メイン・インデックス雑記>わたしの高校時代の頃


わたしの高校時代の頃


――――前段として「わたしの高校受験の頃」を読まれることをすすめる――――


かくしてわたしは県立E高校に入学することになる。
この高校は、自由な校風ということで県内でも有名な学校であったが、実際入ってみてそれは事実であることをわたしはすぐに知るようになる。
入学前その自由さから「E高は高校というよりも大学という感じに近い」という話を私は聞いていた。
大学生活を味わったあとに、この言葉を思い出すと「いや、さすがにそこまでとは」と少しばかり注釈をいれたくもなるが、 確かに、他の高校とくらべると断然の自由さがあったように思える。

校則はほとんど厳しいものはなかった。普通の制服を着ていればそれで問題ない。髪の毛も一時期延ばしたことがあったが、なにも注意は受けなかった。 そもそも生徒側の自主規制が行き渡っていて、何もいわなくてもそこそこみんなちゃんとしていて、崩れる子がほとんどいない。だから教師側もさして目を光らせる必要がない。実に上手い具合に噛み合っていたのだった。これは学業に関してもあてはまる。
(―――そういえば靴だけは黒系で。というのは若干厳しかったかな。私は栗色のちょいカジュアルっぽい靴が気に入っていたので、時折校門や体育館の下足入れのところで注意を受けたことがあったが、特に厳しくもなく一言いわれるだけだったので私は気にせず注意されたままの靴を履いていた)

E高には補習・追試の類がまったくなかった。もちろん、学力によるクラス分けなどもない。では進級が難しいというとまったくそうでなく、留年・中退した生徒は私の知る限りでは一人もいなかった。 8時半にはじまって、ぴったり3時半に終わる。その時点ですべての生徒が放課となる。部活や課外活動といったわずらわしいものも強制されるものは1つとしてない。 これがどれだけありがたいことだったか、私の通っていた都内の私立中学は1年の頃から追試や補講の嵐だったし、友人曰く県内の他の高校も大学進学を目指すクラスは補習・追試は基本であったと言う。少しでも進学率と進学する大学のレベルをあげようと躍起になるというのが一定のレベルの高校の普通であるが、しかし、E高校は違った。

授業をはじめ、学校から渡される副読本や参考書の類のすべては国立大学受験にしっかり対応したものであったが、それを飲みこんで自分モノにするかどうかは、全部生徒の側に委ねられていた。 生徒の側もそのあたりは弁えたもので必要ないと思えば内職上等。とはいえ、騒いだりして授業を壊すというマナーの悪いものは一人としていなかったし、定期テストで30点以下を取るという者もあまりいなかった。
この自由な気風は伝統に基づくものであろう。E高は夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台となった学校である。この小説を読むと、だろうなとおもわせる部分が多々ある。 この学校の3年間は今までのわたしの学生生活とはまったく違う自由なもので、いまでも心のなかに印象深く残っている。今の自分の人格形成のひとつになっているのでは、とも思っている。



―――高原君のこと―――

高校一年生の入学式。そのクラスに、そのA高校の受験会場でみた人をみつけた。
彼は高原君という人で、180センチを越える上背、彫りの深い整った顔立ち、なのになぜか校則でもないのに丸刈りという容姿はあまりにも印象深かった。
入学式翌日のレクエーションを終えてひと足はやく教室に戻ったわたしはなんとなく彼に話しかけて、そのまま友人になった。話してみると聡明なのだが、なんだか妙に変な思考を持っている人で、彼にしては大真面目なのだろうがその大真面目の部分が面白くって、わたしはよくからかい半分でくだらない言い合いをふっかけては遊んだ。

すぐ近くの大学の教授の父との2人暮らし、母はイギリス人で今は離婚して故郷に帰っているという。両親の複雑さからなのか、それともハーフというコンプレックスからなのか、彼はどうにも人との距離の取り方がヘタで、ラフなコミュニケーションがどうもスムーズに取れない。
特に女性に関しては恐怖意識のようなものがあるように見えた。
彼はハンサムな顔立ちで逞しい骨格なせいか、女の子にもてた。朝、教室に入ると彼の席にちっちゃく「好きです」なんて落書きがしてある。それを彼は恥ずかしそうにひっそりと消しゴムで消していた。
露骨に「付き合って」オーラをだしている女の子とかいると「もういいから一度くらいデートとかしてみたら」とわたしは吹っかけるのを「でも、まともに話したこともない人に好きとか思われるのって、なんか気持ち悪い」とか言う。
「見た目だけで判断されているような気がする」―――って、おいおい自分の見た目がいいこと知っているんじゃねえかよッッ―――とはつっこめなかったんだけれどね。

彼はどうも『普通の日本人』として見てもらいたくて仕方ないように見えた。悪目立ちしたくない、というか人ゴミにまぎれたい、というか。とはいえ、そうした強い自意識がより彼を悪目立ちさせるという悪循環に陥っていたわけなのだが……。
容姿から無駄に女の子にモテ、体格から喧嘩が強いと勘違いされ無駄に絡まれたりという事が多く、それがトラウマになっているようだった。
確かに女性の扱いも、運動神経も彼の場合はこと見掛け倒しそのもの。女性の場合は以上の通りであるし、運動神経に関しては以下の通り。

体育の水泳の時間。水が怖くて顔がつけられないと、彼はなんとも珍妙なクロールを披露した。鳥が水遊びでばちゃばちゃ羽ばたかせるような泳ぎ方。笑っちゃいけないんだけれども、顔に水つけられないって……。私を含めたクラスメートはみな実に微妙な気持ちでになった。
また「YAWARA!!」に影響されて入った柔道部。見た目から先輩から目をつけられたのか、しごきに耐えられず彼は1ヶ月ちょっとで部活を止めてしまう。―――で、そんな彼は私のいた文科系の部になぜか転がりこんできた。


彼は不思議とよくわたしに懐いていて、いつだったか、なにかの式典の時に母が高校の講堂でわたしとそのクラスメートたちの姿を見たのを、母がこう聞いたことがあった。
「あの背の高い丸刈りの子はなんて名前?」
「なんで」と、聞き返したわたしに「いや、△△(わたしの名前)の行くところ行くところに飼い犬のように後につつーってくっついてくるから。姿も目立つし」。

彼の行動様式に薄々気づいていてはいたが、やっぱり赤の他人からもそう見えるのかな、と試しにクラスメートに聞いてみたらそのほとんどが「そりゃ、そうだよ」との返事。
「あんなにわかりやすい動きもない」「親友なんだからいいじゃん」と。
そういう認識と周囲から見られていることにはっきりと気づいたわたしは彼の態度がちょっと暑苦しいな、と正直感じていたというのも一方であったので彼と距離を取るようになった。
私は、彼が話しかけてくる前に他の人に話しかけて盛り上がったり、なにかでペアを作る時にわざと他の友達と組んだりした。 今考えれば残酷なことした、とおもわず反省してしまう。

彼は色々な今までのコンプレックスで人との距離の取り方がヘタなだけで根っこのところは「ただ友達と仲良くしたい」というそれだけのシンプルな人だったと思う。しかし私は彼の不器用さに応えることが出来なかった。 スマートで居心地のいい友人関係しかなかった当時の私には彼を受け入れるほどの度量がなかったのだ。

年1回は向こうに行かなきゃいけないんだといって彼は春休み明けにはいつもイギリスのお土産くれた。それがなぜか日本でも買えるだろうこれ、という紅茶とかビスケットとかの類だったのだが、それを今だったら「ありがとう。向こうのものは違うね」などとの大人の態度が取れるものを、当時のわたしは「本場は違うだろ」って言葉に、「えーーっ。うちにあるカンカンのビスケットと同じだよ――っ」と応えをかえしてさりげなく傷つけちゃったしなぁ。

結局、航空券代出せば一緒にイギリスつれてってやるとまで言っていたのに、一度も行かなかったし。馬の乗り方とか教えてくれるはずだったのに。悪かったなぁ。
彼が父の後を継ぐべく大学院に入った頃「いつも彼は学内で一人寂しそうにしている」というのを風の噂で聞いたけれども。元気なのかなぁ。


そうそう。ちょっと今思い出したことを少し。
そんな女恐怖症の彼がおつきあいまがいのことをはじめようと企んだことがあった。その相手はわたしと仲のいい女友達。その人の名は仮に神野さんとしておく。
2人は何回かデートしたり交換日記(90年代ですぜ!!)をしていたようだが、そんなある日、彼女は交換日記を書きあげてノートを閉じる時にうっかり一本自分の髪の毛を頁にはらりと落として、それに気づかずそのまま渡したらしい。
と、翌々日返ってきたノートを開くと「感激しました」の一言と、彼の毛髪と思われし短い髪の毛がごそっと頁に挟まっていたという。

「ほら、恋人同士がお互いの形見と思って髪を交換し合うっていうあれじゃない」とのわたしに。
「て、今は戦国時代か」と神野さん。
「で、その形見は」
「ゴミ箱直行ですけれども」
「高原の乙女な幻想はゴミですか」
「いや、っていうか。ただひたすらに気持ち悪いんですけれど」
というわけで、高原くんの恋は儚くなってしまったのであった。


―――高校生のうぶなコイバナ―――


彼の預かり知らぬところでこう言い合っているわたしも相当性格悪い。とはいえこれは元々神野さんと私との仲がよかったというのが良くない。
彼女とはよく長い手紙のやり取りやCDとか本とか貸し借りをしていて、週末の多くは彼女と長電話をしていた。放課後に公園のベンチで無駄話していたり、一緒に本屋に寄ってこの本がとかいいあったりしていた。 そんな時に他のクラスメートと偶然ばったり会うとわざとお互い距離を取り合ったりしていて。で、「いや、別にデートってわけじゃないからさ」なんて二人揃ってクラスメートに言い訳した。
って、これって一般的にいって充分デートだし、高校生レベルでいえばそれなりにつきあっている状態にみえるよな。
とはいえ2人とも妙に男女であることを避けていたような感じがあった。うーん。うぶいなと微笑ましくなってしまう。

そうそうそう。ふと思い出したんだけれども、一度神野さんがこんなこといったことがある。 「わたしさ、昨日変な夢見ちゃって。真夜中自分の部屋で寝ていると、△△(わたしの名前)が窓の向こうにいて窓を叩いているの。で、窓を開けると△△(わたしの名前)が部屋に入ってきて、わたしに倒れこむのね。で、そこでビックリして起きちゃったんだけれど。△△さぁ、生霊でも飛ばしたんじゃないの?」
……これって、もしかして誘ってたんですか。それともただ単に夢の報告だったのですか。今でもわからんっっ。
わたしにゃ恋愛ごとの機微ってのがまったくわからんっっ。


そういえば高一のバレンタインの日も、そうだったなぁ。
掃除の時間前の昼休み。その時わたしは事務員室の掃除担当で、教室にはストーブがないところ、事務員室や職員室にはストーブが入っているからというので、暖を取りにいつも掃除時間前に入ってた。
で、ちょうど事務員さんたちがいなくて一人きりの時、クラスメートの女の子の3人くらいがやってきた。あれッ、ここの担当じゃないのにどしたの、と話しかけたら、綺麗な包装紙に包んだなにかをわたしに差し出した。

「みんなで△△くんに渡そうって」
「えっ、なに!?」とわたし。
「チョコレート。他の人に見つからないようにもってかえってね」
と素っ気なくいってじゃあね、と踵をかえす3人。

へっ!?まったく意味のわからない。狐につままれたような、というまさしくそれ。
最初はてっきりクラスメートの女子たち総動員で義理チョコ大作戦でも繰り広げられたのかと思った。教室に戻ったら、男子全員にチョコレートが配給されているんじゃないか、と。それくらいその時のクラスメートはみんなとても仲がよかったし。でもそんな気配はまったくない。
なんだったんだろうなぁ、アレ。3人はチョコレート作りダイスキ人間だったとか、ってそれはまずありえないよなぁ。あまりにももてないからとボランティアだったのかなぁ、恵んでくれたのかなぁ。
いや、渡しに来た3人のうちだれかが日頃秋波を送っていたとか、とりわけ仲良くしていたとかならまだわかるものの、べつに普通のクラスメートって感じだったわけで、なんとも不明。
だいたい「誰」というのがはっきりわかれば多少探りを入れられるだろうけれど渡す時「みんなで」ってどうよ。

セロファンやリボンやらで可愛らしくラッピングされたどう見ても手作りのチョコレートは確かにおいしかったけれど、そのままそのチョコの意味は謎なままに。
ということで、初のおかん以外のバレンタインチョコは義理か本命かもわからない私なのであった。(あ、ちなみに中学は男子校だったので中学時代はまったくないし、小学時代以下は、もらったこともあったけれどもそういう感情とは別だしねぇ) でもさ、もし本命ならメッセージ入れるか一人で特攻しないと高校生の男にはわかんないよぉ。もしそれなりの意味があったとするなら、俺もうぶいが相手もうぶい。


と、男の人ってばホントに鈍感なんだからっっ。みたいなエピソードばかりなのでアレだが、これはさすがにわかった、というのはあった。
ある日クラスメートの女の子との会話からさりげなく「吉野さん、そういえば△△くんとなら付き合っていいって、いってたよ」の言葉。
これで気づかないほど馬鹿じゃない。たしかに吉野さんとは親しくしていたし、彼女も色々と自分に合わせて一緒につきあってくれている感じがあった。でもそういう対象とは見ていなかったし、友達の気楽さでいたい私はさりげなくスルーした。
これは失礼な作法なのだろうか?

とこんな甘酸っぱいことばっか書いていると自分、まるで高校時代モテモテだったみたいに見えるけれども、そんなこと絶対ありませんから。灰色の季節でしたから。 ほらアレよアレ。もてないやつほど「俺ってモテモテ話」するの法則。少ない記憶をかき集めて、でっち上げている、という。
みなさんはもっと若い頃にこんなうぶうぶなこと私の何倍も経験して高校生時分にはとっくに卒業しているでしょうが。 って、こんなコイバナしてても仕方ないわな。あー、はずかし。なんでこんなこと書いているんだ、俺。
恥ずかしさにいたたまれなくなったので話をずらす。


―――斉藤先生と野中先生―――

授業を請け負う教師も個性的で自由なスタイルを持っている者が多かったような気がする。 その中でも印象深いのが、高校1年の現代社会を担当してもらった斉藤先生と国語の野中先生だ。


斎藤先生は学校でも名物教師の一人だった。普段は世界史担当なのだが、彼の授業を受けたいという理由で世界史を専攻する生徒が殺到していた。フケだらけのぼさぼさの髪にずんぐりとした体型、とても思春期の生徒に人気が集まるとは思えない冴えない風采だが、彼が生徒の人気を集めることは彼の授業をを体験してすぐわかった。 トークの引きがものすごく強いのだ。
斉藤先生はなぜかわたし達の一クラスだけ現代社会を担当していたが、クラスメートのほとんどが彼を密かに愛していたと思う。
彼は現代社会の授業をまったくしなかった。すくなくとも教科書や参考書を使った授業は一度もなかったと思う。
私たちの教室の上の階にある視聴覚教室が開いていればそこで映画の鑑賞、どこかのクラスが視聴覚教室を使っている時は普段の教室で彼の独演会、という授業が半年続いた。
映画は「ひまわり」、「スパルタカス」、「生きる」、「学校」などの名画が多かった。彼はいつも、映画をかける前に短く見どころを解説する。彼の言葉には不思議な魅力があった。頭のなかに絵が見えてくる。そしてはやくその場面を映像として確認したくなるのだ。

また斉藤先生は、生徒との交換日記のようなこともやっていた。
1年の最初の授業時に斉藤先生は「授業中、なんでも思ったことをノートに書いてください。授業とまったく関係ないことでも構わないし、もちろんなにも思わなかったら書かなくてもいいし、落書きでもなんでもいい。ただそのノートは時々回収するので、私に見せるものと思って、書いてください。ノートチェックは成績にはまったく関係ないので本当に自由に」こういった。

わたしは昔から書くこと大スキ野郎だったので、授業に関係あること、ないこと織り交ぜて色々と生意気なことを書き綴った。
ノートは返却時、赤ペンで先生からのコメントがついてくる。 彼から返ってくる言葉で興味深いものには、それに対してさらに意見を返したりもした。他の生徒が先生とのノートのやり取りをどう思ってたのか、私はよく知らない。 ただ、わたしは赤ペンのコメントが多ければ多いほど、嬉しかった。


二学期の中頃に入ると授業は「生徒の研究発表」の場となった。
「なんでもいいから、哲学的・思想的なモノをテーマに研究して私とクラスメートを相手に50分の授業をしてください」
斉藤先生はそういって、スケジュールと発表順を決め、生徒に授業を任せた。
全員が持ちまわりで1時間弱を回さなくてはならない。 グループでも、個人でやっていいし、思想的だと自分が思ったのならどんなテーマでもいいという。私は自由にのびのびやりたいと思ったので、一人で発表することにした。そしてはテーマを「『中島みゆき』という思想家」とした。

当時既に数多く出されている中島みゆきの評論本や一般的な歌謡評論に目を通していた私は、それをもう一度図書館からまとめて借りなおして、必要なものはコピーをとり、授業時黒板に書くこととトークにするものをノートにまとめ、配布用のレジュメを作成して、OHP用の表図を作成して、授業に臨んだ。 そういえば、発表の当日の早朝に、ピックアップする歌詞を中島みゆきの歌詞集「愛が好きです」から選んで、自宅にあるコピー機を駆使してレジュメを作ったのを覚えている。この時もスケジュール的に結構ギリギリだったんだよなぁ。

ほとんどの生徒が50分の授業の間が持たず、20〜30分が先生からの発表者への質疑応答や講評、さらに時間があればいつもの独演会という感じだったのを見ていたので、私は時折先生に話を振り彼に意見を求めたり、クラスメートに「Yes・NO」の挙手でわかる簡単なアンケートを発表の合間で何度も取ったり、教壇のあちらこちらと動き回ったりと、飽きさせないようにと無駄に戦略を練り、大奮闘で50分のほとんどを発表に使った。 先生が「みんなには判らない部分もあったと思ったけれども、私はとても面白かった」と一言だけ言ったところで終礼のチャイムが鳴った。 結構手厳しい講評をいただく人も多かったので私はその言葉にひと安心した。 そんな私の必死の姿が面白かったのか、その発表はクラスメートにもとても評判がよかった。

他の生徒の発表で覚えているのは「ドラマ『素顔のままで』に見られる女性の友情とその範囲について」、「諸葛亮孔明の『天下三分の計』という思想」(――この回は、『天下三分の計』はたして思想といえるか否かで生徒のあいだで白熱した議論となった)、などくだけたものもあれば「老荘思想」を大真面目に発表した人もいた。 今思うと、なんとも可愛らしく、真面目で牧歌的な風景だなぁとしみじみ思ってしまう。ある意味理想的な学校風景だったといえるかもしれない。

もちろんこんな授業ばかりで、現代社会の成績が上がるはずはない。中間・期末考査2、3日前にはテスト対策という名の自習がいつもであったが、それでもクラス平均は他クラスより10点は開いていたという。 それを何も面白いということもなく、先生は淡々と報告し、わたし達もまったく気にもとめなかった。

一度、いつもの独演会のなかで、以前勤めていた養護学校の生徒のことを内部の実情をまじえながら、時にしみじみと時に面白おかしく話したことがあった。
本当は優れた生徒が集まる学校よりも養護学校で彼は教鞭を執りたいのではないかな、その時の話に、私はなんとはなしに感じた。

高校二年になると社会の専攻を日本史か世界史に選ばなくてはならない。クラスメートの多くが彼との授業を望み、世界史を選択していた。しかしわたしたちはふたたび彼の授業を受けることはできなかった。4月、斉藤先生は養護学校に赴任することになったという知らせをわたし達は聞く。それに「やはりな」と私は感じずにはいられなかった。 わたしはなんとはなしにそれを予感して日本史の専攻にしていた。



野中先生の授業も不思議なものだった。
A高出身で東大卒というのに、なぜか県立の高校で国語を教えているという彼。日本文学と漢文に対する独特の見識を持っていて、教科書や学校指定のテキストを使った授業もそこそこ行なってはいたのだが、今彼の授業でわたしの記憶に残っているのは彼の文学意識に関することそれのみである。
彼は自らなにかの文学者の評論やエッセイなどの小文をプリントに起こし、それを生徒に読ませ意見を求めたり、グループごとの文学作品の研究を強い、発表させたりというのを頻繁に授業で行なっていた。
特に谷崎潤一郎の美意識への共感が強いようで、なにかというと「陰翳礼賛」を褒めていたのを今でもはっきりと覚えている。 彼のハイタッチな授業に辟易とする生徒も一方ではいたものの、私は彼の授業に好意を持っていた。私も彼につられていっぱしの意見を口にしていた。曰く

「この作者は『死』を時間軸の外に屹立と存在する絶対的なものとみなしている。『死』をもってこそ自らの作品が『永遠に欠けない美』たりうるという幻想。ゆえに作者は作品の完成度をきわめるにあたって『死』を物語の最後に配置せざるをえなかったのではなかろうか。しかしそれは果たして正解なのか。作者が後年自殺という路を選んだという事実に彼が自身の作品に忠実に生きたということは確かだろうが、それを肯定することは私は出来ない。なぜなら私は自殺を認めないからだ」
こういったことをういういと彼の目の前で語っていた(―――考えてみればこの頃から全然変わっていないな、自分)。
受験勉強とはまったく関係のない授業であったが、とても楽しかったという記憶がある。

彼の担当から外れてしばらく、文化祭でふと彼と10分ほど話したことがあった。 私はそれまで彼に自分のプライベートなことはほとんど話さなかったし、その時も特にあたり障りのない話であったが、話の途中でふと大学の進路の話になった。
「どうせ○○は、法学部とかあたりさわりのないところ受けるんだろ」
と彼は私に言った。私は答えに窮した。
なぜならその時の彼のその言葉になにか屈託のようなものをわたしは感じたからだ。

どう答えを返したのか、私は覚えていない。ただ彼が今の自らの境遇に自嘲の色を持っているのかもしれない、ということを感じたということだけを私は覚えている。 東大にまで出たくせにつまらぬ文学などに足元をすくわれ、今は高校教師。なにもわからぬ生徒相手に一人熱く語っている自分。それにつきあってくれる生徒もどうせ過ぎ去り、自分のことなどすぐ忘れていく。彼は一方でそう自分を見ているのでは、となんとはなしに私は感じたのだった。
そして、そうした彼の屈託をさしむけられる程度に私は彼にみこまれているんだ、ということもその時了解した。

「文章を読むのも書くのも好きだから、文学部にしようと思っています」
そういえばよかったな、今はそう思う。実際その通り文学部に進学したわけだし。



―――自由に慣らされて―――


この自由に雰囲気に飲まれて、私は勉強をするということをすっかり忘れてしまった。
勝手に理由もなく、学校を休むようにもなった。クラスメートにはあらかじめ「あした休むわ」などと呑気に連絡していたし、 学校に連絡せずに休んでも問題なし。教師も教師で朝の出席確認で「○○はいつもの通り、欠席」といっていたと言う。

で、学校を休んで何をしていたかというと、そのほとんどが私は家で本を読んでいた。 今の私に必要なことは学校にきちんと通うことではなく、今この1冊の本を読むこと。半分本気でそう思い、私は休んでいた。
もちろん無秩序に休んでいたってわけじゃない。きちんと自主休暇の日はスケジュールを組んで、クラスメートにあまり迷惑のかからないように、あるいは曜日を偏らせて出席日数の足りない教科がでないように、と自分なりのバランスはとっていたことをはしっかり弁明したい。――とはいえ、こんな生徒を模範にしちゃいけませんよ、そこの人。

それでも入学時の学力のストックと、自分の好きな時に好きなものだけ興味本位で勝手にする学習法と、場の空気を考えず物怖じせず教師に対して意見する、というスタイルで不思議と「頭のイイ人」の立位置にわたしはいたような気がする。 勉強の相談のようなことや、あるいはプライベートな相談のようなものもよく請け負っていたような気がする。

あるクラスメートの「親が不仲で自分の居場所がない」という相談に「親が自分に愛情を注ぐのが当然と思っているから自分が不幸に感じるんじゃない?それが普通だと思って自分勝手に生きてみれば」とアドバイスした私を「なんか他人事みたい」といわれた記憶がある。(いや、私にとって見れば他人の親との確執など確かに他人事なのですが……)

数学では、模範解法以外の解き方をあえて披瀝したり、いきなり中間や期末の考査で、ある科目だけいきなり最高得点を叩き出したり―――もちろん、次回はやる気がなくなりだだすべりになる。課題研究発表ではあえて他の生徒にはわからないであろう―――もちろん自分もホントのところはわかっちゃいない、テーマの掘り下げかたをしたりした。

とはいえそんな自分勝手な勉強では、受験勉強になどまったく対応は出来ない。 高校2年の修学旅行を終える頃になると少しずつクラス全体が受験モードに変わりつつあるのに、わたしはいつまでものほほんとやっぱり小説や漫画を読んでばかりいた。
私にとって大学生になるというのは途方もない未来のことのように思えて、その時が刻一刻と近づいてきているということなどまったく実感がなかった。
受験勉強の向こうに待っている世界よりも萩尾望都の夢の向こうの世界のほうが、どれほど当時の私にとってリアルであったか。
こんなふざけた生徒が受験に成功するはずがないが、自由な校風はこうした生徒を卒業まで野放しにした。
結局受験は失敗し、私はのほほんと学校から片足はみ出たまま直ることなく、この学校を卒業する。
私は高校の卒業式に出席していない。受験のついでに東京や埼玉の友人と遊びたくて、そのまま東京に居たかったからの欠席にすぎないが、その欠席がなにか象徴のように、今改めて振り返るとそう思える。



2004.12.24
落ち葉拾いのインデックスに戻る