沢田研二「女たちよ」
1.藤いろの恋
2.夕顔 はかないひと
3.おぼろ月夜だった
4.さすらって
5.愛の旅人
6.エピソード
7.水をへだてて
8.二つの夜
9.ただよう小舟
10.物語の終わりの朝は
冴え冴えとした月の冷たさ (83.10.01/東芝EMI・ユニバーサル/TOCT-9580) |
真夜中、静かにアンプを上げ、CDをトレイに乗せる。 ゆるやかに、一曲目が流れ出す。 と、その時点で私は深い闇の中に迷い込んでしまう。 そこに現われるのは、闇をスクリーンにしたいくつもの男と女の夢幻劇。 それが次々と煙のように湧き立ち、私を惑わせ、そして消えてゆく。 かように、墨を流したような深く、そして清浄な闇の中をゆっくりと立ち入っていくような不思議なアルバムである。 このアルバムがそのままひとつの異界なのだ。 このアルバムはひとりで聞くのがいい。 しかも、真夜中に一人で聞くのが一番いい。 我より他聴く者なしという頃合を見計らって、作品と対峙するように聞くのが、いい。 83年の沢田研二の作品である。 作詞高橋睦郎、作曲筒美京平、編曲大村雅朗、演奏はエキゾティックス、という「源氏物語」をテーマにしたコンセプトアルバムである。 はたして、どのような経緯でこのアルバムが作られたのだろう。 それを私は知らない。 が、沢田研二の諸作のなかで消化しきれない異なった輝きをこのアルバムは持っている。 沢田研二はこのアルバムの3年前、久世光彦演出、向田邦子脚本による「源氏物語」で源氏の君を演じている。 しかし、ここに連続した流れがあるのかどうか、私はしらない。 というのも、このドラマを私は見たことがないし、なにしろ、このアルバム自体テーマとして「源氏物語」を選んでいるものの、ここで歌われている世界は「源氏」の世界そのものとは等号ではつながらない。 確かに「藤いろの恋」の「あらかじめ禁じられた恋人よ」と歌い「つらいつらい運命によって仮にも母と呼ばなくてはならない人よ」というのはまさしく藤壺のことを指し、また「夕顔、はかないひと」というのはタイトルからして夕顔のことを歌ったのだろう。 また「おぼろ月夜だった」は朧月夜のことであろうし、つぎの「さすらって」はそのまま須磨・明石の段ということなのだろう。 が、そうしたジグソーパズルを埋めるようなことを私はしようとも思わないし、そうした「源氏物語」の世界観を越えたものが高橋睦郎氏の詞作にはあると私は見る。 とはいえ、私は高橋睦郎という作家がどういった作家であるかということも知らない。 塚本邦雄や春日井建、中井英夫などとともに三島由紀夫に見出されたものの一人で、現代詩や戯曲、小説などをものし、男色家的な作風である。 と言ったことしか知らない。 ちなみに代表作である自伝的小説「善の遍歴」は華厳密教の世界を借景に、故郷を出たゲイの少年がありとあらゆるハッテン場(ゲイ同士が恋人を見つけ、ことに及ぶ場所)を巡り、男と関係するという物語(らしい、筆者未読。新潮社刊、もち絶版)。 なんでも「仏教における塔や巻物とは勃起した男根の象徴であり、つまり男根に全ての真理が宿っている」のだとか。 そうした作家が何故沢田研二なのかと言う経緯はまったくわからない。 ただ、前回書いた森茉莉もそうだし、中島梓などもそうだが、当時の沢田スタッフは音楽業界外の文化人の沢田シンパに対しても目をくばらせていたようで、高橋睦郎に関してもこの作品以前に沢田のコンサートパンフレットなどに文章を寄稿していたという。 ともあれ、この高橋睦朗の詞作がいい。 歌謡曲の詞など書いたことがないからなのだろう、ありがちなあざとさや、けれん味、またサビでの安易な盛り上がりというよくある歌謡曲の詞の作風から離れ、淡々と平易な言葉を連ねている。が、決して凡庸な詞ではない。 言葉からは匂い立つような艶が滲み出ている。 そこあるのは、水底を這う蛇のようなエロティシィズムであり、水に漂う長い女の髪の毛が首に絡みつき、男を水に沈めるような、男と女の秘められた修羅場である。
そして、女との色事の末、虚無感にとらわれる源氏の君の姿と心の芯が冷たく醒めている沢田の姿が2重写しなる。 それは月光のように冷たく冴え冴えとしていて、幾ばくかの狂気と殺意が孕んでいる。 エピソードこの段にいたってはすばらしいというほかない。 そうした詩作に引きずられるように筒美京平、大村雅朗がスパークする。 (ちなみにこの二人、メジャーネームであるが、沢田研二作品の提供はこれ以前も以後もほとんどない、ここだけの登板である) 80年代前半の沢田研二作品の底流にあるニューウェイブ風というお約束こそ守っているが、その音はどこまでもストイック。 「源氏物語」テーマなどというと、安易な作家なら、もっと和モノっぽいフレーバーを入れてしまうものだが、この音の世界観はそんなわかりやすく御しやすいものではない。 この音は、もっと不気味で、かぐろく、正体不明でありながら、清澄で淡々としたものである。 強いていうなら、鵺のような音といえるかもしれない。 無音を感じさせる音なのだ。 どんなに音が鳴りながらも、どこか、しんと静まり返っているのだ。 とにかく、特異で前衛的であるというしかない。 再三いうようだが、どうして沢田研二とそのスタッフがこのアルバムを作ったかということは良くわからない。 が、沢田の歴史のなかで異端の名盤であることには変わらないし、以前書いたように、こうした虚無感がCo-colo作品へつながる。 是非とも聞いていただきたい1枚である。 蛇足であるが、とはいえ、沢田研二、筒美京平といった歌謡曲の保守本流ど真ん中である彼らが前衛をも請け負わなくてはならないという、そこに、日本の音楽界の層の薄さというものを感じずにはいられない。 これは以後の中森明菜『不思議』であるとか、90年代後半の小室ブーム末期の小室哲哉作品などからも言えることなのだが。 もっとちなみにいえば何故今このアルバムを取り上げたかというと中森明菜の次作の仮題が「男たちよ」であるから、というのはあんまりの蛇足である。 |
2003.10.06