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マキと登紀子、ふたりの女の唄


 浅川マキのお別れ会が去る09.03.04新宿ピットインにて執り行われた。私はそれに参加することができなかったのだが、代わりに以下の文章をUPする。2009年2月、加藤登紀子のファンクラブ通信「seeds net」に寄稿したもの。年末の加藤登紀子の恒例コンサート「ほろ酔いコンサート」の会場であった新宿シアターアプルの閉館に際して書いたものであるが、「新宿」というひとつの街の、ひとつの時代の終わりもまた、そこにはあったのだろう。

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 「ライバルは、明菜ちゃん?中島みゆき?」
 テレビで加藤登紀子がそんな風に冗談めかして云っているのを聞いた。
 その言葉、加藤登紀子が中森明菜と中島みゆきのふたりを歌手として表現者としてリスペクトしているだろう事はよくわかったが、ライバルというのとは、なんだか違う感じがした。強いていうなら頼もしい後輩、という感じではなかろうか。
 中島みゆきに松任谷由実。吉田拓郎に井上陽水。松田聖子に中森明菜。山口百恵に桜田淳子。光と影のように、あるいは鏡写しのふたつの鏡像のように、よく似ていながらも真逆の属性をも持ちあわせる、同時代を生きた、きわめて対照的な、ふたりの歌手。加藤登紀子にとってそのようなライバルがいるとしたら、それは浅川マキなのではなかろうか。
 ある部分では、ふたりは、まるで双子の姉妹のようによく似ていて、また一方では、月と太陽のように、正反対の世界に生きている。加藤登紀子の「ほろ酔い行進曲」(84〜86年刊・全三部作/講談社)と浅川マキの「幻の男たち」(85年刊/講談社)、ふたつの、ほぼ同時期にかかれた自伝的エッセイを、わたしは最近続けて読み、そう感じた。

 生年はマキが42年、登紀子が43年。マキがひとつ年上だ。
 デビューは、登紀子が先で、66年「誰も誰も知らない」。マキはその翌年67年に「東京挽歌」でデビュー。ふたりともデビュー曲は自分の本質と外れた歌謡曲だった。そして、自らの歌を探すその模索で、自ら詞・曲を作るスタイル――当時は、シンガーソングライターという便利な言葉はなかった、を確立する。
 ふたりは、自らの歌の世界を構築していった後も、時代時代のさまざまな才能とコラボレートし、音楽のジャンルを越えた独自の世界を作りあげていく。そしてなぜだろう、ふたりの隣にはいつだって刃の切っ先のようにぎらぎらした男が澄まして立っている。
 マキには、寺山修司、山下洋輔、原田芳雄、坂田明、後藤次利、近藤等則、本多俊之、渋谷毅、ボビー・ワトソン――がいた。登紀子には、藤本敏夫、告井延隆、河島英五、長谷川きよし、坂本龍一、原田真二、高倉健、島健、――がいた。
 またともに、60〜70年代は学園闘争の空気の真ん中で歌っていた。ふたりの歌の内容は、直接政治的な部分に触れるようなものばかりではなかったが、しかしそれらは政治の時代のなにかを象徴するような、メッセージソングとなった。
 さらに80年代に入ると一転、ともに従来の世界を覆すような、実験的なアルバムを制作する。マキは、「CAT NAP」「WHO'S KNOCKING ON MY DOOR」「幻の男たち」……。登紀子は、「愛は全てを赦す」「夢の人魚」「最後のダンスパーティー」……。多くの聴衆は面くらい、彼女たちの音楽に後ろを向けた者も少なくはなかった。
 しかしゆるきなく歌いつづけ、ともに歌手活動40年を過ぎても、現役の歌手である。

 似ている点も多いが、真逆なところも実に多い。
 登紀子には「知床旅情」「百万本のバラ」といった知名度の高いヒット曲があるが、マキには、そういったヒット曲がひとつもない。
 登紀子は、歌にさして興味のない者の間でもその名は広く知れわたっているが、マキを知る者は、実に限られている。
 登紀子は、結婚し三人の子供をもうけたが、マキは、ひとりで生きる道を選んだ。
 登紀子は、歌手としての活動の他にも、女優として、エコロジストとして、あるいは、趣味の陶芸や書など、さまざまなジャンルで自分を表現する手段をもっているが、マキは、歌の世界での表現に終始している。

 もちろん、同じ時代を生きたふたりには交点があった。
 「自らの感情を自ら作った歌にのせて歌いたい」
 若き日の登紀子がそう強く希求した時に隣にいた歌手が、マキだった。
 マキのライブにいつも黒い薔薇を贈った登紀子。夜更けにアパートに帰り着き、朝になるまでなにくれともなく語りあったふたり。
 71年発売の加藤登紀子はじめての全自作によるアルバム「私の中のひとり」、その一曲「ララ行こうじゃないの」は当時のふたりの交流の結実なのだろう、作詞・浅川マキ、作曲・加藤登紀子、となっている。
 長女・美亜子出産で歌手活動を休止していた登紀子の、歌への熱情にふたたび火を点したのも、マキの歌だった。
 長谷川きよしをあいだに挟んだ関係性も、ある。登紀子が長谷川きよしと共に「灰色の瞳」をヒットさせたほぼ10年後、マキは彼のアルバム「ネオン輝く日々」をプロデュースしている。

 70年代の始まり、ふたりの女のうた歌いが、背中合わせでお互いの呼吸を読みあっていた。しかし、時代は移ろい、舞台は様変わりする。
 それでも毎年の暮れにふたりは同じ街に集う。新宿の、マキはピット・インで、登紀子はシアターアプルで、それぞれの世界を馴染みのファンへ仲間へと披露しつづけた。しかしシアターアプルの閉館で、それもまた変わろうとしている。
 加藤登紀子と浅川マキ、お互いにとって最も近く、最も遠い歌手――。いま、登紀子はマキになにを見、マキは登紀子になにを見ているだろうか。お互いを語ることは、いまは、ない。

2010.03.07


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