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日の出ハイム 「ファーラウェー」

青春の乾いた風が吹いている

(2005.08.10/ビブロス)



 やおいも少しずつ変わっているなあ、と近頃よく思う。
 そのかわりゆく「やおい」が、以前あった素晴らしいなにかが瓦解して、望まない形に変容しているのか、 あるいは目を瞠る新しい何かが生まれようとしているのか、そのどちらというのは、よくわからない。
 ただ、長い間同人誌や「JUNE」といった小さなフィールドでのみであったやおいというムーブメントが、 90年代中頃、過度に拡大し、実勢を超えた一種バブル的な様相を呈したことは事実であるし、 そういった流れで生まれた雑誌から、質の低い作品が多く生まれたというのも事実だし、 そして今は、そのバブル的な束の間の華やかさの後の時代であるということは確かであると、思う。

 淘汰されるやおい雑誌は淘汰されたし、消えゆく作家は消えた。
 もちろん淘汰されるべきでない、消えるべきでないモノ、人たちというのはその中にいたし、そこに一抹の寂しさを覚えるのは確かだけれども、とはいえその先に、新しい才能の輝きを見つけると、過ぎ行く季節を受け入れるのも悪くないかなぁ、と思ったりもする。後ろ向きになるばかりでなくってさ。



 ひっそりと注目していた日の出ハイムさんのはじめての単行本「ファーラウェー」が発売された。 これは青春の苦さがつまったやおいといえるかもしれない。

 空ばかりがやたらと広いだけでなにもない片田舎――ただひたすら、どこか遠くへ行きたい、そう思いながらも、街に縛られる決して身動きの取れないひとりの少年の焦燥と不安に満ちた些細な日常の点景から、 まるでなにかの憧れの象徴のようにひとつの恋が生まれ……というタイトル作「ファーラウェー」と「オーバー・ザ・レインボウ」。
 失った家族の記憶を抱えたまま忘れられず、いつも淋しげで静かな横顔を湛えている新任の高校教師と彼の秘密を共有した生徒との交歓を描いた「アザミヶ原16号線」。
 夏の傷心旅行で訪れたイギリスのロックフェスティバルで行きずり男と恋に落ちるのだが……という「スリーピース・スピリッツ」。
 親族の死をきっかけに心が荒んだ少年と彼の強姦を甘んじて受け入れる同級生の不思議な心の交流を河川敷のプレハブ小屋を舞台に描いた「河川敷はひみつきち」。


 全ての作品が、どこか空を感じる作品というか、青臭くって、ほろ苦くて、果てないものを見上げているというか、そんな10代の特有の空気感を感じることができる。 しかもそれらの描写は背伸びがなく自然で、それでいて、深く豊穣なイメージが広がっている。
 だから、読んでいて、みずみずしい新鮮な才能に今触れているな、と素直に思える。この世界を深呼吸して味わいたいな、と思える。

 あとがきによると、どうやら作者は70年代フォークが好きらしいが、70年代のATG映画といったあたりも好きなんじゃないかなぁ。「八月の濡れた砂」とか「妹」といった藤田敏八作品とかを好んで見ているのでは、と私は思けれども、どうかな。
 「やおい」的な文法を基調としながらも、どこかあの時代の映画のような白々と乾いた風が吹いているというか、ぽかんぽかんとした暢気で空虚な感じというのが作品に漂っていて、それがこの作品集の個性を引き立てているし、そして何よりこの雰囲気が「今」という時代になんとも似つかわしく思える。
 ポスト全共闘の空虚が70年代の空気だと思うけれども、もしかしたら今の空虚というのは、あの時代に近い感触のものなのかもしれない、と思ったりもした。



 もうひとつ、この作品を読んで強く感じたのは、「やおい」というものもかわってゆくんだな、という感慨。 「やおい」の文脈を持つ作品でありながら、ひっそりとさりげなく今までのやおいでない部分というのをわたしはこの作品に感じた。
 それはもちろん、私とってはなにかの予感であって、ひとつのグッドニュースである。

 例をあげるとするならば、彼女の描くセックスが過度にロマンチックでも、おしゃれでも淫靡でもグロテスクでも虚無的でもない、というところだ。 セックスが終わりなき日常の点景としてあるのが、やおいにおいては新しい。
 セックスを非日常と捉える人、「なんだかよくわからないけれども、凄いもの、大変なもの。思わずアンカーラインを引かざるをえないもの」として描写する人というのは「やおい」であるなしいかんにかかわらずいくらでもいる。 では、セックスを日常のもの、自然なものと捉え、描写するというのは、非やおいでは数あれども、「やおい」でそう描く人ってのは実は今まであんまりいなかったんじゃないかなぁ、と、彼女の作品を見て、ふと思った。 やおいにおいては、まだ「セックス」というのは字体で云うなら思わずゴチックにしてしまうような、そんな特別な箱に入っているものだったのかもしれない。

 もちろん、「セックスが日常である」という「やおい」は今までにもあったといえばあったと思う。岡崎京子とか、吉田秋生とかね。 でもあれらは、お洒落であったり、ゲージュツであったり、「日常」でありながらそのようなミスティフィケーションを纏っている。自意識が、まだ強いのだ。
 しかし、彼女の作品はそういった気負いがまったくなく、あくまで自然で、かつ「王道やおい」に絶対的に必要な部分というのを失ってはいないように思えるのだ。 彼女の作品はサブカルキッズに喜ばれるようなそれでなく、あくまで「JUNE」に掲載されるような「王道やおい」の系譜。それがなんだか、嬉しい。

いいや 今はどうでも
こいつのチンコがでかくて気持ちいいから
……そんでいいや

 こんなセックス中の主人公のモノローグが、生臭くも過激でもおしゃれでもなく、むしろ少しばかりの寂しさの気配を漂わせながら、自然に流れていく。 昔とは時代が変わったというのもあるだろうけれども、わたしには軽い衝撃だった。
 普通にセックスが日常にある人の、いつわりない普通のテンションのモノローグであって、それでいて、少女漫画の文法から外れていないなぁ、と。



 もうひとつ、今までと違うな、と強く思ったのが、作者が情緒過多の一歩手前でとどまっていて、乾いているところだ。
 例えば「ファーラウェイ」の主人公トモは情緒不安定の母が鎖となって「俺はこのしょっぱい街から決して逃れられない」と鬱屈しているのだけれども、作品はそこからトモの内面に深くのめりこんでいかない。
 24年組以来、大抵の少女・やおい漫画というのは、そこへズブズブと深く入っていって、深い憐憫から救済へ向かうのがセオリーだったと思うのだけれども、この漫画はそこをぎりぎりのところで一歩引いている。突き放しこそしないが、決して情で水びたしにならない。 リリカルさを失うことなく、しかし現実主義的な世界観でもって、描いている。この距離感というのは、やおい漫画にしては珍しいな、と感じた。

 彼女の作品は、トラウマからの脱却であるとか閉塞からの打破といった大テーマを大手を振って乗り越えるわけでもなく、かといって絶望の淵にのめりこむわけでもない。
 かつてのJuneと呼ばれたやおいは、いつも0か100かを求めていたようなところがあったが、 彼女の作品は現実主義的に、自己の位相をすり替えて40や50の領域でもってハードルを切り抜けているという感じがあって、それでいて、やおい・少女漫画に欠かせないみずみずしさや純粋さ、リリカルさを失っていない。
 これはやおいのひとつの成熟なのかな、と思えたりするが、まだ一冊しか著作のない作家であるからここでの判断は早計かもしれない。



 ちなみに、わたしが今回の作品集で一番好きなのが「スリーピース・スピリッツ」のこのモノローグ。
胸が痛もうと
悲しみで足がもつれようと 歩け
かまわねーで歩け 前を向いて歩け

顔を上げろ
足踏ん張って立て

眼前でうごめく奴らは
皆そんな俺を愛する

ストラップは落とし気味に
服は汚なめに
天からの福音の光を見つめ

正面立ちで うつむかずに
高らかに負け犬の歌を歌え !!

 ね。少女漫画の文法から外れないリリカルなモノローグでありながら、 どこか、今までにない骨っぽい力強さもあり、新鮮さといなたさを感じませんか?
 こういう言葉をつむぐ人の漫画です。
 今まで知らなかったけれどもこのテキストを読んでちょっと気になるな、と思ったやおい好きの人は、是非チェックしてみるといいと思う。オススメ。

 翌月には時代モノの作品を集めた単行本「花にて候」が同じくビブロスから、翌々月には「それもこれもが恋ってもんだろ。」が海王社から発売。こちらはどんな作品が待っているのかなぁ。楽しみだっ。

2005.08.13
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