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福島次郎 「三島由紀夫―剣と寒紅」

自分を暴露しない暴露本

(1998.03/文藝春秋)


 三島由紀夫の愛人だった男の私小説というか暴露小説。三島の遺族の意向で出版差し止めされて、今、新刊での入手は難しいっぽいけど、古本で結構出回っているっぽい。

 あらすじ。

文学者志望のホモの大学生福島君は、文壇界の風雲児・三島ちゃんのところに押しかけていったら、なんだかわからないけれども、三島ちゃんからモーションかけられまくったよ。
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なんか三島ちゃんは俺にゾッコンみたい(ニヤニヤ)。ま、正直三島ちゃんはタイプじゃないけど、三島ちゃんのひけらかす華やかな世界がマジで眩しくて、こういうのもいいかなと流されるままに愛人になっちゃったよ。
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でもタイプじゃないので、やっぱり愛人は無理だったよ。でも三島ちゃんから完全に切れるのはもったいないので薄いながらも交流は続いたよ。
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田舎の熊本にもどって高校教師になって色んな男子生徒を食い散らかしたよ。そうか、オレはショタだったんだな。
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そうこうしているうちに、東京の三島ちゃんはボディビルとかしはじめてるみたい。って、うわ、ヌード写真集送ってきたよ。キモッ。だから俺はカワイコちゃんがタイプなんやねん。でも、誉め誉めお手紙を返信。と。
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三島ちゃん、新作の取材で熊本にやってきたよ。って、なんかまた俺にモーションかけてきて、マジきもいんですけど。てか、本当に俺がタイプなんだな(ニヤニヤ)。すげ苦痛だったけどまた寝てみたw
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なんかしらんが、三島ちゃん、キチガって、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で自決したみたいよ。へー。
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おしまい。

 本当にただこれだけの作品なんだけれども、これだけの話にちんたらどうでもいい繰り言や誤魔化しや言い訳ばかりを並べている。フツーに考えてこんなに言い訳要るまい。
 では、なぜ彼は、誰に、何のために、こんなに言い訳しているのか。おそらく自分に、自分を守るために、だろう。だから、作中では、上のあらすじのようにきっぱりと物事を言い切りはしていない。ま、私には、そういう風にしか受け取れなかったけどね。 言いたくないことを、さけながら、必死に他の言葉でごまかしながら、書いている感じなのだ。

 小説であれ、漫画であれ、芝居であれ、何かを表現し、虚構を作るというのは、暴露することなのだと、わたしは思う。
 でもそれはどこかの誰かを暴露するのではない。
 何者でもないおのれこそを曝す、自分の汚さ、卑小さ、だらしなさ――認めたくない負の面すらも含めた全ての自分を暴露する、ということだ。そうでなければ、崇高さも愛も美も夢も真実も自由も――そういった素晴らしい部分すらも表現できないと、私は思うのだ。
 自らの身のうちに潜む泥とダイヤモンドを両手で鷲掴みにする、その覚悟がなければ、表現は、本当の意味で表現にはならない。そうでなければ、真実、人の心を打つことは、出来ない。書く(――描く、撮る、歌う、演じる)ことは、お綺麗でお上品なままでできるほどやわなシロモノじゃないのだ。

 その点、この作品は最悪だ。
 文章の間から漂ってくる嫉妬やら羨望やらを煮しめた腐敗臭がもの凄いのだが、「この腐敗こそ、俺なのだ」と、開き直って自己開示しているのではなく、なんとなく無自覚にだだ漏れさせて、それに嘘やら誤魔化しやら言い訳やらを、その都度、重ねている。いちいちが「これが本当じゃないだろ、お前」と、問いつめたくなるような叙述なのだ。不愉快極まりない。
 どんなに言葉を重ねても、お前は臭いんだから、嘘はもう辞めて、自分の内面ときちんと向き合って、俺は臭いと開き直るか、これいじゃいかんと風呂に入るか、どちらかにしろ。と。
 そのくせ有名人のプライベートな性癖を暴露(――って、まあ、ほとんど公然のことだったけれどもね)するなんて、アンフェア以外の何者でもない。
 もし表現において自分以外の誰かを暴露することが正当であるとするなら(――そんなものはないと思うけどもね)、それは自分の暴露をしきったその瞬間においてのみだと、わたしは思う。文筆の刀で誰かを斬るのなら、まずはじめに己が切り刻まれなければなるまいて。

 みずからのヌードの生写真を小包で送りつける三島由紀夫。強く抱きしめると、女みたいな甲高い甘い声で呟く三島由紀夫。ふんどしひとつの姿で「尻を触ってみろ」と誘惑する三島由紀夫。その、ひどくグロテスクで滑稽な彼(――とはいえ、本気で恋をしている時の必死な姿のコミカルさなんて男女の別なく同じだと思うけれどもね)を、愛して受け入れるのでなく、距離をもって冷徹に観察するのであれば、それの倍以上に文壇界の奇才・三島由紀夫の、華々しい生活の一端を預かりたいという打算だけで肉体を提供する、俗物で卑怯で嫉妬心の強い、そのくせ悪者にもなりきれない弱虫の少年愛者である己の醜悪さを、一切の斟酌なく抉り取らなければ、表現とは、ならない。
 しかし彼は、善良な、朴訥とした、へりくだった自らの文体を隠れ蓑にして、最後まで逃げを打っている。自らの核心には鋭く斬り込まず、奇妙な取り繕いを続けながら、ただ生温くおのれを撫で斬りするばかりで、いやな空気を撒き散らしているにすぎない。
 なぜ、書かないのだ。文壇の鬼才として名高いひとりの作家の影法師としてしか、みずからを規定できない、それにすがることでしかみずからを表現できない、その惨めさを哀しさを愚かしさを、文学の神に愛された彼への呪詛と信奉、憧憬と失望を。それが一番お前の書くべきことじゃないか。そんなものはない、だと。そんなのは嘘っぱちだ。ならなぜ今更、はるか彼方にある青春の日々にあえて泥を塗りこめるような暴露本を書いているのだ。 逃げるな、泣くな、甘えるな。「ゲイである不幸」なんてテンプレート化した自己憐憫で誤魔化すな。裏切りの信徒であるおのれを凝視しろ。それがわからないなら、お前は一生屑の負け犬だ。

 気を取り直す。
 とどのつまり、この本は、打算で趣味じゃない男と寝た文学者志望の男の、才知も愛もない、どうしようもない暴露本に過ぎない。こんなものを喜ぶのは、弱者ぶりっ子の偽善者のゲイか、他人事のグロに狂喜する覗き趣味かのどちらかだ。 こういう低俗なシロモノを「文学」と勘違いしてありがたがる旧態依然の価値観こそが、文学を凋落たらしめている一番の原因だと、私は思うね。かつての愛人の語るゲイの著名人の私生活――そんなセンセーショナリズムだけで文学になるのなら、女性週刊誌に芥川賞でもあげればいいのだよ。
 ――とはいえ、まぁ、でも、三島由紀夫も、詭弁と美文で本当の自分を糊塗した、がらんどうな、愛も真実もない小説ばかりを書きつづけ勝手に自滅した人なわけで、福島次郎とは、べらぼうに文章が上手いということ以外さしたる差はなく(――って、まあ、そこが一番大きいのですが)、ある面、似た者同士でお似合いなのかな、と思ったりもする。

 それにしても、彼らの臆病さというのが、どうにも私は理解できない。
 自分を曝すなんて、簡単なのにね。泥海にもまれて、血塗れになって、それでも必死に叫びつづければいいだけのこと。
 いつまでも「ご立派な自分」でいようなんて思うからニセモノのままなのに、そういう人って、似た者同士のインチキばかりと群れることをやめないから、私にはわからない。
 ちっぽけなものなのにな。「ご立派な自分」なんて。
 なのに、三島由紀夫のように、その泥海を泳ぎきる能力が充分あるはずの人ですら、いつまでもぐずぐずと繰り言を並べて、結局潰れてしまうのだ。
 ひとかけらでもそこに愛とか真実とか、自分が手掴みにしたいものが眠っているなら、どんな泥海だって決して恐くないとわたしは思うんだけれどもな。

 後日談。
 暴露本という形態に色眼鏡がかかった感想なのかなと、もう一冊彼の本を読んでみた。短編私小説集「淫月」。
 やっぱりこの人、作家として、ダメだ。文章は下手ではないけど、心根が腐っている。覚悟が足りない。だから読んでていちいちイラッとくる。
 自意識ばかりが肥大して、そのくせ何事にもきちんと向き合わず、相手の人格を無視したフェティッシュな自己愛と性欲を無自覚に垂れ流しているというところは、これただホモという違いだけで、ウェブ上でよくみかける非モテのキモメンの世界観とほとんど相似と感じた。
 惚れたなら、覚悟決めろよ。丸裸になってぶつかっていけよ。全力出せよ。男なら。 砕け散ってもそれでいいじゃん。それが、あんたにとっての真実だろうが。 愛するって、そんなに難しいことじゃないだろうがよ。いつまでなにビビってんだよ。
 ―――と、いまや天国に住まう人にさっきからやたら威勢のいい発破をかけても仕方ないのですが。

加筆 2009.02.20
2005.01.23
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