個人的な趣味の勉強なのだが、どこかに書き残しておかないとすぐに忘れてしまうので、メモ書きとして残しておくことにする。 ここに書いてあることはあくまで私観であり、かつ、学習途中に思い立った印象や感想や妄想なので、もし誤解や間違いなどあるのなら、是非とも指導鞭撻を願いたいところなので、メールしていただけたらと思っている。 つまり、この文章はにちゃんねるでいうところの「釣り」である。 「能楽の成立について」 世阿弥の師匠であり、父である観阿弥。彼は、現代風のリズムとメロディーを持った曲舞を導入し、強い物語性をもつ大和申楽に新たな息吹を吹きこみ大ヒット、大衆の圧倒的な支持を得る。 ただし表現が直截的で時々の大衆の時流に阿ったような部分が強く、作品の完成度は高くはない。ゆえに飽きが来やすく作品の寿命が短い。 時が過ぎれば霧散していくような作品が多い。つまり、大衆の機を読むのにすぐれるがゆえにそれより上にいけないヒットメ―カータイプ。現代でいうなら秋元康、筒美京平、小室哲哉タイプといっていいだろう。 一方の近江申楽の雄が犬王、後の道阿弥である。 彼は高踏的芸術的な幽玄能を得意とするが、あまりにも高度過ぎる世界は見る者を選ぶところがある。 間口の狭い独自で孤高の世界。一般性を得る事が難しく、さらにメソッドの確立していない芸ゆえに、後にその世界を継ぐ者も生まれない。 作品のクオリティーは高く、作品の寿命は長いが、ともあれ、それは「犬王」でなければ表現できない自己完結した世界。彼がこの世を去った時点で作品もまた失われていく。 今でいうならば「谷山浩子・浅川マキタイプ」のアーティストといえるだろう。ワンアンドオンリーで大衆による多くの支持をえることはないが、一部の熱狂的なファンによって支持される。しかし、彼の作品は袋小路である。 観阿弥の大衆性、犬王の芸術性を止揚し、脚本の完成度を高め、演者養成のメソッドを確立したところにあるのが、世阿弥の能楽の世界といえる。 そのゆるぎない完成度ゆえに彼は能楽の大成者であり、彼の残したメソッドは生きているわけである。 「花伝書について」 別名「風姿花伝」である。「風の姿をした花を伝える」書である。いいタイトルだな、と思う。 今でも輝いている芸能人のことを「花がある」というように、芸事において上手な者の佇まいから漂うなんともいいようのない香気、それは「花」としかいいようがなく、そしてそれは「風の姿をした決して見えない花」である。 そしてその「花」はなんとなくの偶然や生得的なものによってうまれるものではなく、きちんとした方法論に則った修練によって生み出しうるものである、ということである。 なるほど、と思い、また身が引き締まる。数百年前の芸人の血の努力によって導き出した答えとそれを後世まで伝えんとする思い、芸に生きるものの情念をそこに感じるからだ。 そして、人より少し綺麗なだけで、少しばかり個性的だったり、話のとっさの受け答えが上手いだけで芸能者として認められる、今の堕落した芸能界―――というかテレビ業界のうすら甘さを苦々しく思わざるを得ない。 世阿弥の残した最も有名な書としてこの書は有名であるが、観阿弥が世阿弥に口述し、伝授した芸術論を後年世阿弥が編纂、著述した書であり、花伝書に書かれているのはあくまで「観阿弥の芸術論」であるということを知る人は少ない。 世阿弥は観阿弥の申楽の世界を乗り越え、その上に自らの世界を構築する足ががりとして、観阿弥の持論と自ら体得した持論とを峻別するべく花伝書は書かれたのではないだろうか。 花伝書の執筆は世阿弥が何歳の時のことなのだろうか。 正確な年月はわからないが、観阿弥死後、足利義満から世阿弥の称号をいただく前後というから30代後半だろう。「花伝書」でいえば真の芸能者であれば「まことの花」を体得して後の時期である。 花伝書は世界に類を見ないすぐれた古典芸能書であるが、秘伝の書であり、明治42年にはじめて識者に紹介されるまで、長い間世に知られずにいたという。 花伝書は中世の美意識を集成したような書であり、日本の美意識のこれまでとこれからをその芸術論から解読することが可能であるので、わたしは後の文芸・美術・芸能にはじまり思想・哲学に到るまで深くこの書が影響を及ぼしていただろうとてっきり思いこんでいたが、そうではなかったわけである。 秘中の秘として多くの人に知られることなく静かに眠り続けていたわけである。それはとても興味深い事実に感じた。 「まさしく秘すれば花」といったところだろうか。 それにしても大学時代に中世文学をもっとしっかり勉強しておけばよかったと思うことしきり。この時代ってなんか抹香臭いんだよなぁと思い、忌避していた当時のわたしはただひたすらに青臭かった。 |