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「たそがれ清兵衛」にみる

永遠の受けッ漢、真田広之


真田広之はJAC出身で千葉真一の直弟子であり、日本舞踊玉川流の名取でもある。 この彼の相反する出自はそのまま彼のアンビバンツな魅力につながっているようにみえる。
例えば、ノーブルな狐顔でありながら、鍛え上げられた逞しい体躯。 例えば、千葉真一から受け継がれたハードで鋭い「急」の所作と、日舞で培われたであろう典雅で華麗な「緩」の所作。
ゆえに彼は男性的で圧倒的に強く逞しいはずなのに、どこかたおやかで弱弱とした部分が見え隠れする印象があるのだ。 少なくとも、根っからの武人のごとく、豪快で豪放磊落なところはまったくない。
その他人に見せようとしないが見え隠れしてしまう彼の繊細さは、現代的な男性の持つセンチメントというともまたちょっと異質に映る。

そうした彼に1番最初にあてがえられた当り役は「荒小姓・若衆」であった。
飛び抜けた才覚と膂力を持ち、若者らしい覇気と負けん気を持っているものの、彼よりも更に強大な力によって強引にねじ伏せられるという役どころである。
「魔界転生」「伊賀忍法帖」「里見八犬伝」「麻雀放浪記」といった一連のカドカワ映画の作品群もそうだし、「必殺4」や「新宿鮫」もそうだろう。
彼はたえず強大なものに意地の誇りも奪われ、時には犯されそうにもなるし、その弱さを逆手にとって武器に変え成りあがろうともすることだってある。ともあれ、最後、彼はその力に負けるか、せいぜい刺し違えることによって辛くも勝利を得る、ということで終わる。
かれはどのような場でも「少年」であり、たえずパッシブな役割であり、その被虐・庇護の位置からの脱却と逆襲とが彼の物語であったわけである。 そんな彼はいつも「可愛」く「可哀相」で「カッコイイ」の三拍子そろった美事なまでの悲劇のヒーローなのであった。
であるから、若い頃の彼は「JUNE」「ALLAN」等を読む少女達に支持されていたわけである。彼は同人用語でいうところの完璧なまでの「受け」のもっとも似合う役者であった。 彼はなぜか「真田くん」と「くん」づけで呼びたくなる。

とはいえ「高校教師」あたりからそのペーソスが中年のそれに近いものになってき、少しずつそれは変容しくのかにみえた。
確かに40過ぎた男がいつまでも「被害者」の役割っていうのもな、思っていた頃にまたまた彼のあたり役が生まれてしまった。いうまでもなく「たそがれ清兵衛」である。

幕末、時代に取り残された小藩のひとりの貧乏侍、という役どころに真田くんの役者魂が完全に乗り移った。 そこには、年老いても「受け役者」一本で行く、そんな彼の気概に溢れていた。
幼馴染であり、長年の労苦を共にしたと思っていた宮沢りえに死地に赴く直前に求婚するものの、見事に振られる様はまさしく100%の受けっぷりといえる。 このどうやっても運命の女神が微笑まない様というのは見ていて、もはや爽快。
誰もふりむかない、耐えるしかない、だがそれでいい。ラスト、静かに偉大なる日常に帰る真田くんのお姿は「受け役者」として完遂しきった神々しいまでの姿にも私は見えた。ったら見えたのだ。
老いても受けッ漢。日本一のまさしく「受け役者」の誕生をそこにみたのである。
彼の「受け」っぷりは容姿や年齢などといった外的な要素で成り立つものではない。根深いパーソナリティーに基づく本質的なものであり、老いてもそれはなんら変わらないことをここに顕わしたといえる。

日本の良心を追いかけ続ける山田洋次によって描かれた、藩命のために自分を殺し命を賭しながらも決して報われず、それでもそれをよしとする名もなき侍である真田くんの姿は、 しかし今までの彼とは違う層へと訴求するに至った。 それを絶賛したのは夢見る少女達ではなく、人生の最終ステージへと向かわんとする初老のおじさんおばさんたちであった。
確かに名もなき路傍の石として生き、年を重ねた定年間近の団塊サラリーマン層がこの映画に自分の悲哀と重ね合わせるであろうことは想像に難くない。 そういった層の支持でこの映画がヒットするのはけだし納得である。

とはいえ、真田広之の忍苦的被虐的な姿は絵になるが、世間一般の団塊世代のおじさんがいくらマゾヒスティックに社会的役割を果たそうともそれはむしろ「真田広之」というよりも「東海林さだお」の世界であるのが現実といえよう。 ったくなんで団塊のおじさんて自己愛だだ漏れなのかなぁ、というのを一方で感じつつも、それにしてもと、私がこの作品で、感心したのは「真田広之」の強かなまでの受けっ漢ぷりだったわけである。
彼はこれからも運命に踏み躙られる絶妙なヒーロー役を演じていくだろう。


2004.11.20
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