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「難破船」から遠くはなれて

〜加藤登紀子、中森明菜ふたつの「難破船」〜


 楽曲を提供する側・楽曲を提供される側、歌手をこのふたつに大別したとすると、加藤登紀子は自ら作詞作曲をするにもかかわらず、どちらかというと、後者にあたる。
 「知床旅情」「琵琶湖周航の歌」「愛のくらし」「この空を飛べたら」「ANAK」「百万本のバラ」「島唄」……。カバー乃至、他のアーティストからの提供曲によるヒット曲のなんと多いことか。
 もちろん、高倉健、沢田研二、石原裕次郎、和田アキ子など、加藤登紀子から楽曲提供を受けた乃至カバーした歌手もないわけではないが( それにしても大物ばかりだな )、他の同時期に活躍したフォーク・ニューミュージック系アーテイストと比べると、多いとは決していえない。

 加藤登紀子の曲提供というのは、する時もされる時も、「書いてあげる / 書いてもらう」といった主従の関係というよりも、同じ土俵にいるアーテイスト同士が、エール交換のように曲をシェアしあう、という雰囲気が強い。
 それは佐藤隆や長谷川きよし、河島英五、中島みゆき、浅川マキなど自作自演型アーティストとの時はもちろん、作詩や作曲をしない歌手専業型のアーティストの時でもまた、そうなのだ。
 加藤登紀子は精神交流があってはじめて、その人の曲を歌い、あるいはその人に曲を贈る。加藤登紀子は作詩も作曲もするが、いわゆる「商業作家」ではないのだ。

 そんな加藤登紀子が他者に贈った曲で、最大のヒット曲が中森明菜の「難破船」である。
 84年12月リリースの加藤登紀子のアルバム『最後のダンスパーティー』にはじめて収録されたこの曲を中森明菜がカバーし、シングルとして発売したのは87年9月である。
 ちょうどレコードからCDへの転換期で、シングルの売上がもっとも低迷した年のリリースであったが、最高位1位・41.3万枚の大ヒットを記録した。
 明菜へこの曲のカバーを薦めたのは、もちろん加藤登紀子自身である。
 「難破船」を歌っているうちに加藤登紀子の脳裏に、中森明菜の姿がちらちらと映った。
 「これは明菜ちゃんの歌なのでは」
 そう思った加藤登紀子は中森にテープを渡して、歌ってみてはと、薦めたのだそうだ。
 ちなみにこの時、ふたりの面識はあまりなかった、一緒に出演する歌番組で挨拶する程度だった、という。
 それなのに、なぜこの歌は明菜の歌と、加藤登紀子は思ったのだろう。

 87年、中森明菜は、デビュー以来の長年の恋人・近藤真彦との別れの予感に震えていた。
 そして、この歌を作った84年、加藤登紀子もまた、夫である藤本氏との別れの予感に震えていた (加藤登紀子の自著「青い月のバラード」、Seeds Net vol.22 「逡巡 〜80年代の加藤登紀子 後編〜」を参照)
 別れに怯えていた加藤登紀子と中森明菜、ふたつの魂が不意に共振した。それが「難破船」という歌に結実したのではないか。わたしはそう思っている。

 明菜、登紀子ともにその後何度も「難破船」を歌い直ししている。
 中森明菜には87年のシングルをはじめ、95年の『true album Akina 95 Best』、07年の『バラード・ベスト』と、3つのバージョンの「難破船」が存在する。
 一方、加藤登紀子は、初出である84年の『最後のダンスパーティー』をはじめ、91年の『TOKIKO SONGS』、99年の『TOKIKO L'AMOUR I 愛の讃歌』、01年の『My Best Song』と4つのバージョンだ。
 それぞれのバージョンにはそれぞれの魅力がある。
 『バラード・ベスト』の「難破船」に、オリジナルの歌唱にはない力強さが漂っているな、と、感じたり、『My Best Song』収録の「難破船」の、ポルトガルギターメインのアレンジメントに、この歌は登紀子流のファドだったのだなと、はっと気づかされたり、新しい発見もそれぞれある (「難破船」は、アマリア・ロドリゲスの「難船 Nausragio」をお手本にしているのではないかとわたしは睨んでいる) 。
 もちろん、歌い重ねることにでてくる深い味わいというのも当然見受けられる。
 とはいえ、この歌は、それぞれのオリジナルバージョンこそがベストである、と、わたしは感じる。
 加藤登紀子と中森明菜、それぞれの虚と実が重なったその瞬間に生まれるフラジャイルな美しさがオリジナルバージョンにはあるからだ。

 船夫を水底にひきずるセイレーンの歌声となって「あなたを海に沈めたい」と絶唱する、激しさと悲しさと愛しさが同じ質量で怒涛のように逆巻いて押し寄せる、これが「難破船」という歌である。
 それを歌わずにはいられない―――ぎりぎりの切迫感が、それぞれのオリジナルバージョンには、漂っているのだ。
 それはあの時の、愛の破局に怯えていた加藤登紀子、中森明菜でなければけっして表現できなかったといえるだろう。

 その後――。
 別離をどうにか回避して、彼の最期まで添い遂げた加藤登紀子。
 別れに深く傷つき、自暴自棄になった日々もあったが、長い年月をかけて自らを回復した中森明菜。
 その結末はまったくの逆であったが、ともにふたりとも、あの場所からもう随分と歩いてきてしまった。
 あの時の、鬼気迫る歌唱はもう出来まい、と、思う。
 ふたりの歌う「難破船」にはもう歌の妖怪 (ドゥエンデ) はひそんでいない。
 それで、いい。
 私たちはそうやってすべてを過去の笑い話にして歩いていく。

 もしいま加藤登紀子が中森明菜に、20年前のあの時のように「あなたにぴったり」と、自身のレパートリーから薦めるとしたら、一体なにを薦めるだろうか。
 「Song for you 愛の歌を」だろうか、「のばらの夢」だろうか、「薔薇と月」だろうか、「18の頃 〜Chez Maria〜」だろうか、わたしはふと夢想する。


(初出 加藤登紀子ファンクラブ会報「Seeds net vol.24」2007秋号)

2007.10.10
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