◆ 君の時計がここにあるよ (05年「月光シアター」収録) 谷山浩子は、ほんとうの孤独が歌えるアーティストだとおもう。 私たちは、どこまでもひとりぼっちだ。 どれだけ愛しあっても、理解しようとしても、わたしたちは、ひとりで生まれひとりで生きてひとりで死んでいく、だけれども――。と、谷山浩子は歌う。 机の上にある天使の絵の描かれた置時計。ボクはこの時計を作ったキミを思い浮かべる。 この時計を作ったキミ、今どこに居、なにをしているだろう。 笑っているだろうか、泣いているだろうか、もしくはもうこの世界には居ないだろうか。 ただひとついえること、それは、ボクの知らないキミがどこかにいて、この天使の時計を作った。 その時計は今、ここにある。キミの時計はここにある。この時計がボクはとても好きだ、ということ。 その幽かな応答のみで、いいのだ。 そこに「ある」ということ、それを「受け入れる」ということ、それだけで、私たちは救済されるのだ。 心の荷物は背負いあうことはできない。孤独という断絶は絶対的だ。 それでも私たちは、誰かがそこにいる、それだけを信じて、名もなき墓標を刻む。闇夜にカンテラを照らす。 そのようにして私もまた、谷山浩子のこの歌がとても好きだと、このネットの虚空に向けて言葉を紡ぐのである。 (記・2008.07.13)
◆ 片恋の唄 (05年「月光シアター」収録) ぼうっと聞き流していて、はっとさせられた。 さりげなく凄い歌だ。 茶碗に恋した男のように片想いの悲しさ切なさ滑稽さみじめさ独善さ、それらすべてがこのワンフレーズに凝縮されている。 凝縮されていて、美しい。 「相槌をうつ」と「ように思えて」の間のとりかたが、絶妙。これが谷山浩子。 「意味なしアリス」の「――というのは実はいいすぎで」のあたりなどでも顕著だけれども、 ふとしたスキに手品のようにトリッキーに視点がかわって、世界がズレる。主体が客体化する。 だから谷山浩子は、天才なのだ。 (記・2007.09.11)
◆ 電波塔の少年 (02年アルバム『翼』収録) 「君への募る想いに、ぼくは電波になる」 恋情の果てに想い人へ魂魄を飛ばすというのは、古来よりよくあるモチーフだが、それを電波というところが谷山浩子らしい。 「電波になったぼくは、言葉と歌を抱いて、寒い夜の海を山をいくつもの街を越えてゆく。 だけど君の受信装置は、部屋の片隅で、壊れていた。君はそこにいない。 受信される当てのないぼくは虚空に消えてゆく――」 失恋を寓話化した歌といえるだろうが、それよりさらに深く、関係性の断絶までここでは表現されている。 そこが谷山浩子の作家としての深さであり、手腕の鋭さである。 「僕はこんなに君のことだけを好きなのに」と語られる切なる思いが最後「僕はどこにもいなくなる」に帰結する、この残酷さ。 愛は悲しい捧げ物なのだ。 この歌をはじめ、「七角錐の少女」「森へおいで」「沙羅双樹」「アトカタモナイノ国」など、ディスコミュニケーションを描いて美しくも悲しい歌が谷山浩子にはたくさんある。これこそ谷山浩子の真髄だと私は感じる。 他にこんなすごい歌作れる人、果たしているかね。 (記・2007.05.22)
◆ 意味なしアリス (03年「宇宙の子供」収録) 最初のタイトルは「夜のアリス」だとか。ってわけで、これは隠喩のエロがむんむん。 てか、これはずばり吾妻ひでおのロリコン漫画の世界でしょ。少女売春をしているアリスの不条理な日々、という感じ。 女衒の公爵夫人にいじめられながら、お客としてあらわれるキノコにわけもわからず犯される日々のアリス。彼女は「なにをやっているのかぜんぜんわからない」。 そんな意味のない日々を送るアリスは、ある日、頭に来て、公爵夫人の頭を鍋にぶち込んでキノコと一緒に煮てしまう――というこのあたりは、かなり猟奇的。 それにしてもラストの「――というのは実は言い過ぎで」のどんでん返しは見事すぎる。おとぎ話の美少女がしみったれた四畳半的生活をしている、という真実がこれまたやっぱり、吾妻漫画的だよね。 是非、吾妻ひでおで漫画化を。 (記・2007.03.15)
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