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眼鏡と衰えた視力


気がついたら、ものすごい勢いで目が悪くなっている。
22、3歳の頃から常時着用するようになり、今となってはほとんど眼鏡なしでは日常生活が立ち行かないようになってしまった。
裸眼でまったく見えない。
普通に座ってパソコンのモニターや、キーボードを見ることすら困難になってしまった。
でもって、眼鏡をなくすと「目が見えないのに眼鏡探せるわけないだろっ」と逆切れする始末。

と、しっかり眼鏡利用者のぼやきをマスターしてしまった今なのだが、もちろん昔から目が悪かったわけでもない。
確か、16歳の秋頃にはじめて眼鏡を買ったと記憶している。
高校に入ってから教室の最後尾の席から黒板の字を見るのには困難を要していたが、そんなに必要と感じることもなく、――というより授業自体完全に流していたので気にもならなかった、遠く見えづらくなったな、などと思いつつ過ごしていたのだが、 うなぎが私の目が悪くなるスピードよりも遥かに早く目が悪くなってしまい、「じゃあ一緒に買ってきなさい」と親に現金を渡されうなぎと一緒に買いに行ったのがはじめてだった。

着用するようになるまでは「眼鏡ってなんだか、知的、物静かで思慮深い感じ。眼鏡を取る時の軽く伏せた眼差しなんて、大人の雰囲気」とまるで一昔前の女子高生のような憧憬を抱いていた私だったが、いざつけて見るとこれが面倒くさい。
眼鏡にほこりや指紋がついてうざったいわ、取ったらケースに入れないと、レンズに瑕はつくわ、取る時もフレームに負担かけないように両手でとらなきゃいけないわ、めんどい。とにかくめんどい。
(これでめんどくさがっているのだから当然コンタクトは使えない)
ということで、本格的に社会生活に支障をきたすまで眼鏡をほとんどつけないで過ごしていた。
実際その時は、学校のことを除けば、図書館や書店で本を探す時ぐらいしか不便に感じることもなかったし。

が、どうあろうが視力の悪化という方向のベクトルは変わることなく、さすがに駅の案内板や道路標識を見るのにおぼつかなくなると常時携帯するようになり、今となってはほとんどの場合、着用している。
もちろん、着用がうざったいのには変わりはないのだが、ここまで見えないのだから仕方がない。

と私の衰えた視力を嘆いてみたりもするが、この衰えた視力というのもなかなかおつだな、と思ったりもする。
例えば、この今私のいる部屋、窓の桟にたまった埃だとか、床に転がる細かい塵、目に付くと気になるもの。そこで眼鏡を外すと、あ、全然見えないから気にならなー――い。
また、あまり親しくない、かつあまりお近づきになりたくない、だけど、顔を知っている人が向こうにいる。でもって向こうがまだこちらに気づいていない。
となれば、眼鏡を外せば、「見えなーーーい、しらなー――い」。向こうから話し掛けられたら「眼鏡外していて気づかなかった」で、済むし。
また、人のやったらめったら多い場所、休日の池袋や渋谷や秋葉原やら。そう行ったところに出て、人いきれで気持ち悪くなった時、すっと眼鏡を外すと結構楽になったりする。
つまりは、かったるくって見なかったことにしたいものどもをその場で「いや、見てないから」となかったことにできる。
そう行った面では今の視力というものも役に立っているといえる。

それにいろんな物がぼんやり見える世界というものそれはそれでひとつの世界だと思うしね。
何もかも、その対象を見ようとした時にシャープにその像を捉えるというのも、確かにそれは眼として正常の働きなのだろうが、味気ないといえば味気ない。
このぼんやり、うっすら滲んだ感じも結構マイルドいいじゃないか、と思ったりもする。
大体細かいところまでしっかり見えればそれでいいのか、と。
細かいところばかり気にして見えてないところあるんじゃね―の、と。
よくモザイク画像を「薄目で見れば見える」とかいう莫迦がいるけど、ぼんやり見えることで見えるものがあるのかもしれないわけで。
ま、それで見えるものがモザイク処理された局部だけでは困るのだが。
ほら、「樹を見て森を見ず」なんて言葉もあるように。
もちろん、そればかりでは日常生活は送れないのだけれども。

ということで何事もプラス思考のまこりんであったとさ。


2003.09.18


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