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尾鮭あさみ「トラブル・フィッシュ」

デビュー作に思う変節


(1992.12.03/角川書店)


懐かしいなあ―――、とこの本を手に取り、ふと思い出したことがあったので、そのことをば。

やおい小説読み全開の時期、榊原史保美、江森備と共に私のフェイバリット作家の一人が彼女、尾鮭あさみ、別名サーモンであった。
が、実は今、私は尾鮭あさみを読んではいない。
彼女が榊原嬢のように(よくいるやおい作家のように)、いつのまにか小説をものすことがなくなったというわけではない。
年1、2作と定期的に新作は出ている。が、それを手にすることができないのだ。
数年前から、私の感性とちょっとずれてしまったよなぁー―ーという気分がして、これ以上読んで悪い印象を持つのもばかばかしいし、過去の記憶を美しいままにしたいという思いもあるので、手に取ることができないでいるのだ。

そんな私が、中島梓主催の「小説道場」ではじめて取り上げられ、JUNE誌に掲載され、彼女の実質デビュー作となった「トラブル・フィッシュ」を読み直し、ああ、そういうことか、と思うところが2、3あった。

この「トラブル・フィッシュ」から始まる一連のシリーズは、「現実適応能力に乏しい、ひ弱で内向的でクラい半妖の少年、水並潮の社会適応の物語」といって差し支えないであろう。
人に怯え、己れの存在という不条理に常に打ち据えられつつも生き長らえていた彼が、恋人月岡俊の出現によって少しずつ前向きになり、生きるために大切なものや生きる術を知り、自分なりに成長していく。
と、このあらすじを一見するだけでは、別になんとも普通の物語なのである、主人公が「半妖」であるということを除けば。

彼女の初期の物語群でなによりも面白いと感じるのは、化け物とかが平気で出てくる切ったはったの大騒動のハイテンションのファンタジーの世界とセンシティブな自己受容の物語が混在しているところなのだ。
これは同時期の「チャイナホリック・ファンタジー」シリーズでも黒魔術バリバリの能天気現代ファンタジーだけれど、二人の恋の行く末が物語のの中心なダダカズシリーズでもそうだ。
―――あ、今思ったけれど、もしかしてダダカズシリーズってもしかして高橋留美子的かも、うる星とか、らんまとか、スラプスティック現代ファンタジーだけれどラブコメ、素直になれない主人公2人がくっつくまでの物語って、これ高橋留美子じゃん。
はちゃはちゃに大暴れしておきながら、なんだがとっても繊細で優しい横顔をキャラクター達は時折不意に見せる。そこにやられるわけである。
どんなドタバタをしていていも、いつだって主人公達は本当は切なく揺れて、愛に怯えているのである。
つまり、逆算すると、はちゃはちゃは照れ隠しのはちゅはちゃ、といえよう。
そんな不器用で可愛らしい、だけれどもゆえに、激しく無鉄砲な愛が、サーモンの描く愛なのである。

が、作家として作品を重ね、世間から認められ、尾鮭自身が自己を受容しきり、解放されたと同時に、その肝であった「愛に怯えるセンシティブな人たちの物語」というのが彼女は書けなくなった(ように私には映った)。
ゆえに近頃の作品は形骸化したスタイルと筆のノリに任せたレベルの低い自己模倣の作品に私の目には映るのである。
言葉運びやレトリックなど、近年の作品を見ると、狙いなのかわからないが、「雑だなぁ」と感じることが多い。
それに、この時期の作品に感じられる、優しさ、しっとりとこちらに沁みるようなところがなくなっているように感じる。
ゆえに、なんか、妙に刺激的なだけで、とげとげしく感じるのだ。
とはいえ、これも、やおい小説というのが、エンターテイメントというよりも、作者の自己救済ための物語である、ということの証左のような気がする。
結局自分が救われたら書く意味というのはなくなるのかもしれない。例え書いたとしても、そこに到るまでに書いた作品を越えることは出来ない。
ならば、榊原史保美や石原郁子のように、筆を折ることが一番懸命なのであろう。
こうした様々な作家の様々な変節を見るにつけ、やおいはジャンルとしての役割はもう終えたのかもしれない、という気持ちが私の中で強くなるのである。

と、今の作品に対してぐだぐだ文句を言っても、この作品の主人公、シオくんの激プリさはエバーグリーンなのである。
ほんっっとうに、ゲッゲッ、激プリでごわすっっ。
いやぁーー、これで飯3杯は食えるっつう可愛さっぷりは初読の印象となんら変わりませんでしたよ。ほんと。
いがった。この萌えだけで俺は生きていける、そんな確信すら漲る、パーフェクトな受けっぷりでした。はい。


2004.03.10


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