書上奈朋子 「psalm 詩編」
1.Nella nebbia blu
2.ある晴れた日に
3.Film de l’Amour
4.愛されない恋人
5.秋
6.mark
7.miracle
8.Esperanto
9.Hora de verdad
10.luce
一人の天才を見た (2004.11.17/ポニーキャニオン/PCCY-1718) |
―――個人的芸術――― PCという精緻な道具の導入によって、楽曲の制作システムは、大装置による分業的、流れ作業的、機械的な「工場的録音システム」から、再び職人的な「工房的システム」へと回帰しつつある、という話をあるアレンジャーの話で聞いたことがある。 テクノロジーの進化によって、楽曲制作という創作活動が一時期、多くの人やモノの手による工業的な制作になっていたが、近年のPCの発達という今までの更に上にいくテクノロジーの進化によって、再び個人的営為へと回帰しつつある、という。 ここにおいて音楽家の音源制作の作業は画家が絵筆を握るのと、作家が筆を握るのと、それはまったく同質となる。 この話を聞いた時思い出したのが、書上奈朋子というアーティストである。 楽曲の制作状況が「工房的」へ「個人的」へと傾いたといえども、とはいえ、実際は「歌う人」、「歌詞を作る人」、「作曲・編曲する人」、「演奏する人」、「レコーデイング、ミキシング、マスタリング、それぞれの場でエンジニアリングをする人」、「その全体をとりまとめる人」、等などとそれぞれのプロフェッショナルがいるわけで、 それぞれの役割で分業化させて、スムーズに楽曲を制作する、というパターンがやはり多い。それぞれのパートの基本知識は知りながらも最終的にはその場におけるプロフェッショナルな人と一緒に作り上げる、というのが今は1番多いんじゃないかな。 ―――例えば、中島みゆきは、「音の作り方を何一つ知らないのはまずい」と一時期、様々な有能な編曲家やエンジニアとの共同制作で音作りを猛勉強したが、長じて、アレンジやエンジニアリングを全てを自らでこなすということはせず、自らが信を置く有能な音作りの達人にそれを任せ、共に音を作るという形に収まった。 これはシステムというよりも人間の能力の問題だろう。つまりそこまで人間は多才にはなれないということだ。 しかし、この無茶を難なくやってのけてしまっているのが、書上奈朋子というアーティストである。 彼女はほとんど一人で楽曲を作り上げてしまっている。その才能には驚嘆という以外に言葉はない。 今回の彼女の作品「Psalm 詩篇」はProduce, Lyric, Music, Arrengement, All vocals&Backing vocals, Programing, Recording Engineering&Mixing Engineering by Nahoko Kakiageとなっている。 実際、彼女の作品は陶芸家や書家や文学者や画家のそれと同じ、極めて個人的な芸術として耳に響いてくる。 たったひとりでの芸術的活動というのは、どのようなジャンルでも同じだが、それは峻厳たる自己との対峙を要求する。 そうした厳しさが彼女の作品には濃厚に漂っているのだ。 彼女の作り上げる作品は、きわめて個人的な、彼女のみが持ちうる内的宇宙を音楽に忠実にトレースしているという感が強い。 ――――ボーカルの妙味――― 彼女の音の構築力はエキセントリックオペラの活動で、また前作『baroque』で充分示されていた。 しかし、彼女がここまで引きの強いボーカルの持ち主だったということはこの新作を聞くまでわたしはまったく気づかなかった。 彼女は一流のプロデューサー、作曲家、編曲家、プログラマー、エンジニア、であり、一流のボーカリストでもあった。こんな驚くことはない。 テクニックからいうと、彼女は、吐息や子音、吸気音等の無声音の使いが絶妙である。 肉体的表現としての「うた」ということを彼女は念頭に入れて歌っているのではなかろうか。 その声は唇の動きや喉の上下などを想像せずにはにはいられない。甘い体臭が感じられるほどの、生々しいまでの身体感が歌に漂っているのだ。 まるで耳元で囁かれているような妖しさがあり、エモーショナルで妖艶かつ、エロティックな歌唱といえよう。その声に女の業を感じずにはいられない。 もうひとつの特徴。彼女は歌詞の言葉をひとつの「音」として捉えて歌っているように聞こえる。 かといってそれは言葉を記号的に扱い、ないがしろにしているということではない。 「言葉」の持つ意味を一度解体することによって、「言葉」の表層に纏わりついている垢を洗い流して、言葉のもつ真の意味へと再構築しているようにそれは見える。 それが証拠に彼女のボーカルは映像的、物語的な喚起力がきわめて強く、その幻視される映像や物語は歌詞の持つ世界と大変近いところにある。 歌詞の意味がわからなくても、ああ、これはこういう歌なのだな、というのがわかる。絵や物語が見えるのだ。 これはご詠歌やチャントと同じ世界である。何度も唱え、言葉の意味が漂白しきった時にその言葉が「そのまま」の意味でもって真に解釈される、という世界だ。 ここでタイトルが「psalm」であるというその意味に気づく。その意味は詩篇、讃美歌である。 このアルバムが彼女にとっての「うた」のアルバムであることはタイトルでも自明であったわけだ。 「Psalm」は歌と祈りのアルバムである。 ちなみに――――。吐息や子音などの無声音が特徴で、エロティックな印象を聞くものに与える。詞の言葉を音で捉えるようなところがあるが、映像的物語的喚起力は強く、詞の持つ世界を十全に表現している。 この特徴を持つ歌手を書上奈朋子以外でもうひとりよく知っている。中森明菜だ。だが、残念ながら中森明菜は歌手としてのキャリアと名声はあるものの、ここにおける書上奈朋子ほど、その歌唱法とその理論は構築されていない。中森明菜はこのアルバムを聞いて歌唱法を研究する必要があるだろう。 ――清冽でエロティックな恋歌―― SMとは「神と人」の関係の擬態である、という話をどこかで聞いた事がある。 彼女の歌は果たして、恋歌であるのか、それとも神への詠歌であるのか。それがいくら聞いても私にはよくわからない。 彼女にとってその2つはきっと同質なのであろう。その2つは渾然一体となって歌に表れている。 例えば恋のはじまりと終わりを歌ったものであろう「miracle」。 ふたりの心の なにもない海のような空白に ひとつの恋の終わりがあたかも、宗教的断絶にすら響いてくる。恋を失った一人の女があたかも神に見捨てられた嬰児のようにみえてくるのだ。 この傾向はこのアルバム全体を覆っている。 入水自殺を歌ったオープニングの「nalla bia blu」にしてもそこで表現されているのは水底という異界への憧れと神学的絶望とエロティシズムである。 すべては青く 濃密な霧の中 湖に静かに横たわる その美意識が集中しているのが今回初の試みとして日本語詞で歌った「愛されない恋人」と闘牛士と牛を男女に見たてた「Hora de verdad」であろう。 まず、「Hora de verdad」。 あなたは闘牛士 光の衣装をまとって 女が愛する男に私を刺せと身もだえしてにじり寄る。せめて美しい死をくれと。それこそが真実の瞬間だと。 これは前作『Baroque』は「Bread and Wine」からの系譜といっていいだろう。 彼女とって、恋とは己の命を引き換えにしても惜しくはない、偉大なる儀式なのである。 そして「愛されない恋人」。 淋しさが いつからか 宿されて 幾度も歌中で繰り返される「ああ 私は愛されない恋人」というこの「恋歌」にとって普遍的な短い言葉が、「うた」として類稀なボーカルによって表現されると幾千幾万もの感情へと変化していく。 あらゆる意味を背後に感じさせるたった一言。これは「うた」であるからこそ可能な表現といえる。 この曲が今回のアルバムの最大のエポックといっていいだろう。 それにしても「見つめることは祈ること」という部分には絶句する。……深い。 ちなみにクラシカルな曲であるのに大洋的大陸的な大きさを感じるゆったりとした日本語の響きからわらべ歌のような日本的なイメージを喚起させるこの効果は彼女の日本語ユニット「Wabby&Sabian」での成果によるところが大きいと見ていいだろう。 これは2曲目「ある晴れた日に」(これはプッチーニの蝶々夫人の「ある晴れた日に」からである)でも同様の成功を得ている(――この曲もまた見事だ)。「古きよき日本」を表現していると思われた抒情歌もその実、西洋的な音楽を基盤にしたものであるということにここで気づくだろう。 また彼女の得意技のひとつである多重ボーカルがこの曲でも冴え渡っているということも忘れずに書いておこう。 あたかも鏡あわせの長い回廊に迷いこんだような気分になる。その鏡のなかに映るのものたちはみな涙を流し、そして静かに祈り続けている。 このアルバムを聞いていると、信仰は恋に近く、恋は信仰に近いという事実に気づかされる。 あるいは精神的断絶の極み。あるいは性愛の1番の高みにある崇高な一瞬。あともう少し針が向こうへ振れたら、心が壊れるか、死ぬしかないような、長くはそう続かないであろう精神の沸点の瞬間。 それはタナトスすれすれの究極的世界であり白溶とした清冽な神的世界である。彼女の歌はたえずエロティックであり、そして神々しい。 ―――「psalm」という意味――― その他のトピックに目を向ける。 短い日本語詞に彼女の美意識の粋が結晶したような「ある晴れた日に」(――「ある晴れた日に あなた想い 流れる涙 海に落ちる」の部分は美しすぎる)、 生ギターをメインにした音作りが彼女にしては珍しく、白黒の恋愛映画のような別れの後の一景を見事に活写した「Film de l'Amour」、 「はかなさこそ美かな 美こそ慈悲かな」という短い言葉(――とはいえこの歌詞は造語であって聞き取ることは不可能なのだが)にあたかも殉教者のような孤高の悲しみを感じる荘重な「秋」(―――これは前作で言えば「beauty」にあたる系譜だろう)、 恋人との道行の果てに辿りついた絶望に神への呪詛の言葉をはく「mark」(――これは前作の「fantasma che vaga」の系譜だな) 等も注目しなくてはならない楽曲といえる。 全体のイメージカラーは「蒼」で、冬ざれた暗い森を一人きりでどこまでも逍遥しつづけるような、孤独で透徹した厳しい雰囲気が盤全体に漂っている。 ラストを飾る「luce」は世界の破滅を歌った歌で、このアルバムにあって少々異色の作品といえよう。 この灰色の世界に降り注ぐ無数の細かい光の雨 この光の雨とはこの世を浄化する光でもあり、核爆発の瞬間の夥しい光の束、つまりこの世の終わりの光でもあろう。 それを「肉体」というくびきから解かれる瞬間というこの歌はニーチェの超人思想的でもあり、黙示録的でもある。 荘厳な弦楽は宗教的な恍惚を、不協和音のようなねじれた電子音(――シンセリードだろうか)が肉体を溶かす不気味な「光」を表現しているといっていいだろう。 神への歌であるこのアルバムは神への飛翔、あるいは神への冒涜という時点で終わりとなる。 ここにおいて「psalm」というタイトルの意味が、そのままの意味ではなく、まったく反対の意味をも持つことに気づく。 神から見捨てられた者の反逆と超越という意味もあるのではなかろうか。もしかしたら彼女は神も恋も信じていないのかもしれない。 このアルバムは神なき今という時代の神へのアルバムといえる。このパラドックスが個々の作品のクオリティーにつながっているといえるだろう。 このアルバムの楽曲はただクラシカルで美しいだけでない。どれもが極めて現代的でわたし達が共感しうる悲劇を歌っている。 |