自分になんらかの害が被らないかぎりにおいては、まぁ、いいんでないの ? ある意味面白いし、別にそんな必死に叩かなくてもね、と、暢気に生温かく見守ってしまう。
 家人から聞いた「邪気眼」の話(→詳しくはここ)も、イタいなぁというより、むしろ、ある意味エンターテイナー ? うちの学校には、なんで邪気眼とかほざく楽しげないじめられッコクラスメートがいなかったんだろう、友達のフリして色んな設定聞き出したのに……、とちょっと損した気分になる。
 んが。
 神楽坂倶楽部。
 アレはいけない。
 アレはしゃれにならない。

 家人の栗本薫熱がぶりかえしているせいか、最近の栗本薫の動向を逐一報告してくる。 報告しながら、あぁぁ、と、彼は嘆く。
 そのたびにわたしも、なんともいえない感情に襲われる。 襲われながら、自ら彼女のサイト「神楽坂倶楽部」や、にちゃんねるの彼女のスレッドを開いてみる。 そして、ますます私は言葉を失っていく。

 おそらく彼女の作品のファンのその多くがそうであったように、わたしにとっての「栗本薫・中島梓」は、大切な作家なのだ。
 わたしの思春期、その性格形成において、もっとも多大なる影響を与えた作家のひとりが、彼女なのだ。
 あまり深く彼女の作品に没入すると、わたしの価値観は彼女そのものになってしまうかもしれない―― そう感じて、あえて敬して遠ざけた時期すらあるほどの――だから、わたしは彼女の代表作の「グイン・サーガ」も「魔界水滸伝」も読んでいないほどの、いつか小説道場に投稿して彼女の評をあおぐことを楽しみにしていたほどの、作家なのだ。
 星星の軌道がそれるように、思春期の終わりとともにいつしか栗本薫・中島梓を読むことはなくなったけれども、彼女の存在は、まだ私の心の黄金の玉座に、鎮座ましているのだ。
 聖域にいる作家なのだ。
 断固として譲れないのだ。
 しかし、しかし――。
 なんなの、これは――。



 思えば、彼女は、「邪気眼」や「影羅」を語る者どもと同じ種族の人間――「中二病の人間」であった。(中二病の解説はここ→)
 漫画家になる夢、ミュージシャンになる夢――。淡雪のような実体のない夢を膨らませ、その癖自分ではなにひとつ行動にうつさない。 漫画誌に必死に投稿を続けることもなく、チケット手売りで、ライブを重ねることもしない。 自ら積極的に何かを掴もうと努力することなく、今の与えられた環境――親や学校などといった狭い社会で世界全体を推し量り、たあいのない屁理屈で否定する。 ただ残るのは、肥大しきってぶよぶよと醜く膨らんだ自意識と妄想のみ――。
 そんなひきこもりのキモオタニート(――なんてコンビニエンスな言葉は当時はなかったが)の彼女が、大学を卒業して就職もせず社会も出ずに数年間、ねちねちねちねちと自室に引きこもって書き連ねた自意識と妄想の塊が、ある日突然、偶然の積み重ねで脚光を浴びる。 それが「作家・栗本薫・中島梓」の誕生の歴史であった。
 ゆえに彼女が、当時ライトノベルという言葉も、ボーイズラブという言葉もなかった時代に、まさしく中二病なヤングアダルト層に絶大的に支持されたのは、必然といえるものであったといえよう。
 もちろん、彼女はただのひきこもりのキモオタニートと、違っていた。 その蓄えた知識――ジャンルの広大さ、その筆致の鋭さ、その情念の激しさ、そして、所詮ひきこもりのキモオタでしかない自らへの厳しい批判のまなざし――。
 彼女は、言うなれば、キモオタでありながらキモオタを克服し超越した、キモオタにとっての秘蹟たる存在――絶望的な輪廻の輪から解脱への道を指し示した偉大なる聖者、であった。

 そして、彼女は時代の寵児になる。
 時代小説、伝奇小説、推理小説、SF、ホラー、ヒロイックファンタジー、ハードボイルドロマン、JUNE小説――。エンターテイメント小説のほぼすべてのジャンルに手をのばした。
 それだけにとどまらない。ある時は硬派の文芸評論家、ある時は若者文化のメッセンジャー、ある時は軽妙洒脱なエッセイスト、ある時は的確なインタビュアー、ある時はテレビ番組の司会者。ある時は小説道場道場主――。 紅白の審査員もした。憧れの沢田研二主演のドラマの脚本も書いた。岩崎宏美主演の舞台の脚本演出作詞も担当した。
 憧れていた漫画家たちとも、気の置けない友人になった。 諦めていたバンドの活動――中島梓とパンドラ、もはじめた。 あらゆる分野で自らの表現を手に入れていく栗本薫・中島梓――。

 そして時はさらさらと流れて、「いま」。
 ――この厳然と立ちはだかる「いま」という壁にわたしは、呆然となる。
 


 神楽坂倶楽部を見る。
 まず、その素晴らしすぎるデザインに呆気に取られる。
 デザインの趣味の悪さ、アクセサピリティーの低さは、まぁ、それは、いい。別にこれで食べているわけでないし。と、さらっと、流して、まずイベント内容とやらを見る。
 イベント?
 作家がイベント? 
 その時点で疑問符が溢れるが、これも華麗に受け流して、その内容をみる。
 「ゆかた姫×3!ゆかた見せびらかしライブ」?
 「小笠原伯爵邸でパロ大舞踏会」?
 この人、なにやっているの?
 どこ目指しているわけ?
 疑問はとどまることないが、なに作家は文章がしっかりしていれば――と、核心の文章を読む。
 読む。
 読む。
 読む。
 読めない……。



 着物やらグルメやら、色々なテーマの文章が、さまざまに、よくわからないところに格納してあったり、 しかも、テキストは文章改行少なめ、行間つめつめ、壁紙と文字色の相性完全無視、という、読みにくくさ最高な設定であるのも、その理由として、ひとつ、ある。 が、それよりなにより、もともとの文章のひどさ。それがあまりにも図抜けている。並じゃない。
 なにひとつ――才知のきらめきも、鋭い分析も、軽妙な筆致も、なにひとつ感じられない。 ただの、初老の、おしゃべりで、あまり学のない女性の、偏見や嫉妬の入り混じったひとり言のような――。 いくら、日記とはいえ、ありえない。ありえなさすぎる。
 彼女は、中島梓名義で、軽妙な名エッセイも数多くのこして、いた、はず。なのに、どうして――。

「素人で、これぐらいの文章が書ける人はいくらでもいる」
 という、よくあるプロ作家への批判の、はるか上で
 「素人でも、ここまでひどい文章を書いている人は、数少ない」
 という言い方がちょうどいい。

 かつて、編集者が先を争うように奪い合っていた彼女の文章が、いまやこの程度までに、ほとんどと落書きとかわらないまでに――。
 そんな出すあてもない落書きのような文章の塊としかいいようのないもの――主にやおい小説、が彼女の手元にはごろごろある、という。それにもましてまだまだ書きまくる、という。
 それは一体、どういうことなんだろうか。ふと、思う。
 がしかし、わたしは深く考える気も起きない。
 ずいぶん、まぁ、なにを目指しているのかわからないけれども、ご苦労なことで。



 こんな、ひどい文章を垂れ流して、ファン相手に生温いお友達ごっこに彼女は興じて―― 唖然としながらも、しかしなぜだろう、不思議と、彼女がこの地に流れ着いてしまった、その理由がなんとなくわかる。

 彼女がたどり着きたかったのは、気鋭の作家という位置でも、現代の語り部という位置でもなかった。
 彼女が真に求めたのは、孤独を代価に万来の拍手を浴びる「べストセラー作家の栗本薫」ではなく、 ただひたすらぬるくてゆるい、ひきこもりのキモオタそれ以上でもそれ以下でもない自分――栗本薫でも中島梓でもない、そのままの今岡純代を、そのままの形で受け入れてくれる人たちに囲まれること。 このままありのままの姿で、飾りのない醜く歪んだ本来の自分の姿で、愛されること。それのみだったのだのではなかろうか。

 そして彼女は、その場所を、その愛を手にいれた。
 極少数の、あらゆる言動を肯定する盲目的なファンと夫――。
 彼女を傷つけるものは、彼女を不安にさせるものは、もう、彼女の世界にはなにひとつない。
 キモオタだった彼女は、長い旅路の末に、本当に手にしたいものだけを手にして、キモオタの地へふたたび辿りついた。
 彼女の物語は、ここでおしまい。だ。

 もちろんそれは、ただの欺瞞でしかない。
 彼女の結末は、彼女が愛したアガサクリスティーの「春にして君を離れ」の結末と同じといっていいだろう。
 一度、真実を手にしながら、しかし、ふたたび欺瞞の日常へと回帰していく、あの初老の女性。
 自信に満ち溢れたそぶりをしながらも、その実、弱く愚かで、いつも何かに怖れていた彼女。
 大事なものをいつもの見まいとして、結果、間違った生を生き、真実からはるか遠のいてしまった彼女。
 可哀想な、ひとりぼっちの、リトル・ジョーン――。

 「人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み台にして、より高いものへと進んでいくのです。痛みや苦しみが回避できない時もあるでしょう。 ……あなたもやがて痛みを知るでしょう……あなたがそれを知らずに終わるのなら、それはあなたが真理の道から外れたことを意味するのです」
(アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」)

 思えば、この言葉は、小説道場門弟時代の秋月こおに彼女が投げかけた言葉だった。
か弱い自我を押し隠すかのように、現状のみじめな自分を肯定せんがために、逃げるように書き散らした秋月の四篇の小説に、彼女が叱責とともに投げた言葉、だった。
 この言葉に、私は、泣いた。
 自分の周りのあらゆる出来事がつまらなく、うとましく、しかし、なにも自分の力で変えることなどできないとはなから諦めて、斜に構えて逃げまくっていた高校生のわたしは、惨めにも、泣いた。
 「いけないのだ、このままでは。」
 なんども彼女のメッセージを、反芻した。
 遠い昔の話である。



 彼女の欺瞞を彼女以外の誰かが見抜き、かように紙の上で暴くことは、たやすい。
 しかし、彼女自らが仕掛けた欺瞞――その巧緻な罠に自ら気づき、心を改め、険しい真実への道のりへとふたたび足を向けることは、容易なことではない。 そしてそれは、ファンや関係者が、強いて出来うるものでは、決してない。 いまの生温く、偽りの甘さだけしかないその場所が、自らの人生の目的地だ彼女が思うのなら、周りのものは、なにもいえない。


 だから――わたしは、
 「ありがとう。そして、さようなら」
 そう言葉にするしか、選択肢はない。
 「またどこかで出逢えたならいいのだが……」




 と、とっくにサヨナラをしたはずの栗本薫について「翼あるもの・下巻」を読みながら想う夏の日、であった。

 それにしても、沢田研二のファンになって、「悪魔ようなあいつ」全話観賞して、その後に「翼あるもの」を読むと、こう、来るものがあるね、これは。 改めていうのもなんだが、あんまりにもあんまりすぎる(笑)。
 もう、脳内イメージは完全に、ジュリーとか岸辺一徳とか藤竜也とか久世光彦とか、なわけで。 商業で出すものなのか、と。これは芸能パロ同人だろ、と。
 「まよてん」を「こんなゲテモノ小説」といった当時の文芸春秋の編集の見識は、ある意味正鵠をえているな、と、いまやいい年の私は思ったり。
 ちなみに森田透の脳内イメージは、加橋かつみというよりも、おもいっっっきりダイエットして美化した栗本薫、のイメージでした。 ってか、栗本薫はデビューからしばらくは自分を「森田透=負け組」と規定していたんだよな。 ちっとばかり才能はあるけれども、そのちっとばかりの才能にふりまわされてダメになる奴に共感していたというか。
 なんでそれがいまや薫は、自分を、無条件で天からの恩寵を一身に受けている選ばれしものだ、と「今西良=ナリス=勝ち組」と思いこんでるんだろ。
 薫は、負け犬でよかったのに。てか、勝ってると思った瞬間に負けた、という感じだよな、薫は。
 無条件で神に祝福される存在じゃなかったから、努力して、結果面白い作品が生まれていたのにねぇ……。なんで、その努力の部分を捨てちゃったんだろ。――と、長い蛇足。




2006.08.23
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