この曲の評価はこの一点につきる。 中森明菜は、マゾヒストである。被虐的であればあるほど、明菜はかがやく。松本隆はそれを見抜いていた。 以上である。 「落花流水」とは読んで字のごとく、「落ちる花と流れる水」という意もあるが、 転じて、落花が"流水に身を任せたい"という情があるならば、流水にも"落花を水にのせたい"という情もあろう、という。 つまりは、相思相愛の男女のたとえの意もある。 ◆ 水辺に咲いた花――そのひとひらが、はらりと落ち、流れる水に任せて、どこまでもくだってゆく。 この歌の明菜は、花である。 「落ちていく花の気持ちがわかる」花びらは、右へ左へ、上へ下へ、時につんのめさせられ、時にじらされ、ゆらゆらと流れる水の気まぐれのままに陽も夜もなく弄ばされる。 流れる水は、おさまることを知らない情念の濁流だ。花びらは、最後は意識すらも混濁し、心は白く溶けてゆく。 「もがく重みさえも忘れて 目をいっぱいに見開いて立ってた 力が抜けていく」そこにマゾヒスティックな下降感覚がかいまみえる。 堕ち、穢され、翻弄され――しかし、それこそが仕合せ。 「うれしい時も 悲鳴をあげる」それが彼女にとっての性愛であり、それこそが「生きている証」なのである。 ――しかし、「うれしい時も悲鳴あげる」とはよくいったものだ。 エロティックで、マゾヒスティックで、これは、もう、明菜としか、いいようがない。 ◆ 「落花流水」という言葉が、相思相愛の男女の喩というのなら、 中森明菜にとっての性愛とは、つまりは、 自らの意思を、肉体を、投げ捨てたその瞬間にこそある、というわけだ。 明菜は、自らを捨て去ることに躊躇いながらも、しかし、踏み出さずにはいられない。 「昨日までのわたし 反故にしてもいい」それは中森明菜の、真の姿と、わたしには響く。 『Stock』や『Femme Fatale』やあるいは『VAMP』で性愛のただなかを歌いきった明菜の姿が、この歌にもあった。 性愛そのものを正面きって歌う時の、被虐的で、淫靡で、妖しく輝く明菜がいた。 「落花流水」という言葉にエロティックな男女の機微を見抜き、 さらに、中森明菜という存在そのものを見抜いた。松本隆という作詞家は、やはりただものでは、ない。 ◆ ―――蛇足。エスニック風のアレンジは悪くないが、どうも全体的にごちゃごちゃしすぎて、整理しきれていない。 はっきりいえば、少々耳にうるさい。シンセのオケヒットの連発もちょっと古臭い。 編曲担当の坂本昌之氏には、ひとつ注意喚起を促す。これはカッコよくないぞ。おい。 ◆ 加筆。 「落花流水」て言葉には、相思相愛のほかにもうひとつ解釈があるのね。 「落花」ってのは、もちろん「散りゆく花」の意で、春の季語でもある。それが水に流れる、と。 つまり「過ぎゆく春の景色」という意をあらわしているそうで。 そこから転じて、万物が流転するさまであるとか、人やものが落ちぶれ、衰退するさま、という意味もあるんだって。 つまり「諸行無常」とか、そのあたりに近いニュアンスもある、と。 ってわけで、この歌のこのタイトルは、どうやら単純なダブルミーニングっぽいようで。 「穢れ、落魄する明菜」と「性愛の淵にのみこまれる明菜」というふたつの意をこめて松本先生はこのタイトルをつけたんだろうな。 |