及川光博の2003年ツアー「うたかた。」、4月18日の愛知県芸術劇場でのステージを完全収録したライブDVD。 ミッチーのことわりと好きなんだけれども、どうもファンになりきれなかった私だったのですが、なんでのめり込めないのか、このライブDVDを見てやっとわかった。 このDVD、なんと副音声があって、及川光博自身の解説が聞けるのだけれども、これが面白い。 面白いんだけれども、面白くちゃ、ダメだろ。アーティストとして。 ◆ この解説、ミッチーと一緒にDVDを見ている感覚が楽めるんだけれども、 ほんと、まったりとお笑い番組見ながらゆるめにツッコミ入れている感じというか、 ひっじょうに映像に対して、視聴者視点。醒めていて、自分を客観視しているのね。 自分のアップの顔に「あら綺麗」なんて他人事のようにいっちゃう。 「愛を知っているぜ」なんて、あっついシャウトに「つまり、愛知ですね」なんてっつっこんじゃう。 「これでテレビオンエアもオッケー」 「いいちこかよ」 「それは一体なんなの、スティーブ」 「槇原敬之さんです」 「これかなりエクスタシー感じてます」 「何歳までこういう衣装着るのだろうか、僕」 「30代、何も恥ずかしいことはない」 「うん、わかるけど、前髪が変だな」 「痛快ラブコメロックだね」 「矢沢なら、タオル投げるくらいに」 とか、ジャストなつっこみが心地よく、って、だから、それってどうなのよ。 自分を他者として見る、自分のキャラクターを把握する、っていうのは、過ぎると歌手として仇になるんじゃないかなぁ、と私は思う。 歌手ってのは、自己陶酔してなんぼだもの。 歌手にも一定の客観視っていうのは、表現のレベル向上のためもちろん必要だけれども、それはあくまで「よりよく自己陶酔するため」であって、お客様に楽しんでいただくため、じゃないんじゃないかな。 それを、歌っている自分を「ほら、芝居してるし」なんていっちゃうミッチー、どうなん ? ◆ そもそもミッチー、昔っから今に至るまでキャラをインストールしすぎなんだよね。 初期の「王子様」キャラとか、流星光一郎とか花椿蘭丸とかさ、みんなそうじゃん。演じすぎ。 本質的に、彼は歌手ではなく、役者なんだと思う。 結局ミッチーの楽しみ方っていうのは、舞台の上の役者の芝居を見る感覚に近いと思う。 「スーパースター・ミッチー」という芝居を演じる及川光博。 それが芝居だと知りつつも、いやむしろ芝居だとわかっているからこそ安心して楽しんでしまう観客。 一幕の虚構を虚構だとお互い了承済みで、醒めながらノる。 メタフィクショナルな共犯関係でこのライブは成り立っているんだなぁと、私は感じた( そういった点では、実に90年代末期的な歌手という感じはある )。 何千人のベイベーたちを小手先で翻弄する小悪魔ミッチー。 でも本当は、お金を払ってわざわざ来てくれたお客様に楽しんでいただくためにいつも一生懸命な、努力家で誠実な道化師ミッチーなのだ。 ◆ それが悪いとは全然思わない。 ただぶっちゃけていえば、ミッチーを見て、 ミッチーが会社の上司だったら、仕事しやすいだろうなぁとか、 ミッチーが飲み会の幹事だったら盛り上がるだろうなぁとか、 そうは思うのね。 きっと空気が読めて、フォロー上手で、楽しませ上手だろうな、なんて。 でも、そういう人を舞台の上に立たせて、自分が客席側に座っていつまでもうっとりしていたいか、と言うと微妙なのだ。 身近にいて嬉しい人と、遠くで眺めて嬉しい人ってのは、もうこれは全然違うのだ。 不遜で傲慢で人間性最悪のダメ人間で、自分しかみていない自分しか愛さない、けれどもマイクの前に立つと圧倒的で神々しく、もう平伏すしかない、 そういう人が本当の歌手だと、私は思う。 サービス精神いっぱいで、目の前のお客様に楽しんでいただく、それ"だけ"では、歌はダメなのだ。 彼の歌は楽しめるけれども、しかし彼の歌では、狂えない。 歌手としてブレイクしきない、しかし一方、役者としては脇でいい仕事を重ねている及川光博、それにはそれなりの理由があったのだな。 秘すれば、花。 虚構の裏側は見せるものではない。 ――しかしそれをあえて見せてしまう、そこに彼の誠実さが見て取れるわけで、ううむ、どうしたらいいものか。 |