―――新たな旅たち――― Brand New TOKIKO。 この言葉がまず頭にひらめいた。 デビュー40周年となる記念のニューアルバム「今があしたと出逢う時」は彼女にとって本当の意味で新しいアルバムといえる。 彼女の近年を振りかえる。 「20世紀」というこれから過去になろうとする時代と自身のレパートリーを重ね合わせた「さよなら私の愛した20世紀たち」という10枚組のアルバムシリーズの刊行を97年から2000年まで加藤登紀子は行い、過去を総括した。その流れのまま自身のヒットソングを歌い直した2001年の「My Best Songs」まで制作する。 この時点で彼女の21世紀という新たな時代へのスタートアップの準備は整っていた。しかし、その直後、最愛の夫・藤本敏夫が病魔に襲われるというトラブルに彼女は見舞われる。 一歩ずつ死の階段を降りていくように衰弱していく夫の姿を見つめながら作られた2002年の「花筐」、さらにその後の「沖縄情歌」は彼女にしては珍しいほど方向性を見失っていたようにみえる。 新しいアーティストとの出会いや、それなりのエポックはあったが、その先にあるものが私には見えなかった。(「沖縄情歌」は、加藤登紀子が沖縄に住む三女・美穂)や、沖縄歌謡を歌にしている次女で歌手のyaeのもとに身を寄せた繭ごもりのアルバムと私は解釈している。) 気丈な彼女もさすがに藤本氏の死去は大きな痛手であったようだ。けして弱い部分を世間には見せず、ポジティブで精力的な姿をそれでもわたし達に見せていた彼女であったが、作品から少なくはない危機を私は感じていた。明るくあろうとすればするほど、どこか欠けた部分を感じずにはいられなかった。 「さよなら私の愛した20世紀たち」から夫の死去と続いた彼女の過去へのベクトルのままに歌手としての彼女もまた収束していくのではないか、という危惧がわたしにはずっとあった。 しかし、このアルバムでようやく彼女は新たな旅立ちを迎えることができたようにみえる。 このアルバムはいつもの加藤登紀子でありながら、何もかも新しい ―――「今があしたと出逢う時」――― このアルバムのテーマは過去の鎮魂と今の覚悟、そして未来への疾走であろう。 このアルバムは全4章立てとなっている。第1章 が「レクイエム」であり、続いて「未来」、「愛」となり、最後が「いのち」となっており、各章ごとに3曲というまとまりになっている。 それぞれの章をかいつまんで説明すれば「レクイエム」は藤本氏への鎮魂、「未来」は運動家であり、エコロジストの藤本氏が社会に向けて彼女に向けて託したもの・残したもの、「愛」は一人身となった加藤登紀子自身、といえよう。 これら三つの局面においてを過去と今を内省的に見つめなおし、それらは最終章「いのち」で、未来への希望と覚悟いう形へ収束していく。その全体を一言で表して「今があしたと出逢う時」というわけだ。 それは歌詞カードの前文「旅人の残したもの」という言葉に象徴されている。 全てがゼロに帰った時 一度に人生の全てが見える これはまさしく藤本氏の死去という事実を踏まえての文章であろう。 彼女はこのアルバムの制作にあたり、藤本氏から残したものを全身で受けとめ、これからも全力で生ききってやる、そう決意したのではなかろうか。 「もう大丈夫、後ろは振り返らないから」 自分にも亡き夫にもそう言い聞かせて、過去すべてを誇らしく胸におし抱いて、真の意味で新たに飛び立とうとする加藤登紀子の姿がリスニング後、鮮明に私の脳裏に残る。 もう60歳を越え、これから、あと何年歌手でいられるかわからない。だけれど、走り続けられるあいだは全力で走り切ってやる。 限られた時間を全て歌に生きてやる。しのごの迷っている暇はもうないんだ。 これまでよりもぐっとシンプルにぐっと直接的にぐっと骨太になった歌たちにそんな彼女の熱い気概を私は感じる。 歌手・加藤登紀子はこれからも歌い続けるという確信の1枚といっていいだろう。 そうした作られたこのアルバムは結果、「未来を信じ「今」という時代の苦難に立ち向かうそれぞれに向けての力強い応援歌」として聞く人の耳に届くはずだ。 ―――各曲小解説――― 他、各曲について思いついたことを少し。 まず1章「レクイエム」から。 オープニングを飾る彼女の代表曲「知床旅情」からすでにその新しさに驚いてしまう。 こんなに新しく、若々しい「知床旅情」があるのか、と。プレイボタンを押してすぐのことに私は驚きを隠せなかった。 はじめてこの歌を録った71年のものよりもこのトラックの加藤登紀子は若い。 特にものすごい変わった趣向が音にあるというわけではない。だが、まるで生まれ変わったのような新しさが今回の「知床旅情」にはある。夜明けのごとき晴れやかさだ。 ただの40周年記念に吹きこんだという安易さはまったくない。歌手として40年経とうとも歌手とし新しくありつづけようとする彼女の姿勢がこの歌を生まれ変わらせたのだろう。 ちなみに、加藤登紀子の最大のヒットである「知床旅情」は藤本敏夫の愛唱歌であり、彼の歌声から自らのレパートリーに組みこむようになったというのは自著「青い月のバラード」に書かれていることである。 この曲が今回のアルバムの冒頭である、というのは象徴的だ。 「絆 ki・zu・na」はまさしく藤本敏夫を歌った歌といっていいだろう。 ひとりの男の生と、彼が残したものをそのまま歌にしてる。加藤登紀子は飾りなしに愛する男のもう届かない心に手を差しのべようとする。その切なくも暖かい姿にどうしても心を打たれてしまう。「加藤登紀子ってのはいい女だな」母よりも年上である彼女だが、そう思わずにはいられない。 このアルバムの象徴する1曲のひとつといえる。ちなみに作曲はゴスペラーズの村上てつやと妹尾武。 「花よ風よ」は登紀子の娘yaeのファースト・アルバム「new Aeon」に収録の1曲であり、登紀子にとってはじめての娘の楽曲のカバーであるが、さすが母は強し、ここの加藤登紀子はyaeの世界を見事に凌駕している。 yaeの歌の決して悪くはないが、加藤登紀子のスケール感は段違いだ。さすがとyaeも思ったのではないだろうか。これは40年のキャリアの大歌手とデビュー数年の新人との技量の違いなのだから仕方ない。 yaeもこんな大きな歌手になってほしいものだ。 一方、加藤登紀子が歌うことでyaeのソングライティング能力を再認識させられたというのも確か。いい歌だな、と思うことしきり。 「あの娘は歌手としてやっていけるかね」などと舞台袖で珍しくやきもきしていた藤本氏に「大丈夫。わたしたちの娘はこんなにも大きく成長したのよ」と教えるためにここで娘の歌を歌ったのかもしれない。 2章「未来」は藤本氏と共に運動していた環境問題や社会問題に関する強いメッセージソング。 これを彼が自分に託したものとして、加藤登紀子はけれんもなく堂々と歌う。 「Revolution」は89年『エロティシ』に初出の作品。パリのユネスコホールで披露した歌でもある。 400年前の森を切り刻んで このメッセージはそのまま今の時代の告発といえる。 「Never give up tomorrow」は96年の『晴れ上がる空のように』が初出。 今回はホーンセクションを前面に出していてスピード感があって心地いいアレンジになっている。 時代の悪魔に振りまわされて 勝った負けたと 「Can't stop running」は今回初披露の新曲。
それにしてもここまで時代に噛みつくプロテストソングを歌える60歳というのもすごい。若すぎる。以前よりもメッセージ性はよりストレートになっているんじゃないのか。 3章「愛」は伴侶を失った孤独と、それでも希望をもって生きつづける加藤登紀子という個人の姿が見える。 「Songs for you 愛の歌を」。「さよなら私の愛した20世紀たち」シリーズ7作目「TOKIKO L'amour 2 Songs for you 愛の歌を」に初出の作品で個人的にも大好きな作品。
春の大地に生を謳歌しながらも、一方で死者を静かに悼む歌であるが、なぜこんな歌が生まれたのか、当時の私はわからなかった。この時のためにこの歌があったのかと今になったわかる。歌が現実に先行するというのはよくあることだ。 それにしても大海のようでもあり草原のようでもある大きな広がりのあるピアノの音が心地いいし、弦のピチカートも心躍るよう。 面白いのが、原田真二作・編曲の「薔薇と月」。 このアルバムにあって異色な作品。なぜいま原田真二なのかという理由はよくわからないが、これがいい。 「花の都に花のころ 薔薇が月に恋して 月が薔薇を愛して」という加藤登紀子の詞もいいし、 シノワズリなメロディーラインに原田真二との声の掛け合いも心地よい。もしかしたら、松田聖子よりも相性がいいんじゃないかな。彼のコラボでもう1曲聞きたい。 「檸檬」は私小説的な作品。死の直前の藤本氏と一緒に植えた檸檬の木がある日、花を咲かせ、小さな実を結んだ。 止まったままと思っていた時間は死んだ彼だけを取り残して無情に過ぎていることに気づく。 なにひとつ変わらない 何もかもあの日のまま 老境の別離というのは涙枯れるほどの激情はないが、汐が満ちるようにあとから孤独がひたひたと押し寄せていく。暖かだが悲しい。今の彼女の年齢であるからこと生まれた枯淡の境地。これからの登紀子は一方でこういう歌を歌っていくようになるんだろうな。 4章「いのち」は今という時代から未来へ投げかける歌が並ぶ。 タイトル曲「今があしたと出逢う時」。これは名曲だ。 今まで自分を培ってきたもの。自分が培ってきたもの。そして共に歩いたもの。未来永劫と続けていかなくてはならない「絆」という名の命のリレー。老境に達した彼女であるからこそ歌える歌だ。 「愛の日々を重ね あしたを越えていけばいい」繰り返されるこの言葉が重い。 それはこれからの自分へ向けてのメッセージでもあるし、我が子へのメッセージかもしれない。これからの未来への全てへのメッセージであろう。 「自由に生きるってどんなことだろう」。これは痛快。多分、加藤登紀子と同世代の男たちへ向けた応援歌なんじゃないかな。 かつて学生運動に励んだ若者が、長じてくたびれた定年間近のサラリーマンになった。そんな弱気になった彼らを登紀子は奮い立たせる。
かつてのフォーク系シンガー達が捨て去ってしまったこの率直で卑近で痛烈なメッセージ性を彼女だけがいまだ持ちえていると言うのは不思議なものだ。 かつて学生集会に集って大声で歌ったように、この歌はほろ酔いコンサートでは会場全員で歌われるんじゃないかなぁ。 「Now is the time」。 ラストは自然愛、人類愛を歌った壮大なメッセージソングである。これも重い。名曲といわざるを得ない。わたしは黙って拝聴するのみ。 それにしてもサビの「人はこの世で生きる全ての生命を愛せる ただひとつのもの」というのは見事な一言だ。 人類の起こしてしまったいままでの様々な過ち。もしかしたらもうダメなのかもしれない。でもそうではない。人は憎しみや破壊だけでない、全てを愛し、慈しむことだって出来る。人は全ての種を命を愛せるただひとつの生き物なのじゃない、と加藤登紀子は呼びかける。悲しみの果てにそれでももう一度やりなおせるかもしれないと人の顔を前に向けさせることの出来る、そんな力強い歌だ。 これからの時代、単純な「明るい希望」などただの嘘っぱちにしか映らない。だけれども人は希望は捨ててはいけない。 どんな暗闇にあっても希望の光へむかって歩いていかなくてはならない。 加藤登紀子は挫折や苦渋の後にも残る本当の意味でのメッセージソングを手に入れた数少ないアーティストなんだなということをこの曲を聞いてわたしは再確信した。 |