ひとつの歌や一人の歌手に出会うというのは、ひどく運命的である。 ある日、ある場所での、偶然の出会い。 ただ、歌があるだけでダメだ。それには、聞き手の、こちらがわの準備というのが必要である。 こちらの心のベクトルとその歌とのベクトルが不意に重なり合った時、その歌は闇に火花が散るように鮮やかに心に輝き、水面に小石が投げられるように心の深いところにおちていく。 だから、ずうずうしく、推し付けがましく薦めるのはよくない。 「ただ、俺は、あいつの歌を聞くよ」そういって静かにレコードの針を上げるのが一番だ。 そうやって静かなファンの支持のみでもって聞き継がれているのが浅川マキの歌である。 今まで、大手のプロダクションとかレコード会社の後ろ支えも、CFソングやドラマのタイアップといった派手な宣伝もなく、地道に彼女は歌いつづけ、そのキャリアはもう30年をゆうに超えた。 私のマキとの出会いも偶然だった。 確か、大学一年生の頃だと思う。通学のため、私は遠く親元を離れて一人で暮らすこととなった。 いつどんな時に何をやってもいい、誰にも連絡することなく外をいつまでも彷徨しても誰もなにも言わない、真夜中に食事を作ってベッドの上でだらしなく食べようと叱る人もない、何もしたくないと思ってパジャマで1日過ごそうとだらしがないという人もいない、それは本当に誰にも束縛されない自由な生活だ。 その自由を謳歌してはいたものの、一方、どんな喜びも悲しみもひとりで噛み締め、全てを自らマネジメントして生きていかなければならないということがひどく重く感じるようにもなっていた。 自由、――それは孤独と裏合わせにあるもの。 そんな事実に気づいたある日、彼女の歌をはじめて聴いたのだった。 その歌は私の心を突いた。 彼女の歌にいつも冷静さとやさしさがある。 例えば、同じタイプの歌手として中島みゆきや山崎ハコなどがあると思うが、彼女達になく彼女にあるもの、それは圧倒的なまでの冷静さである。 マキは涙ぼろぼろになって泣き崩れるような歌は決して歌わない。 感情を生のままでぶつけるのではなく、どこかで自分を飲み込んでから、歌にする。 だから、どんな孤独を歌おうとも被虐的にも自意識過剰にもならない。 「こんなに可哀相な私」的ヒロイズムがないのである。 例えば「こんな風に過ぎていくのなら」「にぎわい」「あの娘がくれたブルース」……。 どんな時もクールに自分を見つめ、どんな悲しみにもぐっと涙を堪えて、「まぁ何とかなるさ」と強がりのひとつでも言って、煙草でも燻らせ、夜明けの街を自らの肩を抱くように歩くのが、マキなのである。 この冷静さと温かさが私の心に響いたのである。 彼女はきっと自らの孤独と痛いほど対峙し、自らで自らを癒しながら生きていた人間なのだろう。 彼女の歌を聞くと私はいつも「ひとり」ということを考えさせられる。 またちょっと違う視点で言うと。 不思議と聴くとなぜか自分の中にある「男」の部分が否応なく湧き上がってくるのもマキの歌の特徴である。 聞いていると、自分の中で最も男性的な意識が前面に出てくるのだ。 例えば「If I'm on the late side」や「オールド・レインコート」を聴く時。 やせ我慢でも斜に構えた伊達男でいたいと私は思うようになる。どんなヤバイ時でも涼しい顔して受けて立つような男でありたい、そしてぎらぎらとした野性的な男でありたい、と思うのだ。 彼女の前に出たら、きっと自分の中にある「一番かっこいい男」を私は演じてしまうだろう。 呼び方も「浅川さん」でも「マキさん」でも「おマキ」でも、もちろん「マキちゃん」では絶対ない。 「マキ!!」とまるで年下の彼女を呼ぶように、生意気にぶっきらぼうに呼びたい。母と同い年の今年60を迎える女性である彼女をなぜか、そう呼びたい、とわたしは思う。 実際彼女の周りにはいつもぎらぎらしたいい男ばかりが集まっていた。 寺山修司に始まり、山下洋輔、萩原信義、本多俊之、近藤等則、つのだひろ、坂本龍一、後藤次利、Bobby Watson、吉田建、渋谷毅、吉野金次、田村仁、阿部薫、坂田明、川端民生、原田芳雄、菅原文太、松田優作、泉谷しげる、……。 彼女の前ではなぜか男はその牙を見せつけたくなるのだ。 男の暴力性を引き出すのが彼女の歌であった。 そしてそんな男の心根を知ったか知らないか、男たちに委ねるでも拒否するでも受け入れるでもなく、いつも絶妙に距離感でいつも対峙し、ただ、静かに燃え滾る男たちをじっと見つめるのがマキのいつもなのである。 彼女がサングラスの向こうで、付け睫毛を何枚も重ねた濃いアイメークの向こうで、一体何を見ているのか、男たちはわからない。が、わからないがゆえに、男たちは一層熱くなるのだった。 不思議な歌手である。 かように、どこまでいっても姿がはっきりと見えない。自著も2冊ほどあるのだが、それを読んでも彼女の姿は杳として知れない。 薄闇の向こうに彼女はいつもいて、その輪郭はいつもぼんやりとしている。 故郷の石川の風景、今まで関りあった様々な男たち、長年住んだ古いアパートでの一幕。彼女の足跡や生活が言葉として形を成せば成すほど、なぜか現実感からが遠ざかっていく。 それは歌でも同じで、歌えば歌うほど、掴みどころがなくなっていき、映画の一幕の中の「幻の女」と化してしまう。 しかし、この情でべったりでないクールさ、乾いた感じというのが心地よいのか、どんなに聴きこみ惚れこんでも、決してこの距離をつめようという気が私の中ではおこらない。 これは私だけの印象でなく、の彼女の周りに集まる者たちもそう感じているのではないだろうか。いまだに彼女の私生活は杳として知れず、彼女はいつもわたしたちとは一線を隔した川岸の向こうに立っている。 わたしにとって「浅川マキ」という歌手はいまだ解けないスフィンクスの謎である。 これからも彼女が歌いつづけている限り、その謎に誰かが出会うであろう。 そうして、彼女の歌は言葉もなく静かに広がりつづけるのである。 こういう辿りついた者だけ与えられる秘められた音楽というものもあってもいい。 こんな便利になって、どこまでも見えるような気がする世の中なのだからこそ、こういう歌手がいてもいいと思う。 とにかく、私は今日も浅川マキを聞く。夜更けに煙草を吸いながら。 |
2004.02.05