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斉藤由貴 「私の好きなあの人のコト」

(2000.11/新潮社)



 斉藤由貴のお気に入りの「あの人」27人に関するエッセイ。97〜99年に「小説新潮」に連載していたエッセイを単行本化したもの。2000年、新潮社刊。
 取り上げる人物は、斉藤由貴の祖父母や母など血縁やプライベートな友人から、女優としての仕事上で知り合ったさまざまな人 ( 時期はデビュー期からつい最近までとオールタイム )、またテレビの画面でしか見たことのない憧れの人、あるいは物語の上の架空の人間、と様々。
 それまでの彼女の著作は、あたりさわりのない優等生的 (「いつでもわたし流」 「猫の手も借りたい」) なものか、 あるいは、魂の血をどくどくこぼしながら書いたような内省的で痛々しい (「NOISY」 「双頭の月」) ものか、そのどちらかであったが、 この本は、彼女の二面性の融合したところにある。 のほほんとして無邪気で無害そうでいながら、時折、鋭い刃のようにひとつの瞬間を切り取り、ひとりの人間の心に入り込み、本質を抉り取っていく。



 見城徹や山田詠美と一緒に初めて訪れた銀座の文壇バー、そこでみたシャンパングラスのなかのドンペリの小さな泡。
 「東宝シンデレラオーディション」で見た沢口靖子の息を飲むほど美しかった横顔。
 子供のようなパジャマ姿でのんきに「わたしこんど結婚するんだ」と告げた高井麻巳子。
 大きなしみのついたシャツを堂々と着こなしてNHKのスタジオを闊歩する樹木希林。
 本番中の舞台の袖でソーメンをすする三谷幸喜。
 ヘアヌード写真集の撮影を勧める篠山紀信と逡巡する斉藤由貴、そのなかでふと心に染みた一言。
 麻薬のような危うい恋愛が終わり、一晩中号泣しつづける自分に母が投げた思いがけない一言。

 「あの人」を書きながら、斉藤由貴は、「あの人」を鏡に、そのときの自分を綴っている。 だから、それぞれの描写は自然で、嘘がない。
 ミューズ選ばれた特別な人間だと思いこみたくて、自分に凝り固まっていた若き日の自分や、アイドル稼業の合間に家出や脱走を繰り返していた自分、 泥沼の恋にあがいていた頃の自分など、 赤裸々な当時の心情や事実も、さらりと、彼女は風にふかれるように書いている。

「変にかまえて、俺はこういうスタイル、とか、あたしはこういう不思議な雰囲気なのよというのは、まったく無意味で信用できない、ちゃちな小芝居の域を出ない。 私は、今もケッコウ愚かだが、以前はこれに輪をかけて愚かだったので、そういう猿真似をしていたと思う。けれど"本物"はそんな程度の低いおハナシに決してつきあってはくれはしない」
 これは野田秀樹の回での一節。
 あの不思議系アイドルの始祖ともいえる斉藤由貴が、いつのまにやらこういうことを言うのだから、いやぁ、時が流れるのも、悪くない。



 筆致の鋭さの秘密は、冒頭やあとがきの言葉にある。
 斉藤由貴はここで、「私の好きなあの人のコト」という題でありながら、自分にはあまり友達がいないこと、自分にとって"大切な人"が殆どいないことを吐露している。
 もちろん、客観的に見ればそんなことはないのだろうが、そうおもわずにはいられない、どんな人に囲まれても孤独を感じてしまう孤独、どんな場にいても不幸を嗅ぎ取ってしまう不幸、 そんな彼女に染みついた本質的な孤独や不幸が、容赦のない筆致となって表れている――んじゃないかなと思う。
 これが「NOISY」「双頭の月」の頃は、暴力的なまでの鋭さですべてを斬りつけ、時にそれは読むことすら苦痛に感じるほどだったのだけれども、それも今や穏やかになり、もう一面の自分――穏やかで平明で優等生的でわかりやすい自分とうまく融合し、 文章として一番いいバランスになっていると思う。

 これは、書いた時期がいいんだろうな。
 これが書かれたのは、国民的清純派アイドルとして活躍した時期を過ぎ、スキャンダラスな若手実力派女優として世間に騒がれた時期も過ぎ、 結婚し、いったん仕事をセーブしアメリカに住み、帰国して活動を再開し、まもなく第一子が生まれよう、という精神的にも仕事的にも安定したおだやかな時期、 つまり、これまで自らの周りに起こった様々な出来事が整理でき、客観的に解釈できるようになった時期でもある。
 文章家としての彼女も、結婚・出産を契機にひとつの転機を迎えたことがしみじみよくわかる。 この文章のテンションで、もう一度小説を書いてみたら、きっといいものができるんじゃないかなぁ、と蛇足。



 蛇足ついでにもうひとつちなみに。
 この本で、個人的に一番好きなのは、銀色夏生の「微笑みながら消えていく」の回。
 斉藤由貴は、銀色夏生を彼女ほど非人間的な人はいない、表現において彼女は冷酷非情だという。 その目は、人間とは程遠い、それは鳥や魚のような目だと。
 しかし、斉藤は言う。
 「彼女は人間ではなかったが、詩人だった」
 彼女と一緒にいるといつも漠然とした不安に、不思議な虚無感や敗北感にさいなまれたが、斉藤由貴は、彼女の下をなかなか去ることができなかった。 そしてただひたすら、彼女の好きなものを自らも手にしようとし、彼女の世界を自分の世界にしようとした。
 明け方、死んだように静かに眠る銀色の寝顔を見て、斉藤由貴は、
「詩人は眠る時も詩人なのだな」
 と思う。
 ここにあるのは、表現者の恋だ。
 モノを書く、モノを作り出す、なにかを演じる、そういう人種は、心でなく、ましてや体でもなく、夢に恋をする。
 斉藤由貴は、銀色夏生に恋をしていたのだろう。

2006.11.28
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