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北陸の片田舎の役場の年金係の若い女が、ふらりと歌を歌いたくなり、村を出、東京に出てくる。 彼女は米軍キャンプやキャバレーをまわり、67年にムード歌謡『東京挽歌』でレコードデビューする。浅川マキである。 寺山修司に見出され、彼の小屋であったアンダーグラウンド・シアター「蠍座」にて公演をはじめて行ったのが、68年。「夜が明けたら」で再レコードデビューを果たすのが69年である。 以来、98年に至るまで彼女は淡々とアルバムをリリースしつづけた。 寺山修司に始まり、萩原信義、今田勝、坂本龍一、山下洋輔、坂田明、吉田建、泉谷しげる、つのだひろ、後藤次利、近藤等則、本多俊之、渋谷毅、Bobby Watson、 原田芳雄、土方隆行、飛田一男、向井滋春、セシル・モンロー、山木幸三郎、川端民生、山内テツ……。マキの周りにはいつもギラギラした男がいた。刃をきらめきのように鋭く冷たい輝きを湛えた音の粒が、あった。 70年代の空気を閉じ込めたようなざらっとしてブルージーなアルバム、80年の「One」以降の無機質で実験的なアルバム、そのどれもが特異な《浅川マキの世界》としかいいようのない空気を保っている。かぐろく、硬質なのだ。 「アンダーグラウンド」それは彼女のキーワードである。彼女の音楽は、地下深くで蠢動する音楽だ。 光差す地上のみで生きる者はけして出会うことのない音楽、闇の中に眼を凝らした者だけが掴むことのできる音楽だ。 彼女は誘いも、また拒みもしない。ただそこにいる。時代の呼吸に合わせることなく、いまも淡々とそこに居、そして歌っている。 現在は新宿ピットインを中心にソロライブを続けている。大晦日公演も継続している。都会の、その闇はいまだ深く、マキは今もそこにいる。 彼女のオリジナルアルバムのほぼ全てがいまは、入手困難となっている。CD化されたものすらほんの僅かだ。 一度CDされたものも彼女の意向ですみやかに廃盤になったという噂もある。 それでもわたしは、彼女の歌の染みる歌を聞きたい。彼女の歌は、時代を超越する圧倒的な訴求力を持っている。 ◆ 浅川マキの世界 (70.09.05/54位/4.7万枚/TOCT-27041) ◆ Maki U (71.09.05/22位/2.7万枚/TOCT-27042) ◆ LIVE (72.03.05/67位/0.6万枚/TOCT-27043) ◆ Blue Spirit Blues (72.12.1/TOCT-27044) ◆ 裏窓 (73.11.05/72位/0.5万枚/TOCT-27045) ◆ Maki Y (74.12.20/80位/0.5万枚/TOCT-27046) ◆ 灯ともし頃 (76.03.05/64位/0.6万枚/TOCT-27047) アケタの店で、オケとボーカルを同時録音したというライブ的な勢いのある音。しかもバックを務めるのはいつものつのだひろ、萩原信義、吉田建らに加えて近藤俊則、坂本龍一と新しい面子もちらほら。それぞれ実力派のプレイヤーの力強い演奏に、マキはさりげなく、しかし堂々と対峙している。水際立っているなぁ。 「夕凪の時」の夕闇からさりげなくはじまり、「それはスポットライトでない」、「思いがけない夜に」と夜の底を徘徊し、「何処へ行くの」でまぶしい朝陽の向こうへと駆け出していく、この流れもいい。スタンダードの「センチメンタル・ジャーニー」が、マキとしかいいようのないダルで根無し草の哀感の漂う一曲になっているのは驚く。 70年代のマキのベストと推す声が多いのも納得の作品。 ちなみに日本のレコーディングエンジニアの第一人者である吉野金次氏が(――以前にも『浅川マキの世界』『裏窓』など散発的に担当はしていたが)今作から以降マキの全アルバムのミキシングを担当することになる。 ◆ 流れを渡る (77.03.05/TOCT-27048) ◆ 浅川マキ・ライヴ 〜夜〜 (78.02.05/TOCT-27049) ◆ 寂しい日々 (78.12.1/TOCT-27050) ◆ ONE (80.04.05/ETP-80125)
◆ ふと或る夜、生き物みたいに歩いていたので、演奏者たちのOKをもらった (81.?/ETP-90042)
◆ MY MAN (82.02.21/TOCT-6934)
◆ CAT NAP (82.10.21/ETP-90196)
マキはこのアルバムで、フリージャズ、時にはパンク、ラテン、レゲの世界へも踏み込んでいく。確かに旧来の作品群からは一線を隔した新しい領域であるが、ただ、このアルバムに関してだけいえば、マキの良さを導くことが出来なかった美しき失敗作と私には響く(――が、マキ自身は相当気に入ったようで、数少ないベスト盤にこのアルバムからの楽曲が収録されることは実に多い)。 なにより、歌が聞こえない。そして、なにを表現しようというのか、いまいち捉えることができない。ただ、ひたすらエキセントリックな音の群れが、マキによりそうことなく、疾風のように通り過ぎていく。それを驚きもせずクールにマキは見つめている。そういうアルバムといっていいだろう。ただ、一曲目、「暗い眼をした女優」。これだけは、例えようもなく、イカしているんだぜ? ◆ WHO'S KNOCKING ON MY DOOR (83.08.01/ETP-90234)
後藤の作り出すあるいはポップス的な、あるいは実験的なトラックに、溺れるでもなく、拒否するでもなく、また、寺山のかつての姿にかつての言葉に、なにを見出すでもなく、マキはただ、そこにいる。過去と未来に分裂されながら、その様子すらもドキュメントである。 聞き手が取り残されてしまうこと、必至。入り込みにくいにもほどがあるが、ゆえにマキの孤高性がより際立っている、ともいえる。 ディープなマキのファンにしか、わからない世界。寺山と自身の対比とも聞こえる「まだ若くて」、新宿を闊歩するゲイの青年の内と外の世界を描いた「ともだち」など。 「時代に合わせて呼吸する積りはない」とは、寺山の言葉なのだろうか。言葉が突き刺さる。 ◆ 幻の男たち (83.?/ETP-90263)
◆ SOME YEARS PARST (85.02.21/WTP-90319)
◆ ちょっと長い関係のブルース (85.06.29/WTP-90339)
「CAT NAP」以降旧来のファンを置いてけぼりにして暴走したマキだが、このアルバムはマキのジャズシンガーとしての確かさが味わえる作品で、 70年代のマキの作品が好きという人にも安心して薦められる。 ◆ アメリカの夜 (86.03.01/WTP-90388)
◆ こぼれる黄金の砂 -What it be like- (87.02.25/CA32-1370)
◆ UNDERGROUND (87.12.25/RT-5089)
◆ 幻の女たち (88.05.26/RT28-5147)
◆ Nothing at all to lose (88.12.21/CT32-5369)
◆ 夜のカーニバル (89.04.26/CT32-5421)
◆ STRANGER'S TOUCH (89.12.13/TOCT-5604)
◆ BLACK -ブラックにグッドラック (91.02.20/TOCT-6008/9)
◆ 黒い空間 (94.12.21/TOCT-8654)
◆ こんな風に過ぎて行くのなら (96.06.26/TOCT-9489)
70年代の名曲「こんな風に過ぎていくなら」「別れ」「あの男が死んだら」と80年代の「コントロール」「今夜はオーライ」、さらに新曲とそれぞれが出自の違う楽曲が渾然と並んでも、まったく違和感がない。ポップスとして非常に聞きやすく、それでいてマキでしかありえないという世界が作られている。このあたりはヒットメーカーとして名を挙げた後藤次利の成果だろうか。 オールドロックなギタープレイに「あの頃の頃忘れてもいいだろう だけど忘れなくてもオーライ あんたの都合いっとくれ」と旧友に投げかける「今夜はオーライ」、「オーイ、聞こえるかい 元気なんだろ オーイ 手紙はしないぜ 面倒くさがりの仲間だったろう」と今は会えなくなった友人に歌を贈る「some year parst (2)」には、ほろっとしてしまう。マキには、骨っぽく男くさい友情が本当によく似合う。傑作といって差し支えないかと。 ◆ 闇のなかに置き去りにして -BlackにGood luck- (98.11.26/TOCT-24004)
「WHO'S 〜」は寺山修司の死を契機にして生まれたアルバムであるが、このアルバムに満ちているのも紛れもなく『死』である。ただ「WHO'S 〜」「BLACK」での「死」は、あくまで生者として死に立ちあっており、死に対して冷徹に線引きしているようなところがあるのだが、このアルバムではその境界はゆるやかに溶解してしいる。 死の中、闇の中にまさしく飲み込まれるような雰囲気が漂っている。「闇の中に置き去りにして」というタイトルも、どこか孤独なマキの、遺書めいた、死出の旅立ちに向かう者のいまわの一言のようにも感じる。 70年代の夜のさかり場に紛れ込んだような「いい感じだろう、なぁ」あたりもいいが、「閉ざす」「暮らし」「無題」の深く立ち込める黒い闇の世界がすべてを覆ってしまっている。 このアルバムの発売前の仮題が「ラスト・レコーディング」であった。いかにも最後のアルバム、という、しんしんとして死神の手が闇の向こうから忍び寄るような作品だけに、この「ラスト」が「最後」でなく「最新」の意味であることをわたしは願うばかり。 ≫≫≫≫ベストアルバム・その他 編 |