ごめーーーん、全然共感できなーーーい。 主人公の高杉晋作、こいつ、俺キラーーい。 (―――あ、ちなみに私、幕末史に対する興味薄なのをご承知の上、拝読を。大学受験レベルの知識しかありません) 少年時代の高杉晋作のヰタ・セクスアリス、ぶっちゃけ初恋やおい物語なんだけれどさぁ、なんっつーかさぁ、「こいつ、ただの一人上手??」 つまりは「若き日の高杉くんは美少年の久坂玄瑞くんに勝手に恋して、勝手に一人で悶々として、だけどチキンでなんのアクションもしないままの学生生活が続いて、で、いつのまにか時が過ぎて、さらっとその辺の女で童貞を捨てた高杉くんが長崎遊学帰りの久坂くんにひさしぶりにあってその容姿の変貌に『もう、可愛くねーなー』と勝手に心のなかで彼をフりましたよ」という話であって、もうお父さんブチギレですよ、なんだこいつの何様ぶりは。 イカ臭い童貞野郎のひとりよがり感満載ですわ。 そういった恋のえらそうな一人上手っぷりも厭だけれども、それ以外にも物語の端々にみられるこいつのコンプレックスの裏がえしの妙なエリート意識も鼻持ちならない。お前まだ何者でもないガキの癖にナマいってんじゃねぇーよ、とどつきたくなる。 結局この子って自分大好きなんだよね、自分大好きを補填するために誰でもいい相手に恋をして、なんでもいいからのしあがってやる、っていう。本人は気づいてないけれど、あんたなんでも誰でもいいタイプでしょ。 最後は幕末モノっぽく青雲の志で締めていますが、なんかぜんぜん納得いかね―――ッッ。 南條センセはプロの作家として盤石の筆力を持ってらっしゃる方だから、文章からただようリアリティーとかそういった部分は完璧なんだけれども、なんか自分と関わりのない物語かなあ、私は思った。 これは一種の成長小説みたいなわけなんだろうけれど、「少年時代とはえてして一人上手であって、なにも事件など起こらない」というのが著者からのテーマだったのかなぁ。 確かに少年時代なんっつ―のはそんなものかもしれませんがね。何事もコップの中の嵐で退屈でダルくって自己満足で。とはいえ、そんな愚かさを愛しむことができるほどまだ少年時代から遠くにいない自分にはだめだわ。なんか主人公に対してむかつくだけ。 なんとなくこの小説は高杉晋作の小説というよりも、高杉晋作というキャラに仮託した私小説的青春小説なんじゃないかなぁ、と思った。 ここに描かれているあらゆる情景は若き日の南條範夫が見た個人的情景が根本にあるのでは、そう感じた。小説にあわせた史実の壊し方などもうだし、そのほかにも個人的なものに基づいてなければいまいちのみこめない部分が小説のなかに多々あるし。 この作品が「鷹と氷壁」→「城下の少年」→「少年行」と改題、改稿されまくって、著者の偏愛を受けているところなどからみても、自分語りモノなのでは、と睨んでいるわたしである。 と、ここまで書いたのがひと月ほど前。 以来、なんでこの小説がこんなにやおいなのにこんなに自分とフィットしないのかなぁ―――とぼんやり考えてみて、今わかった。 高杉晋作が久坂玄瑞を「オンナ」として見ているからだ。 この「オンナ」とは生物学的な「オンナ」でなく社会学的なジェンダー的な「オンナ」ね。 「俺のオンナに手を出すな」という時の「オンナ」。 勝手に軽蔑したり、勝手に崇めたてまつったり、犬を飼うように可愛がったり、品評会で優劣を決めたり、ダッチワイフで性処理をするように愛する、そんな「オトコ」にとっての「オンナ」ね。 つまり、手前勝手な欲望の受けとめる客体としての存在でしかないわけよ、ここの高杉晋作にとっての久坂玄瑞という存在は。 姿形の女性的な優美さ、上品さを持ち、聡明であるが、ひかえめで平凡な思考の持ち主。美しいが、自分よりは能力が下の御しやすい人間として高杉は久坂を常に見ている。 その優位性を前提に彼は自身にある妄想を相手の斟酌なしに重ね合わせ、勝手に一人で酔っているのである。 そして久坂玄瑞の長崎遊学から帰郷した時点、――――学問や政治に関して本格的に開眼、彼の女性的な容姿が成長によって薄れた時点で高杉のなかにある彼への恋心を失うわけである。 ―――つまり久坂が自分と対等な能力を持ちうると自覚した時点で、高杉は無意識に自己の欲望を受けとめる客体である「オンナ」として久坂を見ることをやめたわけである。 果たしてこれが恋といえるのだろうか、と思う。 「そうやって好き勝手に妄想の色眼鏡でみるのはいいけれど、実際の私はここにいて、聖女でもなく、娼婦でもない、ただの普通の人間としてここにいるのになぁ」 世の男性たちの手前勝手な欲望に辟易しながら、本音を飲みこみ、時に望まれた役割を演じる女性たちと同じように、私が久坂であればこんな言葉をつぶやくと思う。 せんじつめれば、高杉のこの若き日の恋というのは典型的な男性原理社会における典型的な男性の恋(なのか!?これが!?)なのだろう。 と、もう一度作品を読み返すと、誕生の瞬間―――産道から自らが這い出る時の記憶のトラウマというのがこの作品の象徴として何度か出てくることに気づく。 この産道での記憶は物心がついてからずっと高杉を苦しめる深いトラウマである。しかし、久坂への恋慕が消えた時、そのトラウマは綺麗に霧散する。 この物語は出生の記憶(―――つまり母体から切り離された時の記憶である)が解消されるまでの物語といいかえることも出来るわけで、ということはつまりはこの物語は「母=女性へのコンプレックスを「女性=オンナ」として受容することによって解消する典型的な男性原理の物語」といってもさしつかえないわけだ。 これをいわゆる「若衆やおい」モノとして手に取った私が違和感を感じるのはこりゃ当たり前だな。 だって「やおい」ってジャンルはそれ自体、ジェンダーという問題が巨大な河となって横たわっているものだもの。 そうした「やおい」としてみた時、この小説の高杉晋作のような旧態依然とした男性的価値観による「女性性」と「男性性」のありようが当然のものとして存在し、作品内でなんの疑問もなく肯定されている状況ってのは、一言でいえば「ありえない」。 まぁ、作者の南條さんは「やおい」としてこの話を作ったわけではないし(―――とはいえ南條さんってば典型的なフェミニズムを理解できない人だろうな、ってのはありますが)、それを手にとって「やおい」として読み解こうとした私が悪いわけで、 こりゃお互い運が悪かったな、という。 でもさ――、前半のやおい学園ラブコメの世界のような明倫館の一景を読むとそういう風にしか読み解いちゃいますってば。 途中、俺が読んでいるのは「小説June」かと思いましたし。 ま、これは作者の南條さんからしてみたら、鴎外の「ヰタ・セクスアリス」、川端の「少年」や坪内逍遥の「当世書生気質」のような旧制学校小説のノリで読み解いてもらいたいのでしょうが。 |