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「僕の命を救ってくれなかった『エヴァ』へ」感想  その2

(三一書房/1997/切通理作 編)


とゆーわけで話の続き。
なのだが、俺は何が言いたかったんだ???。
と、ここで読み返す。

…………。
が、結局なんも手がかりが見つからずに戻ってくる。
すっかり忘れたよーーー。
というか、3ヶ月以上も放置するなや、俺。

うーん、なんとなく思い出し思い出しで書く。

えっとだねぇ、70年代後半から80年代にかけてぶわっと言論界(というものがあるのかどうなのか知らんが)が妙に盛り上がったじゃない。
吉本隆明が「重層的な非決定へ」とか書いて日和ったり、浅田彰が「逃走論」で時代の寵児になったりとか、他にも中沢新一とか栗本慎一郎とか、まあ、色々。
これは今考えれば「コマーシャリズムがあらゆるジャンルの領域まで侵食してきた」っていうだけの話で80年代の象徴のような出来事なわけですが。
ともあれそういった言説がテキストとしてアニメや漫画、歌謡曲とかを援用することによって、それらサブカルチャーと不思議な融合を 遂げるわけです。
例えばYMOなんてのは、まさしくその象徴のような存在で村上龍と坂本龍一が吉本隆明、柄谷行人などと対談している対談集「EV.cafe」なんて、うわっっっ80年代!!!と叫ばずにはいられない内容だし、また大塚英志なんっつうのはそういう状況が生んだ評論家な訳ですな。

で、そういう状況があって、その中で語られる言説があって、私も時たま本を手にする機会もあって、と。「今、日本で「知」の先端というものはこういうノリなのね」と眺めていたわけですよ。
ま、この流れも90年代に入ってなんとなくブームが収束して学者は学者へ、評論家は評論家へ、漫画家は漫画家へ、って感じで散らばっていって、なぁんとなくそういったサブカル的言説を見る機会がなくなり、目に付かないものだから私も忘れてって感じで。
言論界(というものがあるのか知らんが、と、くどかろうが再三書く。だって本当にそういう世界ってあるの??文壇と同じくらいに私とっては嘘臭い)というものは本質的にムラ的で部外者からはどう動いているかわからないしね。

で、エヴァブームですよ。
皆さん知っているように、「80年代の夢ふたたび」にアニメ業界と共になぜかサブカル言論界も不気味な盛り上がりを見せたわけです。
とはいえ私はかのように「あんなアニメ見るだけでジンマシンが走るわい」とばかりに作品は完全スルーしていたし、もちろんそこから語られる言説とかを読むこともなかったのね。
しょうもない謎解き本ばっかが目についたし。死海文書がどうとか心理学がどうとか、もう、アフォか馬鹿かとって感じで。
ただ、きちんと冷静に批評している文章なら読んでみたいなぁ、とは思ったが。
前回書いたように、作品とそれを支持する層のの不気味さ、不可解さってのはあったから。
その理由が知りたいなぁーーと。

で、そんなこんなの状況で去年たまたまこの「僕の命を救ってくれなかった『エヴァ』へ」を手に取るわけですよ。

きっかけはこの本の表紙絵を飾っている丸田祥三氏。
主に鉄道廃墟を撮りつづけている彼の写真のファンであった私は図書館で彼の名前で検索を掛けてみたら偶然この本が引っかかったのね。

で、読んでみたのよ。

結論から先に言えば、この本は「エヴァ」と「エヴァ論」とその向こうにある「90年代的サブカル言説」の総まとめとして非常に濃密かつコンパクトにまとまっていて、とても面白く、タメになった。
「エヴァ」完結後で物語の全体像が完成し、またあらかたの「エヴァ論」が出揃った後の実質「エヴァ」本最後発というのが結果として良書になったんだろうな。
それぞれ適度に冷静な距離を持って語られていて、とてもみえやすい。
総論として「エヴァンゲリオン」という作品がどういう作品であったか、そして作品と現実とのリンクの中でどのように作品がブームとなり、そして、そのブームに引きずられるように作品が生生流転し、そして終わりを迎えたのか。またその後は。
それが知りたい素人には教科書的な1冊といってもいい。
わたしなんかは「なるほど80年代以後、オウム事件を経てこういうふうにに言論界の流れは変わったのか」と妙に感心してしまった。
でもってしまいにゃ「もしかしたら『エヴァンゲリオン』っていい作品なのかも」と錯覚してしまったし。

つまりは、80年代のポスト・モダン論者達はどこへ流れ着いたか、て意味で興味深い1冊であるな。と。
なるほど香山リカは「今の時代でイケているやつは援交ギャル」なんっていっていて、高度消費社会マンセーで変節もなく80年代で押しているのかぁ。
とか、「エヴァ」テレビ版最終回を指して可能性世界がうんぬんとかメタフィクションがうんぬんとか言って悦に入っている文化左翼馬鹿とかまだいるんだぁ。とか。
まぁ、色々、興味深かった。
ま、ここでうんぬんいうには私では力不足なので興味を持ったというのなら是非とも読んでいただきたいです、ハイ。

なんか話がループしかけているので次。

この本を総体でみた時の感想は以上のとおりだけど、各論者の意見で色々と思ったこともあったのでちょっとその話。

まず冒頭の切通理作氏のテキストが各話のストーリーの流れをしっかり解説しているんだけど、これが私のように細切れのエピソードだけを伝聞やたまたまテレビで流れていたので知っている程度の人もわかりやすく物語の全体像が掴めたのでよかった。
もちろん、各話の流れの中に作者自身の解釈折りこんでいるのだが、それらもオウム事件経験以後の正統派のサブカル言説って感じで、これを読めば「エヴァ論」初級編クリアっていえるほど教科書的に程よく濃密にまとまっている。
以後続く論者の言説のアクが結構強いのでこれがなかったら多分私はギブアップしていたなぁ。
この切通理作って人、全然知らんかったけど、ちょっと他にどういうこといっている人なのか、興味が湧きました。

で、以後の濃い目のエヴァ言説だが、(というか本書が今手元にないので、誰が何を書いていたのかかなりおぼろ。こんなんでいいのか俺。誰が他に書いていたのか調べようと思っても検索掛けたら俺のホムペが一番頭にくるし。誰かちゃんとまともに論じてよ。良書なんだし) 丸田氏は自己の70年代の記憶の基盤を元にした「個人的戦後史観」で攻めていて、相変わらず私の好きな文章でよかった(が「エヴァ」とあまり関係ないような気もした)。
一方、わざわざ監督庵野秀明の故郷、宇部市に訪れ庵野氏の幼少期から作品を読み解くといった作業を行った村崎百郎(記憶かなりおぼろ)氏は「著者の個人史から作品を読み解く」という文学解釈での正統的といわれている手段を意図的にパロディー化していて面白かった。
「これじゃ電波じゃん」と叫ばずにはいられない論を偽悪的に進めていて笑えた。
これは故意にだよね。(ちょっと確かめたくなる。天然かも??って感じるテイストであったから)

あともう一人女性のライターがなんか書いてたが、なんか鬱陶しかったなぁ。
内容はかなり忘れたけど、やたら「母性」に拘っていて、なんか自分の中の女性とこの人は折り合いついてないんだなぁーっ、て感じで。
フェミニズムは80年代と相変わらず、「自分」「自分」でかったるいなぁ。とおもた。
そういえば野火ノビタとかエヴァ好きだったなぁ、とかってことをふと思い出した。

で、だ。
一番びっくりしたのがPANTAよ。PANTAが寄稿していたのよ。
PANTAってPANTAよ。
頭脳警察のPANTAよ。
なぜか橋本治とお友達で岩崎良美の「vacance」の作曲者でもあるPANTAよ。
え???
頭脳警察知らない???。
こういう歌を72年発売(予定だっがカッティング中に発禁決定)のファーストアルバムのいっちゃん冒頭にこんなの歌っています。(歌か??)

ブルジョアジー諸君!我々は君たちを世界中で革命戦争の場に叩き込んで一掃するために、
ここに公然と宣戦を布告するものである。

君たちの歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。君たちの歴史は血塗られた歴史である。
君たち同士の間での世界的強盗戦争のために、我々の仲間をだまして動員し、
互いに殺し合わせ、あげくの果ては、がっぽりともうけているのだ。

我々はもう、そそのかされ、だまされはしない。
君たちにベトナムの仲間を好き勝手に殺す権利があるのなら、
我々にも君たちを好き勝手に殺す権利がある。
君たちにブラック・パンサーの同志を殺害しゲットーを戦車で押しつぶす権利があるのなら、
我々にも、ニクソン、佐藤、キッシンジャ―、ドゴールを殺し、ペンタゴン、防衛庁、警視庁、
君たちの家々を 爆弾で爆破する権利がある。
君たちに、沖縄の同志を銃剣で突き刺す権利があるのなら、
我々にも君たちを銃剣で突き刺す権利がある。
  
君たちの時代は終りなのだ。
我々は地球上から階級戦争をなくすための最後の戦争のために、
即ち世界革命戦争の勝利のために、 君たちをこの世から抹殺するために、最後まで戦い抜く。
我々は、自衛隊、機動隊、米軍諸君に、公然と銃をむける。
君たちは殺されるのがいやなら、その銃を後ろに向けたまえ!
君たちをそそのかし、後ろであやつっているブルジョアジーに向けて。
我々、世界プロレタリアートの解放の事業を邪魔する奴は、
誰でも容赦なく革命戦争の真ただ中で抹殺するだろう。

世界革命戦争宣言をここに発する。

(世界革命戦争宣言)


ガクガクブルブル。
怖いよーー。極左だよーー。
他にもタイトルだけでも「赤軍兵士の歌」「銃をとれ」「戦争しか知らない子供達」「指名手配された犯人は殺人許可証を持っていた 」「あなたの心の中に黒く色どられていない処があったらすぐに電話をして下さい」……。
素人にはオススメできない。
「歌う赤軍派」と呼ばれ、かの日劇ウエスタンカーニバルの舞台でオナニーしたそんな頭脳警察のPANTAよ。

で、だ。
そんなPANTAどう「エヴァ」を見ていたかというと、何ッ回も映像を見まくってここの場面はどういう意味だ、とか、ここのこれはなんだとか、この一瞬だけ映るこれは一体なんの符号だ、とか ここの伏線はこうつながるのでは、とか(このへん本文から引用したいがその本が手元にない)いわゆる一山いくらのダメなマニアと同じウワーーーンな見方をしているのよ。
でもって、「エヴァンゲリオン」の背後にある種の神話体系にも似た謎の「大きな物語」を手前で作り上げちゃったりしているのよ。
ううっ、勘弁してよぉ。
これだけは、これだけはやってほしくなかった。
「エヴァ」が「アニメ界の新興宗教」と呼ばれたその一番の部分に引っかかっちゃったのよね、彼ってば。
あーーー、これじゃ、ダメ左翼だよぉ。
と、私はここに学生運動のなれの果てを見たわけである。
(なんだそりゃ)
あ、そうそうこの文を見ていて、PANTAのアルバム『クリスタル・ナハト』をふと思い出した。
ちなみにタイトルの『クリスタル・ナハト』ってのは1938年11月9日のナチスドイツの巧妙な宣伝による策略と扇動により、ベルリン西部で発生したユダヤ人大量虐殺・略奪事件のことね。
日本における「南京大虐殺」「関東大震災・朝鮮人虐殺」的な位置としてヨーロッパでは扱われるらしい、よくしらんが。
なんか、このPANTAのテキストは『クリスタル・ナハト』で提示した「人類史全体の戦争、支配、虐殺の歴史」とパラレルのような気がする。
PANTAファンの人は「エヴァ」から見たPANTA論をやるべき。

と、そんなPANTA的な読者を一刀両断にぶった切っていたのが宮崎哲弥氏。
宮崎氏は前々から「朝まで生テレビ」とかで見ていて、
「なんか、この人のいうことって好きゃわーー。でもしゃべり方が忙しなくまくし立てるようで攻撃的なくせに見た目がとっちゃん坊やだから、雰囲気でこの人の意見に同意しづらい感じが出ていて損してるなーー。でもキャラ立ち出来ているから田原的には使いやすそうだろうなぁ」
などと思っていたが、まともに彼の書いたものを読んでなかったのね。
で、はじめて彼の文章を読んだのだが、やっぱりこの人のいっていることって自分的には「正論」だなぁ、と改めて感心した。
「オウム」から「酒鬼薔薇」までからめて「エヴァ」と「エヴァ」にシンクロしてしまった人々を論じていてるが、見た目キャッチが強くコンテンポラリーなノリなのだが実質、骨太。
長くなるけどちょっと引用。

俺達の世代以降の「新しい日本人」は、本来自分を支えるべき小さな物語、共同性を確保できなくなっている。
それは自己を取り巻く環境の変化と共に見事に生成変化を遂げる自己をその都度再解釈するための基盤のようなものだ。
ところが個体間の直接接触を極端に忌避するようになってしまった世代においては、ヴァーチャルな観念世界は様々な情報メディアを通じて無辺に広がっていっても、自我の在所を端的に示す小さな物語、共同体を形成することは困難になるばかりだ(「1次的接触を極端に避けるね、君は。怖いのかい?人と触れ合うのが。他人を知らなければ裏切られることも、互いに傷つくこともない。でも淋しさを忘れることもないよ」『エヴァ』第24話より)。
その結果、身の回りの環境に即して、自然と変貌を遂げていく自己を解釈しなおすことも、環境や関係そのものを自らの手で変革すべく積極的に働きかける「主体性」をも見失ってしまっている。
こうして世界=他者たちと自分との間に鋭い疎隔が発生する(『エヴァ』の基本設定の1つであるA.Tフィールド=心の壁)。

……(中略)……

この疎隔感は反射として、自我のうちに、いつまでも、どこまでも、どんなことがあっても変わらぬ、汚されぬ、「イノセントな本来の自己性」という観念を胚胎させる。
しかし、それは虚偽の観念だ。

……(中略)……

現世における自分の虚像と「真の自己」を峻別した上で後者の真性に立て篭もり、前者を偽りとして疎外する。
現実の肉体や官能や欲動を遮蔽し、無垢なる魂を守り抜こうとする観念の虚偽。
あげく「新しい日本人」の少なからぬ部分が真性の自己を支える巨大な物語ーー自我を希求して、全ての自我他我を破壊し(「だからみんな死んじゃえばいいのに」『エヴァ』完結編のコピー)、自他未分化の「一者」に帰することを望み始めている。(「出来そこないの群体」から「完全な単体」へーー「人類補完計画の真の意味」)

……(中略)……

個人主義は全体主義の台頭を防遏出来ない。むしろ全体主義への衝動は、在所なき自我の不安と不満によって生起するといっていい。
今全体主義への欲望が、この国のいたるところに浸潤してきている。
(ふーーー、引用長ッ)

でもって、その日本全体に薄く広がりつつある「全体性」への志向として宮崎氏はオウム真理教事件や「脳内革命」騒動、宮沢賢治リバイバル、船井幸雄、天外伺朗、鳥山敏子などを例に挙げて論じている。
(関係ないが、「酒鬼薔薇」事件直後、大学の授業で斉藤孝氏(この名前を出したら自分がどこの大学出身だかまるわかりだなぁーーー)が「これはコミュニティーの敗北だ」に類する発言で嘆いていて当時の私はピンとこなかったのだが、今なら斎藤氏のいうことがわかる、というか上に書いていたようなことがいいたかったのね……。)

また、こうしたオウム事件以降クローズアップされた「新しい日本人」像がまさしく純正の近代的自我の病理であり、大衆レベルでの「心の近代化」を示すメルクマールだと看破しています。

もう、これ以上ないくらいスパッした切り口でしょ??
私は常々ああいったものに群がる者たちの佇まいに対するある種の共感(そう、気持ちとして、どっか、わかるのよぉーーー。気持ちとして、ね。たとえば今話題の「ぐるぐる教」の人達だって、さ。なんかこんな世の中だし、ああいったものにでも走りたくなるよなぁーーみたいな???)、「でも、それを本気でやっちゃあイケねーーーよ」的な気分がぐるぐると私の中にあって、ただ、それがうまく言語化できなかっんだけど、それが見事に論理として文章化して胸のすくよな気持ちです。

でこのあと宮崎氏は処方箋としてD.Hロレンスの「現代人は愛しうるか」を引用しています。ここでまた孫引きもなんだから、まぁ、読んでくださいよ。

私は何も言葉を挟むことは出来ません。
いやあ、ファンよ。宮崎先生。
読んでみるよ。他の著書も。

で、この本を読んだ感想としては、つまりは宮崎哲弥マンセーーーッてことなのか???
そうなのか???(と自分に問いかける)
なんかいい加減長文なので締めたいが締めの言葉がだるくなってきて思いつかんわい。

そうそう、最後にちょっと一言。
この「僕の命を救ってくれなかった『エヴァ』へ」ってタイトルは秀逸。
『エヴァ』にシンクロしてしまったファンはラストを見た後、こう思ったのではないかなあ。
荒涼たるL.C.L.の海の浜に打ち上げられたシンジとアスカ。つまりはアダムとイブになった二人がしかし、シンジが唐突にアスカの首を泣きながら絞め、アスカは「気持ち悪い」という言葉を吐き捨て終わっては、救いを求めて群がったファンとしては「僕の命を救ってくれなかった『エヴァ』」といいたくなるだろう。
シンジを最後の最後で宮崎勤にさせちゃうんだもんなーー。
救いなさすぎ。
(しかもそれが、作品の落とし前のつけ方として『正解』なんだからタチが悪すぎる)


2003.05.07


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