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谷山浩子 『ボクハ・キミガ・スキ』

谷山浩子の総決算アルバム

(1991.05.21/PCCA-00272/ポニーキャニオン)

1.ボクハ・キミガ・スキ 2.約束 3.催眠レインコート 4.心だけそばにいる 〜here in my heart〜 5.手品師の心臓 6.不眠の力 7.パジャマの樹 8.わたしを殺さないで 9.コットン・カラー 10.海の時間


逆転の発想、というものが往々にしてある。
今までそうだと思っていたものが、ちょっと視点を変えて取りかかってみるとあら不思議、という奴である。

谷山浩子は元々「詞先」(詞を先に作ってそれに嵌める形でメロディーを作る、というやり方)で楽曲を作っていたという。
と、まあ、谷山浩子の作品を聞いたことがあるものなら、そりゃ当然だろうな、と思うだろう。
彼女の作品で1番キャッチの強い部分というのはなんといっても恐ろしく不気味でそしてもの悲しい童話のような、透徹とした歌詞なのだから。――彼女自身も「詞と曲と歌唱だと『詞』はいつも褒められるから褒められても1番嬉しくない部分」と述懐しているほどだし。
が、それをある日なんのきっかけはわからないが、彼女はふと「曲先」で歌を作るようになったそうだ。
と、そこで生まれたのが今回取り上げる大傑作『ボクハ・キミガ・スキ』。
「詞先」なったのだから、このアルバムから歌詞の部分の比重が軽くなっていったかというと決してそうはなっていない。 むしろ、より歌詞の部分が重くなっている。 より不条理に、より不気味に、より夢心地に、より醒めない悪夢のごとく、言葉が迫ってくる。 これだよ、これがこれこそが谷山浩子なんだよ、とおもわず声を荒げたくなるようなアルバムなのだ。『たんぽぽサラダ』以降の彼女の総集編といっていいんじゃないかな。

これはなによりも「曲先」ということで、言葉の制約の度合いが強まったゆえに起こった僥倖に思える。
詞作というのは、意識と無意識の間隙を縫うような作業だとわたしは思う。意味の繋がらないところぎりぎりで言葉を飛躍させたり、言葉を弄んだり……。言葉の空を領空侵犯ぎりぎりで滑空する。そのスリルと異化作用、そこから見える新たな世界の断面、それが詞/詩の楽しさだ、と私は思う。 詩作というのは、そもそもあらかじめの制約が大きければ大きいほどそこに表れる言葉は飛躍しやすいものなんじゃないかなぁ。 和歌や俳句を見れば良くわかると思うけれども、限られているがゆえに世界が無限に広がっていく、という、そういう世界があると思うんだよね。 (――だから「自由律詩がだめだ」というわけではないけれどもね。というより、ゆえに「自由律詩」のほうが難しいと私はおもう。なにもないところからリズムなり言葉の響きなりを作らなくてはならないし、「枕詞」や「季語」や「本歌」といった「歴史と伝統のお約束」を使って意味を膨らませるということもできないしね)

谷山浩子の作品は元々、詞においても現実を袈裟懸けし世界を超越するような、言葉の飛躍、意味から飛躍という志向を常に持っていたように思える。 薄皮のような日常の皮を剥ぎ、その中に潜んだ美しい悲しいグロテスクなもうひとつの(非?超?)現実を見せつける。そういうのはもっとも得意とする昔からの彼女の必殺技といってもいいもの。 現実から意識から日常から、更に上へ、更に彼方へ。まるで、テレビのチャンネルを変えるように、めくられる漫画のページのように現実を飛び越え、遊戯し、ひらひらと身をかわす、それが彼女の詞の本質だとわたしは思う。 その彼女の志向と「曲先」という手段が偶然にも一致した結果生まれた僥倖といえるんじゃないかな。 もちろんこれは彼女自身も自覚していたことらしく、この時期を「『曲先』にかえて傑作がパタパタと生まれた」と後に述懐している。 ―――であるから、これは「曲先」であれば誰でも得られる効果というわけではないだろうな(だいたい今のポップスはほとんど「曲先」だし)。

またこれは、谷山浩子がパズルを趣味にしている一面も忘れてはならないことなんじゃないかな。
ある程度決められた音の数やメロディーの抑揚の制約という前提を元に言葉を嵌め込んでいくという詞作に、パズル的愉悦を彼女は感じたのではなかろうか、と私は推測する。 言葉の戯れ、意味の戯れ、世界との戯れ、をこのアルバムから私は感じる。 ぎりぎりのところで整合性を保っていたり保っていなかったり、連続性を保っているかいないかの言葉の流れ、反意味すれすれの意味の連なり。 谷山浩子はこの世を指先で弄んでいる。そう私は感じる。

その言葉の戯れを1番よく表しているのが、「Cotton color」でないかな。これは悪魔の歌といってもいい。 この歌は歌詞が逆文字になっている。
一見どこかの見知らぬ国の言葉なのかな、と思わせるが、歌詞をよく見て戦慄する。 1行目「el a ty ria fairy cotton」これを「f」のところから反転させると、前半意図不明の部分が「fairy tale」となっていることに気づく。 それを手がかりに歌詞を解読していくと……。
My mother killed many little boys
and also I was murdered by her
お母さんはシリアルキラーということか……。私の死んだ頭蓋が、私の眼玉がそう、言っているのだという。…………。

その他の楽曲も充実。
不眠症の少女の見る白日夢を描いた「不眠の力」―――愛するものにくちづけをするためだけに少女は地球を滅ぼす。 管のファンファーレが「ドラクエ」みたいな「手品師の心臓」――谷山はすぎやまこういちのファンだからこれは意図的だろうな。ちなみに詞は完全にドグラ・マグラ。ほとんど夢野。胎児の見る悪夢である。 「ここは『ダーク・グリーン』(佐々木淳子著の傑作SF漫画)のR・ドリームの中か?!」といった感の「パジャマの樹」。 マゾヒスティクな愛の精神世界を描いて鋭い「わたしを殺さないで」 雨乞い少女の祈祷で深夜のどしゃ降り、坂道は急流になり、屋根は崩れ落ち、家は水没する、というただ事でない「催眠レインコート」。 ラストは大バラード「海の時間」。恋するふたりを乗せたベットはタイムマシン、遥か原始の時代、海の時代へとタイムスリップする。 見逃すところ全くなし、捨て曲なしの、完全な名盤である。

このアルバムの翌年、彼女は『歪んだ王国』という決定打をまたまた叩き出してしまう。これは後述。

ちなみに「約束」は香港のアイドル、グロリア・イップへの提供曲「ASHURA」(映画「孔雀王・アシュラ伝説」主題歌)のセルフカバー、「心だけそばにいる」は西田ひかるのシングルのセルフカバー、「Cotton color」は原作みずき健の輪廻転生モノ漫画「シークエンス」のイメージアルバムへの提供曲であり、同アルバムではZabadakの上野洋子が歌唱のものをセルフカバー、「ボクハ・キミガ・スキ」は谷山浩子の同名やおい小説をイメージした曲である。

2004.05.10

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