躁鬱気質か、分裂気質かとなると私は断然、躁鬱気質であると思う。 「俺、天才だから。確実に神に選ばれているから」 と、調子に乗りまくり、精神が無敵状態の時もあれば、 「皆さんすばらしい。私なんて人間の屑ですから、はい」 精神の防御能力ゼロの卑屈っ子になったりもする。 これが、ゆるやかな波の上下のようにいったり来たりするのならいいのだが、わりとスイッチが切り替わったかのように、紙の裏と表が逆転するかのように突然起こるのだから困ったものだ。 さっきまで機嫌良く話していたのが、突然黙り込んだり、また、親しげな人にも逢いたくないとふさぎこんだと思えば、誰かれかまわずに胸襟を開いて話したりする。 積極的で有頂天な時と、ものすごい冷徹で投げやりな時がこれといったきっかけもなし交互にくるといってもいい。 ともあれ、自己と周囲を客観視することができないということには変わりがないのだが……。 そうした波も近頃はあまり躁の方へ大きくぶれる事が少なく、そして鬱の方のぶれが強くなっている気がしてならない。 子供の頃は基本が躁状態で、時折薬が切れたかのように鬱に転がったのが、近頃は基本が鬱でなにかのきっかけでパタッと躁状態になるという感じ。 まぁ、今の年齢で「有頂天で自分を見失ってばかりいる」というもの変なのだから、それでいいのかもしれないのだろう。 ただ、ひとついえることは躁になろうが鬱になろうが、わりと心をごまかして適応するようになったこと。 子供の頃はその時折の生の感情をそのまま表に出していたが、今は鬱でも躁でも、世間の目を考えてかなにかわからないが、取り繕ったそれなりの対応ができるようになったと思える。 というのも、どの状態に陥っても、この感情の出口はいつ頃だな、とか、今回の山はこのあたりだな、となんとなくわかるようになったからだ。 それこそ、昔はその感情の振幅の荒波をもろにひっかぶって、「もう、死ぬしかない」と勝手に自分を追いつめたりしたものだ。 それを今はその感情の流れ自体をある程度予測して、まぁ、1日寝ていれば大丈夫だな、とか、紙に書き殴っておさまる程度だな、とか自分で対処療法してコントロールしたりできるようになった。 こんなものにも経験のなせる技というものがあるのだから、面白い。 そして、こうして人というのは生きていくことに慣れていくのだな、と、しみじみ感じる。 ま、一番はこうした気質が治ることなのだろうが、実は言うと、こういった身勝手な心の振幅というそれ自体、今となってはそんなに嫌いではなくなってしまっている。 軽い心の病気というのはそれぞれの人の心の松葉杖みたいなものだ、と思う。 それなしに歩くことができるならそれが一番なのだが、いきなり松葉杖をとってしまったら、歩くことすら困難になる。 大切なのは歩くこと。そして、いつか松葉杖なしに歩こうとする意志と努力だと思う。 ということで、今日も能天気と絶望のあいだを潜り抜ける私なのであった。 |
2003.09.02