80年の「灰色の季節」を最後にしばらく、加藤登紀子は、ヒットといえる楽曲を生み出すことがなくなる。そこから、加藤登紀子の彷徨がはじまる。 まだ70年代当時は、自作自演する歌手=フォーク歌手、という単純なイメージであった。また加藤登紀子自身も、中島みゆき、河島英五、長谷川きよし、みなみらんぼうなど、フォーク色の濃いアーティストと積極的にコラボレートしていたこともあったろう。「ひとり寝の子守唄」以来、自ら作詞作曲するスタイルを構築した70年代の加藤登紀子は、「フォークシンガー」というパブリックイメージを得ていた。しかし、日本のフォークは、80年を境に、一時、退潮する。 テクノ・ニューウェーブブームの到来。 シンセサイザーを多用した無機質なコンピューターサウンドは、日本のポップシーンにも一気に敷衍していった。 そのとき、アンプラグドなサウンドを自らの音楽としていたフォークシンガーの多くは、オールドタイマーの烙印を押され、岐路に立たされることになる。 あるものは積極的に自らの音楽を改変し――自らの世界を広げ成功したものも、アイデンティティーを失い失敗したものも、いる。 あるものは頑固に今まで築きあげたものに固執し――それゆえに時代に取り残され消えていったものも、むしろブランド力を高め、名を残したものも、いる。 加藤登紀子もまた、その岐路に立たされた。 そして彼女は、積極的に自らの音楽を改変するベクトルへと、すすんだ。 もともとが、シャンソンを歌いデビューのきっかけを掴み、デビューした曲は歌謡曲、その後ロシア民謡や古い抒情歌で名声をあげ、プロテストソングから自作自演のフォークへとたどり着いた加藤登紀子なのだからして、時代の潮流にあわせて、自分のスタイルを融通無碍に変化するのは、得意のことだったのだろう。 彼女は、今の時代につたわる「歌」が歌えればそれでいい。大切なのは表面的なスタイルではなくメッセージ、そういう歌手だ。 加藤登紀子は、実験的なサウンドアプローチをしめしたアルバムを連打する。 「加藤登紀子のニューウェーブ時代」の到来――。 彼女は、アルバム1枚ごとに、そのサウンドを劇的に変化させていく。 まず彼女は、82年に、テクノポップの雄、YMOの坂本龍一とのアルバムを制作する。1920〜30年代、舞台、映画などで披露されたヨーロッパの音楽をカバーした『愛はすべてを赦す』。 「戦場のメリークリスマス」以前の坂本龍一を起用して、あえて打ち込みサウンド主体ではなく、彼のエキセントリックな生ピアノ――ほとんど現代音楽といって過言でないそれと対峙するようなアルバムを作ったというのは、卓見としか言いようがない。「戦メリ」をはじめ、「ラストエンペラー」「リトルブッダ」など、坂本の映画音楽の原点のひとつが、この『愛はすべてを赦す』である。 さらに83年には、前作の坂本龍一に加えて、ゲルニカの上野耕路が音楽監督に加わった『夢の人魚』を発表する。こちらは、1920〜30年代の日本の流行歌のカバーアルバムである。これはゲルニカのアルバムと姉妹といっていい作品だ。大正モダニズム期の日本の、西洋と東洋が混沌と調和している不可思議な雰囲気が漂っている。 『愛はすべてを赦す』『夢の人魚』の2作で、加藤登紀子は、1920年代の洋の東西の歌謡を、ニューウェーブ的に解釈、再現したといっていい。 さらに――。 久しぶりにすべて加藤登紀子オリジナルの楽曲で埋めつくされた84年発表の『最後のダンスパーティー』では、鈴木慶一を除くムーンライダース(――彼らも当時の日本のテクノ・ニューウェーブシーンに欠かせないグループだった)のすべてのメンバーが、編曲と演奏に全面参加。実験的なサウンド構築は、このアルバムでひとつの頂点を極める。 このアルバムは、「難破船」「幻想」など、壮麗なオーケストレーションが美しい楽曲や、「ない・もの・ねだり」「パリデロ」など、ヨーロッパのジプシーのようなアレンジメントが光る楽曲など、加藤登紀子としっくり馴染むサウンドを配する一方、「イマジネーション」「あいつは私のヒーロー」「狂った季節」など、サウンドと歌との齟齬が激しいものも、また目立っている。加藤登紀子のアルバムの中で、もっとも破綻にみちた、混沌とした、それゆえに魅力的なアルバム、といえる。 続けて86年には、サントリーオールドのCF楽曲や、加藤和彦『VENEZIA』、アルバム『鞄を持った男』などでしられるマーク・ゴールデンバーグをサウンドプロデューサーに迎えた『エスニックダンス 〜ゆらめく異邦人〜』を発表する。このアルバムは、打ち込みメインのキラキラしいサウンドワークが印象的だ。 それまで加藤登紀子は、坂本龍一や上野耕路、ムーンライダースの面々を従えて実験的なアプローチを試みても、どこかサウンドにアコースティックな響きを保つ作品を作っていた――そういった指示がおそらくあったのだろう。しかしこのアルバムでは、「シンセ」そのもの、というサウンドアプローチをはじめて行っている。結果、非常にポップで、洋楽志向のアルバムとなった。 87年『My Story 〜時には昔の話を〜』は、それまで数作つづいた、サウンドプロデューサーを立てた上でのアルバム制作から離れて、さまざまなアレンジャーとともに制作した幕の内式の作品となった。それが偶然の産物か、ニューウェーブ時代の加藤登紀子の総括、といった響きになっている。 山本健司アレンジの疾走ロック「太陽が踊っている」。マーク・ゴールデンバーグのシンプルなキーボードの音が美しい「最後の手紙」。吉田建の打ち込みサウンドによるネオ・シャンソンといった佇まいの「歌いつづけて」「夢と知りせば」「女心」はロマンチックかつ、少し不条理なサウンドワークがいい。 ――しかし、これら、新しいサウンドプロダクションにはじかれてしまった歌も、このアルバムには、あった。後の代表曲となった「時には昔の話を」「百万本のバラ」。この2曲が、このアルバムで初収録となったが、そこでのアレンジは、この名曲を支えるにたるものでは、決してなかった。 もっと、シンプルで、有機的なサウンドへ――。このアルバムを契機に、振子の振幅のように、加藤登紀子は、かつての世界へとふたたびハンドルを切る。とはいえそれはもちろんただの「かつての再現」ではない。 88年発表『TOKIKO 〜愛さずにはいられない〜』、89年発表『エロティシ 〜謎〜』。船山基紀、萩田光雄といったヒットアレンジャーを迎えたアルバムを彼女は制作する。この2枚のアルバムは、シンセによる打ち込みサウンドを多用しながらも、生音も積極的に多用し、耳に残る印象は非常に柔らかだ。以前のような、斬新なサウンドアプローチは、影もない。デジタルなのにアナログ的な温もりが、ここにはある。 いわば、相反する「70年代の加藤登紀子」と「80年代の加藤登紀子」という、ふたつが止揚したサウンドとなった。 彼女のサウンドを巡る80年代の彷徨は、ここで一定の結末を迎える。 今回は、サウンドの面から80年代の加藤登紀子を掘り下げてみたが、次回は、詞作の面から、80年代の加藤登紀子の歴史とその魅力を掘り下げてみたい。 ――というか、ほんとうは、次回が本番、一番わたしが書きたいことなのだ。なので、後編にご期待。 (初出 「Seeds net vol.20」2006夏号) |