中森明菜 「北ウイング」
1.北ウイング 2.涙の形のイヤリング (再発売盤は「リフレイン」)
中森明菜のつかんだ純愛 (1984.01.01/ワーナー・パイオニア/L-1663) |
来生えつこの手による「スローモーション」のおとめちっく路線―――少女の繭の中のナルシスティックな甘い夢、と売野雅勇の手による「少女A」のツッパリ路線――――男たちの性の商品にすぎない自分とそれに対するアジテーション、を交互にリリースしていた中森明菜だが、どちらの路線も歌の主人公となる少女がたえず「受動」の位置にいること、相手となる男性には個別具体性がないことは、「スローモーション」、「少女A」の回で述べたと思う。 つまり、自閉の繭にこもって、外部からの男の視線を疎ましく思い、時に啖呵を切る一方で、幼い「おとめちっくな夢」を抱えているのが、それまでの中森明菜だったわけである。 ―――が、ここでひとつの転向が訪れる。ということで「北ウイング」の話。 今回のストーリーテラーは康珍化。物語はこう。 失恋があった。心の区切りに涙を流し、全てを諦めた。しかし、わたしを呼び覚ますものがある。愛はミステリー、不思議な力。映画のシーンのように全てを捨てて、北ウイング。彼の元へ旅立つ。 心は翼。夜をよぎり、光る海を越える。あなたの住む街が今雲に下に。そしてあなたの胸に今飛びこむ。「それが返事よ」 歌の主人公である少女は、それまでの「受動」の位置からはじめて飛び出し、主体的能動的に自分の信じる愛へと駆け出す。 自ら信じた愛は全ての運命を乗り越え、太平洋すら飛び越え、結ばれる。 ここで描かれているのは、茫洋として綿菓子のように甘くはかないひとりきりで見る愛の幻でもなく、売り買いで済まさせれる殺伐と乾いた愛の形骸でもない。実体のある、手ごたえのあるみずみずしい愛だ。 誰に与えられたものでない、自ら探しもとめ、時に傷つき、時に絶望もし、そして手にいれたひとつの愛。この物語に、中森明菜の歌手としての魂が宿った。これは、中森明菜がはじめてつかんだ純愛だ、とわたしは見る。 ――なにより「北ウイング」を歌っている明菜がなんとも、よかった。血色のいいうす薔薇色の頬に、きらきらと濡れて輝く瞳の彼女は、「未来」や「希望」といったものが恥じらいもなくまっすぐに信じられる、若々しくも、美しいひとりの「女性」であった。 あぁ、きっと彼女は今、満ち足りて幸せなんだろうなあ、ということがブラウン管の向こうからも痛いほど感じられた。 中森明菜はこの作品以後、どんな歌を歌おうとも全て男女の色事に還元してしまうような「愛を歌う歌手」になっていく。 さらにもうひとつ、この歌であげなければならないのが、明菜の歌唱だ。 ひら歌の部分は内省的な詞と連動するように小さく抑えて歌っているのが、サビ前の「空の上で見下ろす」の部分でジャンボジェットが加速度をあげて一気に離陸するかのように、声のパワーがぐぐっと一気にあがる。 そしてサビの「夢の中を」以後の部分は詞のおおらかな情景描写と連動するように一気に上がったパワーをそのままに保って開放的に歌いきる。 ある部分は語るように、ある部分は一気に歌い上げ、と、ひとつの歌をギアチェンジするように歌唱を変えるのは以後の中森明菜の歌唱のテクニックのひとつだが、その萌芽がここにはっきりとあらわれている。この明菜唱法は「DESIRE」において完成する―――というのはこのサイトのテキストで再三いっているな。もうひとつちなみに、この路線のバリエーションで「ミ・アモーレ」の詞作がなされた……ってことは、私がいわなくてもみんな気づいていることだからいいよね。 |