そして、侍の時代はあっけなく終わりを告げた。 宗則もまた、新時代の一員として、髷を落とし、刀を捨て、洋装に姿を変え、 近所の子供たちを相手に学問を教えることで生計をえる日々を過ごすようになった。 今の宗則には、かつての侍であった日々が、幻のように思えて仕方ない。 わずか数年の昔が、まるで生まれ変わる前の物語のような、そう思えるのだ。 そして愛した島村朱里のことすらも、 「彼は、ほんとうに御社の遣わした神狐の類だったのかもしれない――」 そう、思えくるようになった。 ――あれはあまりにも美しく、穢れを知らず、なにより、まっすぐだった。 もし、あれが俺たちと同じ生き物だというなら、おめおめと生きている俺たちが、なお惨めだ――。 いまだに過去を忘れ、誰かを愛することは出来ないものの、そう思うと、宗則の心の痛みはほんのすこしやわらいだ。 その日、宗則が井ノ森神社を参詣したのも、そうした理由だった。 ◆ 彼は、朱里との思い出に身が切られるように心が痛みだすと、いつもここに参った。 時代が変わっても、ふたりの出逢いの頃と、この社はなにも変わらない。 朱里の魂は、この社にいるように思えた。 「(朱里は、この社の遣いだったのだ。今は、この社のどこかで、きっと静かに休んでいるのだろう――)」 彼は、そう、静かに社の前で、手をあわせる。 すると、波だった心が、まるで月を映した海のように穏やかになるのがわかった。 その日、祈りの済ませた宗則は、なぜかわからない、ふいに、社の扉を開けてみよう、と思った。 そこは、朱里がこの社を根城に追い剥ぎをしていた頃の、彼のすまいである。 朱里をなくして今まで、宗則はこの扉を開くことはなかった。 ここを開いてしまうことで、なにかが終わってしまうような、そんな惧れがあった。 「(この扉が開いた時に、朱里とのすべてがはじまった。今度開く時は、きっと本当に終わった時になるだろう)」 しかし、その日、彼は、その想いを振り切るように、その扉を開いた。 はたして、社の中は、あの日のままだった。 古ぼけた、なにももない、がらんとした社。外からの陽射しに、ほこりがちらちらと舞っている。 なかを見回した宗則は、つまらない想念に縛られていたことを知った。 宗則はあの頃、朱里の座っていた床にすわった。 そして、床にひとつの文字を見つけた。 『本田宗則』 それは、かつて朱里が小刀で刻んだものであった。 宗則はその字をいとおしそうになんども指先でなぞった。 ――そうだ。こうやって、あれは俺の名前をあの時、ここに書き残して、おぼえたのだ……。 幻でも、神狐でもない。朱里はいた。確かにここにいた。ここにいて、無邪気に笑って、泣いて、怒って、時には片意地をはりぷいと横顔を見せて拗ねてみせたり、そうやって俺を驚かし、心配させた。 俺たちは確かにともに生きて、そして愛しあった。 ああ、なのに、どうして、俺だけこんな遠いところにきてしまったのだろう。 朱里がいなくて生きていけるはずもないものを。 不意に、胸の奥から、熱い塊が奔流となってこみあげ、それは涙となってこぼれ落ち、その文字を汚した。 それは、朱里を失ってはじめての涙だった。 宗則は、ただひたすら、泣くにまかせた。 ◆ そこに突然の声が響いた。 「もののふが、そのように泣くものではない」 宗則は、信じられないものを見る眼で、振り返った。 ひとりの痩身の青年が社の入り口に立っていた。 逆光で、姿はよく見えない。 「そう教えてくれたのは、宗則さまだったじゃないか」 声の主はそういって、笑った。 宗則は、もうわかっていた。 その忘れようもない声、夜毎、波の寄せては返すように心に響いたその声。 「――朱里」 波涛がくだけるような感情の高ぶりのままに、宗則は光の向こうに駆けだした。 |