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得意不得意

〜地図は読めるが英語はしゃべれず……〜



例えば大きな日本地図を広げて「○○市って何処ある?」といわれて100%近い確率でその場所をズハリと指し示す自信がわたしにはある。 首都圏大阪圏のベットタウンなどの存在感の希薄な都市でもはっきり場所を当てることができる。 町村になると怪しくなるが、幹線クラスの国道や鉄道の分岐点であったり、空港があったりと交通の要所となっている(いた)ところや、周辺の地域の中心的な街であればこちらも相当高い確率でわかる。米原とか、音威子府とか、女満別とか、中標津とか、静内とか、小淵沢とか、小郡とか、このレベルになると全く問題ない。

なので「島根と鳥取ってどっちが大阪より?」などという質問には、吐き捨てるように「鳥取」といいたい。いわないけれども。
「東から鳥取、倉吉、米子までが鳥取県、松江から出雲、浜田、益田までが島根県。萩、長門は山口県だぁ」ともう所在を含めて即答なのである。
同じく「酒田って、秋田県?」に「山形県」と、「取手って、千葉県?」にも「茨城県」と、「鳥栖って、福岡県?」に「佐賀県」と、「清瀬って、埼玉県?」に「東京都」と、勘違いしやすい場所も即答なのである。息つくヒマがないのである。

しかも、それにこの街からこの街へ行くにはどの交通機関を使えば1番簡便か、ということも大体わかる。新幹線・特急・高速バス・高速船・飛行機あらゆるパターンで、ここならこれ、というのを大抵教えることができる。
自家用車での移動なら国道や高速道路の道順。どこのインターで乗ってここのジャンクションで○○道に乗り換えこのインターで降りてあとは国道何号を東に、とか、おおよそ指し示すことができる。 つまり、わたしの頭の中には、そこそこ緻密な日本広域地図とおおまかな時刻表がインストールされている状態なのだ。

しかも、移動している時は、無意識に目に映る情報を常に脳内の二次元の地図に置き換え「今私はココにいる」と自分の所在地が、さながら地図上に赤ランプが明滅しているかのごとく明確にわかる。(―――つまり私の脳は簡易GPS機能もインストールされているのだ)。
なので、自慢じゃないが「道に迷う」ということが私は全くない。
常にどんな場所でも東西南北のだいたいはわかる。地図見ても自分の場所がわかんない、なんていうのはもうまったく考えられない。
「鳥取と島根ってどっちが東側?」なんて質問なんてもうありえない、異次元の世界。オロナミンセーキぐらいにありえない。

と、今日も自慢モードの様相を呈してきたが、これは私が幼時に時刻表や日本地図をくびっぴきに見ていたことがいまだ生きているというだけであって、別にこれが普通だなんて思わない。思いませんとも。
人には得手不得手というものがあって、自分にとっては当たり前のものが、人には困難だったりという、そういうものだ。私はたまたま地図に異様に強かった、という。 多分よく道に迷ってしまう人、「新潟って、東北地方だよね」という人にとっては私みたいな人種はおおよそ理解不能なのだろう。


地図が読めない人が私を理解不能なのと同じように、私にとって理解不能な人というのが、もちろんいる。
その最たるものが「ずっと日本で生活しているのに英語がぺらぺらな人」。
もう、どうしてそんなに頭ん中が英語になれるのか、全然わからない。
だいたい私は、ひとまず文系なのに英語が全く読めないし、しゃべれない。もう致命的にしゃべれない。どれくらいのレベルかというと、「ホリエモンの英語のスピーチ」レベル。せいぜいいって中3くらい。
なんでこれでひとまず大学受験をパスしたのか、不思議なほどできない(――というか受験にあたっても英語の配点が重くないところを選んだりした)し、 それに大学では「もう英語はうんざり」と英語の授業をとらなかった――うちの学科は他の外国語を2つ受講すれば英語は受講しなくてすむシステムだったのだ。

私の英語力は、発せられた英語を文法に則って細切れにして日本語に変換して解読し、それに対応する言葉を日本語で考え、それを英語に変換して、相手に言葉を返す、という「受験英語」がうんだ典型的ダメ英語力なのだ。
「英語をしゃべる時は、日本語で考えないで、英語で考えろ」これがもう、決定的にできない。わかっちゃいるけれども、できない。かなづちの人がむやみやたら手足をバタバタさせて溺れるのと同じように、そうしようとすればするほど、頭の中で英語と日本語がちゃんぽんになって、何いえばいいのか皆目わからなくなる。
でもって、最後に出るが
「なんで日本人なのに、他の国の言葉習わなくちゃならねぇんだよぅ」
「日本はアメリカの植民地か?」
「日本人は日本語ちゃんと使えればそれでいいんだよ」
逆ギレである。


じゃあ翻って日本語が得意なのか、自分は日本語を十全に扱えているのか、となると、これがなかなか悩ましい。 こういっちゃなんだが、私は日本文学専攻だったのにもかかわらず、実はあんまり古文が得意ではない。

…………。

……って、あぁいっちゃったぁ。いっちゃったなぁ。

や、受験古文くらいの知識はなんとかあるのよ。
が、もうね、これが「日本文学」という専門分野のレベルでってなるとからっきし、どべ。
変体仮名どっさりの江戸時代に書かれた文書をコピーしたものとかをテキストに使って授業とかいわれてもできませんって。 訓点全く無しの白文の漢文とかいきなり出されてそのまますんなり現代語訳とかできませんって。

ともあれ、空気のように英語を理解することができないのと同じように、古文もまた空気のようには理解できないのよ。訳することはできても、かなりおっかなびっくり。多分この訳で正解だ、よ、ね、と相手の顔色をうかがって黒目をきょろきょろさせている状態。おおよそ自信がない。

そんな時、すらすらと英語がしゃべれる人、原典に近い書で古典作品をさっくり理解できる人なんか見ると、憧れとともに「こいつホントに現代人か、日本人か」などと思ってしまう。
何事も自分基本で、自分のできることは誰でもできると思い、自分のできないことがすらすらできるものは化け物呼ばわり、という了見の狭い人の典型のような私なのであった。


2005.03.10
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