愛したい!このドキュメンタリーをみている間、不意に萩尾望都の「残酷な神が支配する」の主人公ジェルミのこの言葉が頭をよぎった。 特に印象深かったのが、マイケルがベールをかぶせた第3子に哺乳瓶で授乳しているシーン。 彼はマスコミの幼児虐待報道にいらだっていたのか、精神的に不安定で、しきりに貧乏ゆすりをしながら授乳していた。 まるで、子供が子供を育てているみたいだ、と私はそのシーンを見て思った。 彼からは、痛々しいほどの愛情と熱意は感じるだが、その愛はどこか袋小路のようでもある。 光が見えない。明日が見えない。 豊穣さとか、おおらかさとか、暖かな光とかそういったモノが、ない。 砂上楼閣が崩れるのを必至に押さえているような愛だ。 または、砂漠の中で自分の渇きをこらえてまで残り少ない水を分け与えるような愛だ。 彼は多分わが子も、彼の城であるネバーランドに招きいれる見ず知らずの子達も、確かに愛しているのだろう。 だけど、いくら愛しても、正解に結びつかない。 どこか、茫漠として果てしがない砂漠に取り残されたような愛なのだ。 端的にいえば、彼の愛し方は病んでいるのだということなのだろうが、「病んでいる」という言葉で片付けるには少し、残酷だな、と、私は思った。 こんな風にしか愛せない彼のことが「わかる」ような気がする。 性的虐待で追いつめられた末に義父と母を殺したジェルミのように、どこかが壊れてしまった彼はいくら愛そうとしても、この狂った秤を元に戻そうとしても、正解が出せないのだろう。 いつも間違いを引き当ててしまう、そしてその間違いに取りすがってしまう気持ちは私はなぜか「わかる」。 それってどういうこと!?? といわれても今は上手く説明できない。 ただひとつ感じたのは、彼が涙ながら「子供達にはやさしく抱きとめる手が必要だ」(正確に覚えていない……)に類した発言をしたと思うが、あの言葉は彼の本心だ、と思った。 彼は優しく抱きとめられたかったのだろう。 きっと、幼児期の未消化部分が今の彼をかたどっているのだろう。 ともあれ、先にコレをいわせてくれ。 インタビュアーである、マーティン・バシール氏や彼を含む制作陣について。 道徳的論議を振りかざしてマイケルを追いつめるのは見ていて実に不愉快であった。 私はマイケル・ジャクソンが整形を繰り返そうが、少年愛だろうが、その事実自体はどうでもいいいと思っている。 ただひとつ知りたいのは、(もしそれらのスキャンダルが事実だとしてもその事実から引き当てることが出来る)彼の中にある「わりない自分」。 それでしかない。 それこそが彼の創作の原点であろうし、また、彼をスターたらしめている理由でもあるし、また奇行の原因に他ならないのだろうから。 それをどうマイケルに取り入ったのか知らないが、「真実」といわれる部分が結局「整形をしたのか。またその回数は?」「93年の少年愛の事件は事実か否か、また彼の周りにいまだにいる少年たちと性交渉があるのか、否か」 の2点に帰結してあたり、なんともレベルの低いジャーナリズムで、日本のワイドショーと大差ない。 何回整形しようが、彼の意思である限り、その行為自体は自由であろう。また彼が少年愛者だとし、それによって引き起こされる行為によって彼が断罪されようともその断罪する主体はマーティン氏を含むマスコミでは到底ありえない。 まず前提として、彼が稀代のスーパースターである。そして、その彼がまた稀代の変人としてジャーナリズムに書きたてられている、という事情がある。 そこを踏まえたところでドキュメンタリーとしてやらなくてはならないことは、彼がその実どのように「変人」として逸脱しているのか、または逸脱していないのかを、善悪の基準を超えたあくまで客観的なカメラの視点でのみ映すことではなかろうか。 マーテイン氏を含む彼らスタッフが何を見ようとし、何を描こうとしたのか私にはわからないが、結果とし写し出されたそれは人のもっとも下世話な部分を刺激するイエロージャーナリズムそのものであった。 インタビュアーの押しつけがましさは梨本勝や福島翼ら日本のワイドショーリポーターと全く変わるところなかった。 世界のまさしく頂点にいるスーパースターの真実に迫るという、数少ない機会を彼らはつまらない「お茶の間価値観」で潰したのだ。 事実放送後マイケル側はマーティン氏制作側に「裏切られた」と発言。マイケルは2度とこうしたドキュメンタリーのオファーを受けることはないであろう。 と、マイケル完全擁護かのように書いているが、私はマイケル・ジャクソンの音楽をまともに聞いたことがないし(知っているのは「thriller」「Bad」「Beat it」くらいというずぶの素人)、彼の素行であるとか、そういったものに対する興味も他の多くの人と変わりはないほどのものだ。 この番組にしても、始まって30分ほどは他の事をしていて忘れていたし、視聴もパソコンに向かいながらでしか、ない。 ただ、見ていて思ったのは「この人は宿命的にスター」なんだ、ということ。 どんな光も吸い込むような果てしない闇とその闇すらも駆逐するほどのまばゆい光の両方を背負っている。 彼の中では、その光と闇が強烈なまでに相克しているのだ。 悪魔の残忍さと、天使の無邪気さの同居。と言い換えてもいい。 映像では、熱狂的なファンの姿が幾度となく写し出されていたが、それも納得がいく。 というか、「ファンになっていいかも……」と一瞬思ったほどだ。 魅了した者をファナティクなところへ向かわせるパワーを彼は持っている。 これはもう、宿命としかいいようがない。 そして、そんなミューズの恩寵の代わりに彼は誰しもが持っているはずの何かを亡くしてしまったのだろう。 (というか、失ったからこそ、彼はミューズの恩寵を手に入れたのだろう) しかし、そうしたスターとしてのパワーだけが感じられるのならばよかったのだが、なんとなく秋風が吹いているような風情があったのがなんとも物悲しかった。 マイケルにしなだれかかってインタビューに答えた少年が「(マイケルは)四歳だよ」と、またマーティン・バシェアー氏はのちに「彼はピーターパンだ」と表現した。 しかし、巨大私設遊園地「ネバーランド」に住む彼の姿は「年老いたかつて少年であった不気味で悲しい妖怪」にしか、私には映らなかった。 12時を回った後もシンデレラを演じているような彼の姿。 すでにもう、魔法は解けてしまっているのに、気付こうともしない。 ともあれ、全ては彼に委ねられる事であるし、ファンでもない私はただ、新しいネタが来たら面白がる程度なのだが……。 あ、そうそう橋本治が「美男へのレッスン」でマイケルについてかなり鋭い考察しています。 マイケル好きの人は是非見てみてください。 あーあ、マイケルが日本語わかれば萩尾望都の「残酷な神が支配する」をプレゼントするのになーー。 |
2003.02.26