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歌を詠む


ある日、突然わかるときがある。
それまで大してよくわからないものどもが不意に「腑に落ちる」というか、体でわかるときがある。
それはそれまで嫌いだったはずの食べ物を気紛れで食べてみて、その妙味が突然わかるような、そんな感じに似ている。

ある日、私は気持ちが沈んでいた。
何をしても落ちつかない。どんなものも色褪せて見える。何もしたくない。
なにか特別な理由があるわけではない。ただ、どうしようもなく気鬱だったのだ。
テレビも本も今はいらない。誰とも話したくないし、なにもいいたくない。

そんな時、ふと、筆すさびで歌を詠んでみた。
いわゆる「短歌」である。

ひとつ、ポツリと歌を落とす。
と、続けざま歌が生まれた。
不思議なものである。歌を詠むとまるで殺風景な部屋に1輪だけ季節の花を生けたような、そんな少しだけ華やいだ心になるのである。
思いつくまま、十数首をあげ、ふと自分の心を覗くと、すさんだ気持ちが綺麗になくなっていた。

いままで、俳句だとか短歌だとかそういった詩歌に対してこれといった興味も、学もなく、あんなもののどこがいいのだろうね、と知ったような顔をして小馬鹿にしていたのだが、なるほど、実際詠んでみるとこれはこれでありだな。と。
その時突然その魅力に気づいたのである。

和歌というのは気紛れに描く落書きや短い手紙のようなものと似ているのかもしれない。
肩の力を抜いて、気持ちの空いた時に、なにも考えずふらりと創る。
そして、良いとか悪いとか、上手いとか下手というのは、この時あまり関係ないのだ。
なぜならこれは自分へ宛てた手紙のようなものだからだ。

ちなみに、その時の歌を数首。

行き暮れて 帰るあてなし罪人の 瞳に映る 家のともし火


孤愁の果て 色をなくした瞳の裏に 何を映すか 秋の野分よ


筆すさび 婀娜な言葉を 綴りしも わが憂愁は いやますばかり


枯井戸を 覗きこむ 年老いた詩人 幻の水に 濁った眼を見る


年月を 重ねて失う 未来予想図 今更何を 夢見てと笑う



今生の 別れとなりし 「さようなら」 明日また出会う 心地ぞするも


血を吐きて それでも歌う カナリアの 揺れるスカート 愛しき紅(あか)さ



深更に 思いに耽る 男一人 タバコなしでは 様にもならぬ 


思い立ち 夜中に作るラーメンの 器の暖で 冬近しと思う


真夜中の 台所で カタカタと すると親が 「あんたなにしてんの」


  なにもせず なにも変わらず 年はゆく 何事もなければ よしとなだめて



忘れ物 どこかにしたよな 気がして振り返れば 宵闇花吹雪


道違(たが)え さまよいの果て 桜の下 小鬼が哄笑(わら)う この世でないと



夏は逝く 人も過ぎ行く それでいい 思い出だけが 冷たく光れば


午後の陽に 照り返す海 眩しくて 細めた眼差しに 君が微笑う



昔日の 後悔ばかり たぐりよせ 恥だとわめく 自称無頼派



すべて 2003.10.13 作



数日経った今、これらを眺めると、ずいぶん気持ちの落ちこんだものもあれば、物語的なものもあるし、可愛らしいものや呑気で日常的なものもある。
自分のその時のありようみたいなものが多面的に現れていて楽しい。

これからは、ちょっと時間が空いたりなどしたら歌を詠んでみるというのもいいな、と思った。
こうして今まで見えなかったいろんなモノの魅力というものがだんだんわかっていくのだから、生きていくというのも満更悪くない。


2003.10.18


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