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私的やおい論  その1

「萌え」という言葉の差異



前々から気になっていたんだけれども、男性オタクが使う「萌え」という言葉と女性オタクが使う「萌え」という言葉には微妙な差異があるなぁ、と感じていたのね。

いまやオタク文化の最重要キーワードともいえる「萌え」という言葉のその語源や意味は各種あると思うけれども、それを基本的意味合いにまとめるとするのなら「思わず色々と妄想してしまうくらいに、可愛い、好き、愛している」というものだとわたしは解釈している。
「可愛い」や「好き」や「愛している」ではない「萌え」という言葉のニュアンス。ここは、その感情に「妄想が介在している」というのがきわめて大きいと思う。「萌え」の「萌」とは妄想の萌しの「萌」ではなかろうか。と。
で、男性が使う「萌え」と女性が使う「萌え」をよく引き比べて見た時にその「妄想」の質が違うな、という事に気づいたのね。

簡単にいえば男性が「萌え」という時、その妄想にはたえず、そこに自己が介在している感じがある。 例えば、「萌え」の対象と自分とがデートをする時は、セックスする時は、結婚したら……。などと、その妄想にはたえず自己がある。
例え映像的妄想であっても主体としてみる自己の場所がどこか明示されている。「妄想の主体」と「自己」はほぼ同一であり、決してゆるがない。
それはいわゆる一人称的な妄想といえるだろう。よってその妄想には自己の欲望というのが、ものすごくダイレクトに表現されている。

一方、女性の「萌え」には、「自己」というものが大変希薄に見える。
彼女達が妄想するのは、「萌え」の対象のキャラクターがその物語内の他のキャラクターたちと物語の外でどんな会話をしているかであるとか、終わった物語の続きはどうなっていったかであるとか、実はこのキャラクターとこのキャラクターは裏でこの時にこんな事があって、などという「自己」のまったく介在しない妄想になるように見える。 比べるにそれは、神の視点に立った三人称的な妄想といえる。

この女性的な妄想の「主体性」とうべきものは見られる側、つまり客体に仮託されているようにみえる。彼女達は漫画や映画を作るように監督・脚本家として妄想をつくり、それを味わう時は観客として見ているように見える。 よって、彼女達の妄想からみえる欲望と言うのは、複雑に隠蔽されていて形はとらえにくい。主体と客体がモザイクのようにバラバラになっていて、自分がどうでありたいと願い、相手に何を求め、何をしたいのか、もしくはされたいのか、というのは決して容易には解読できない。



と、ここまで考えてみて、ちょっと待てよ。 これをジェンダーの別で見るってのは、誤読の可能性が高いんじゃないかな。と、思い当たった。

だって、男性のなかにもこうした女性的な「萌え」観を持ち、自己の希薄な妄想をしている人っていうのはいる。少なくとも私はそうだし。
これは男性/女性で分けると危険なんじゃないかなぁ。


桜玉吉はファミ通に連載されていた「しあわせのかたち」以来、フェイバリットな作家の一人だけれども、 彼の「なぁゲームをやろうじゃないか!! 」をぼーっと読んでいて「玉吉はパソ美ちゃんに萌えているなぁ」などと、ぼっーと思っていたのね。 でもって、パソ美ちゃんへの玉吉の「萌え」は「女性性的な萌え」だな、と。

もちろんパソ美ちゃんは少女なんだけれども、中年のくたびれた漫画家と無職の少女のその淡く言葉に出来ない微妙な関係はなんだかいわゆる「女性性的な萌え」的な世界だな、と。 この、淡く名付けがたい関係。性的な関係に進展することをどこかお互い拒んでいながら、濃密な繋がりでありたいと思っている、この関係。
桜玉吉の「関係の断絶性」は、あるいは漫画家でいえばつげ義春や吾妻ひでおに近しいモノだけれども、一方これはいわゆる「女性的な萌え」の本質ものでもあるな。と思ったのね。
(――ちなみにこの作品は彼の作品のほとんどがそうであるように、桜玉吉自身が主人公の私小説的な漫画であり、桜玉吉とパソ美ちゃんの関係も自己の周囲の物語という体裁を取っているが、この漫画内で表現されている「桜玉吉」という人間はあくまで「漫画内にいる1個のキャラクター」として描かれていて、きわめて「虚構」的なのだ。描かれているものが全て作者の創作(=妄想)であっても、全く不思議ではないと思わせる世界を持っている。 「作品内の桜玉吉」は実際の「桜玉吉という漫画家」そのものとは分離され、極めて客体化されているように読者には映る。端的にいえば、「作者の自分」と「漫画内の自分」がくっきりとわかれている。 その創作(=妄想)は本来の自己とは独立した自律性を既に持っており、いわゆる男性に多い「萌え」妄想の「俺だったら」的なものとは一線を画している。 ここに描かれている「萌え」は自己の在所の希薄な女性的な「萌え」に近いものという印象をわたしは受ける。危うい妄想によってが成り立っている客観的な虚構という感じ。)


で、この女性に多く見られる「萌え」的な、一種断絶が前提となった自己の投影する場が用意されていない妄想の世界――――って、つまりこれは「やおい」の概念じゃないの?と私は思ったのですね。
つまり「萌え」の構図の差異は、男性/女性の別ではなく、やおい/非やおいの別をもって明確になるのではないかなぁ。と、思ったわけですよ。

ではでは、さっきの「萌え」を「男性/女性」のべつでなく「やおい/非やおい」で整理すると。
「非やおいの萌え」ってのはとっても一人称的なのよ。「わたしが」の世界。つまり欲望がダイレクト。作品内に読み手が自己を投影できる場があらかじめわかりやすいところに用意されているわけ。
一方「やおいの萌え」っていのは、極めて三人称的。「彼が彼女が」の世界。よって欲望は複雑に乱反射しており、作品内に読み手が自己を投影できる場というのは巧妙に隠蔽されているか、あるいは全くなかったりするのね。
「やおいの萌え」というのはとても抑圧されているし、また「萌え」の対象と深く断絶されているし、そのことに自覚的であるともいえる。

ここでいうやおい/非やおいの差異はそのまま、男性/女性の別とイコールになりやすいので、間違って解釈されてしまうのだろうけれども、 先ほどの桜玉吉の例のように男性が書く、女性との関係における「やおい」的におもえる世界、というのも確実にあるわけで (―――ってそんなのあるの?というやおらーの方は、まぁ「なぁゲームをやろうじゃないか!! 」を読んでみてくださいな。パソ美ちゃんと玉吉の関係ってホント「やおい」っぽいから) むしろわたしはこうした作品(―――つまり女性の書いた男性同性愛をモチーフにした典型的な「やおい」でないものの「これって『やおい』だよなあ」と思わずにいられない作品)を精読するほうが、「やおい」というものの本質を見る一助になるのでは、と思っている。

正直いって「やおい論=女性論」的な評論ってのは現段階ではある意味手づまりだと思うし、もはや暑苦しいと私は思うんだよね。少なくとも「これだけでは取りこぼしが多いんじゃないの?」と私は思わざるをえない。
このやおい論に関してはまだまだ語り足りないので、すぐ後に続く。


2005.01.16
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