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YAHOOのコンセプトとオタク的サイトと私の嫉妬


YAHOOのサイト登録の申請を出して1ヶ月を過ぎたがまったく連絡がない。
やはり審査を通らなかったようだ。

これは先に「庄内拓明の知の海に跳び込め」さんのテキスト―――http://homepage3.nifty.com/tak-shonai/intelvt/intelvt_027.htmでyahooの登録に関する事情を知っていたことなので、 どうせうちのサイトも通らないだろうなあ、と半ば諦め半分での申請だったのだが、その通りの結果となってしまった。
あらかじめわかっていたとはいえ、やはり結果をいただくとなると少し落ちこむ。

私のサイトの場合、音楽部門と漫画部門を二分化して雑記部分を省けば漫画批評サイト、音楽批評サイトとして成り立つような気がするが、それは私のポリシーに反するし(―――なんか人格を分けているような感じがして厭なのだ)、なにしろ2つも私的なサイトを掛け持ちするほどのバイタリティーがないので、今のところはできない。

何故YAHOOに登録申請を出したのか、といわれれば、それは他のサイト管理者が考えているのと同じように「新規ユーザー」の獲得につきる。
個人サイト運営というのは「自己満足」が基本だ、と常々おもっているが、とはいえ誰にも見られないのにちまちまと書き連ねているほど虚しいものはない。
わたしは自己満足といいながらも、他者に対してサーヴィスをし、そのサーヴィスする自分に自己満足する、という、つまりは「自己満足」と「他己満足」が複雑に入り混じって生きている凡人にすぎない。
わたしは誰も見ない絵はこの世にないのと同じとおもっているような芸術家には決してなれないタイプの人間なのだ。


と、YAHOOのサイト登録に落選しながらも新規ユーザー獲得を狙う私は、その後「アクセス数が増やすサイト作り」なるテキストを、これまた見なきゃいいのに見てしまう。 ここに書かれていたことは、要約すればつまりこういうことだ。
「テーマはひとつだけ、絞り込んでサイトをつくれ」「テーマ以外の余計な情報は書くな」「こまめに更新しろ」「雑誌にサイト情報を載せてもらうなり、YAHOOに登録してもらうなりとメディア側からの太鼓判を得るのを目標にしろ」。
松田優作的に「なんじゃこりゃぁ―――っっっ」。思わず叫んでしまった。
「こまめに更新」以外は全くもって承服できない自分がそこにいた。

「こまめに更新」っのはわかる。
しかし「テーマを絞っておたく的にのめったサイト作りにする」っていうのは、これは庄内拓明さんが指摘している通りに「YAHOOの審査に通りやすいから」にすぎないわけで、 つまりはYAHOOのネットへの影響力ゆえにおたく的なサイトが活況を呈しているに過ぎないってことでしょ。

そもそもさ、そんなにテーマを絞ってオタクっぽいサイトにしなきゃお客って集まらないものなの?ネットしてる人ってみんなオタク体質なの?どうなのよ、そのへん。
確かに妄執的ともいえる「情報の塊」サイトがひとまず活況を得ているという事実はしっている。
私の扱っているアイドルや漫画に関するサイトで人が多く訪れているところはたいていそんなサイトだ。

でも、ああいったサイトってありがたい反面、わたし的にはさほど面白くもない。
ただ情報を仕入れているというだけで、知識欲は満たされるけれど、そういったものばかりに接しているとどこか心が乾いてしまうのだ。
なぜなら、ああいったサイトは情報ばかりで、その情報を扱う人の温みが全くないからだ。

例えば、そういったサイトの管理者や作り手の個人の顔が私には全然見えない。
だいたい普通の人は現実世界では「○○ちゃんのファン」という顔以外にも違う顔を持っているはずだ。 いわゆる普通に生活している時、どんなことを考えているのか、何をどう見ているのか。そういうものがあるはずなのに、それがいまいち見えないのだ。
私は作品それ自体も好きだけれども、その作品を支えている人も気になるし、作品を受け取る人も気になる。
もちろんそういったサイトの有用性というのはわかる。けれども、そんな人格をひきぬいたところにあるサイトだけが活況を呈するのは私にはとてもアンバランスに映るのだ。


だいたい、オタクチックにのめったサイトつくりして、ヤフーに登録してもらって、結果オタ仲間がいっぱい訪れて、って、みんながみんなそれで嬉しいのか、果たして。 私は全然そうじゃないぞ。

はっきりいうけれど、私は「同好の士」という共通点だけでただ群れているという構図が大っ嫌いだ。
なんか「みんな知っていて、みんないい」という他者のいない奇妙な井の中にいるような気がして気持ち悪いと思ってしまう。
その閉じられた世界で高度な話題が繰り広げられていればまだしもよいのだが、本当にひたすら群れているだけとなると、実にどうでもいい気分になる。
個々の人格よりも「○×ちゃんのファン」というほうが上位概念になっているんじゃないか、その集団は。と、私は失礼にも思ってしまう。

そんな場所なら、私はひとりで色々な人にあって、私の知らない色々な話を聞きたい。
―――私は自分と全くタイプの違う人、私と全く違う世界に生きる人の話を聴くのが結構好きだ。その人が他者への窓がしっかり開いているすばらしい人格者であったり、何らかのプロフェッショナルであるなら尚更。
そういう人の話は無条件に面白いし、それに聴いていると心に新たな窓が開いたような感じがして気持ちが浮き立つ。

べつにそういった全てのサイトが間違っている、と思っているわけではもちろんない。
とはいえ、こうした専門的・オタク的な階層分けをYAHOOが行なっているということは、情報化による知識のタコツボ状態が現在のネットの現状であるという認識を持っているにほかならず(―――これはある一面は正しいのだろう)、そしてそれに対する違った視点からの切り口の提示がYAHOOサイドからなく、またそうした動きがネットコミュニティーの側から一つの潮流となって現れてないということは、それは「そのままでいい」という全体の意志表明でもあるわけだ。(※1)
しかし、ネットって果たしてそれだけでいいのか、とわたしはひそかに思う。
ただの情報検索ツール?あるいはオタク仲間内でおしゃべりするだけのもの?もっと可能性あるでしょう、と。


結局ネットって「生の情報」は驚くほどいっぱいあるが、他者に聞かせる「面白い話」ってはそれに比べて少ない気がする(―――他者を求めない「自分だけが面白い話」ってのは結構あるけれどね)。
エピソードを繋げれば小説になるわけではないのと同じように、情報もただ並べ立てるだけではただの情報。その情報を取捨選択し、どのような切り口で、どのように語るか、そういった肉付けがあってはじめて他者を惹きつける「話」になると私は思う。
これはもちろん、個々の能力によるわけで、しかもそれは経験や見識など人格的な部分だし、誰もが持ち得る技術ではないといえるかもしれないけれど、ゆえに自分であるからこそ提供できるものがそこに生まれるとわたしは思う。

今や情報はたやすく、かつ腐るほど溢れかえっている時代になってしまったのだから、オタクの人も昔ながらの情報収集に偏執するだけでなく、情報を編集・再加工し他者にリリースする、という「話者」としての能力も取り入れなくっちゃ、と思うのだが、いかがなものか。
つまりは「他者」を意識しつつ「個々」の視点から「話」をきちんとする、ということを身につけなくちゃね。ということ。要はコミュニケーション能力を上げませんか、ということですね。
(―――「他者」と「自分」、それをつなぐ「コミュニケーション」ということで、なんとなく引きこもり世代のキーワードが並んでしまったなぁ、そんなつもりはなかったのに)

YAHOOにぶうたれるつもりが、なんとなくオタク批判めいてきたのでこのあたりでやめる。 ともあれ、かくなる理由でわたしはオタク的なずぶずぶの素材を使いながら、偶然検索で入ってみた人に「おっ面白いこと言っているな」と思われ、お気に入りにいれてもらえるようなサイトになればと、慣れない努力をしているのである。なかなか実現はむずかいけれどね。



と、ここまで勢いに任せて去年の6月頃に書いたのだが、書いたとたんにすっかりこのテキストの存在を忘れてしまっていた。たまたま今見つけて手直しをしているのだが、まぁ、ただの愚痴という感じでしょうもないのだが、ここまでの量があるのでひとまずアップすることにする。
今見ると「庄内拓明の知のヴァーリトゥード」さんの劣化コピーのような文章でなかなか恥ずかしい。

ちなみに現在私のサイトはこのテキストを書いた頃の2倍から3倍のユニークアドレス数を記録している。正直いって、こんなに短期間で増えていくとは我ながら眉唾だ。 既に自分にとっては充分過ぎるほどの読者を抱えていると思っている。 なにもYAHOOの登録審査に縋るような真似をしなくて充分な状態なので、こんな愚痴はもう出ない。 YAHOOのディレクトリに載らないものでも、一定の読者の確保するサイトというものは実際できるものなのだ。


※1 blogはこの問題に関して、新たな可能性・切り口の一つとなりうるのかもしれない。それが現段階で成功しているか否かは私にはわからないが。


2004.06.20 ?
2005.01.16 加筆修正
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