ふらふらとCD屋に入って、そこでアルバムがでていることに気づく。発売からもう一ヶ月経っているようだ。 彼女の存在が自分にとって大きな意味を持たなくなっていたことを痛感しながら購入した。 CDをトレイに乗せて、プレイボタンを押す。 音が流れ出したその瞬間、わたしは、はっと顔をあげた。 「燦」。 思わず肌が粟立った。力強さ温かさ、光を差す方へと衒いもなく歩み行くような……。 しかしどうしてこんなに涙がこぼれるのだろう。悲しいはずないのに、どうして――。 まるで、天気雨のような、不可思議な感情がわたしの心に波寄せる。 「彼女は新たな道を、いま、歩いている」 脳裏に直感がひらめいた。それは、曲が重なるごとに確信となった。 このアルバム。どこまでもやさしいのだ。そして、そのやさしさがどうしようもなく痛いのだ。 ひりひりと心の一番繊細なところに触れてきて、涙腺を誘うのだ。 大事大事に抱えても、こぼれてしまうものはいくらでもある。 そして失くしたものは失くしたもの、手をさしのべても届かない。 だけど、失った分だけ人はなにかが手につかめる。 そして愛は、尽きせぬ泉のように、世界のあちこちに生まれゆく。わたしの心にもあなたの心にも。 愛は悲しみと同じだけの量、この世界のあちらこちらに、偏在する。 だから今、去りゆくものへ、静かに「ありがとうさようなら」と手を振って、その代わりに訪れるだろう何かに「こんにちは」とやさしく抱きくるむ。 こんにちは。大好きだよ。と。 そんなCoccoの姿が切ない。 これは、まぎもなく愛のアルバムだ。 自分を赦し、世界を赦した彼女の、すべてへ向けてのラブレターだ。 彼女の歌詞カードの裏、Spcial thanks の"YOU"とは、私以外のすべて、だ。そこのあなたも、そこにいるあなたも、みんなみんなに、ありがとう。 ここは自分の居場所じゃないとばかりに、歌い終わったらいつも裸足で舞台を走り去った彼女。 そんな彼女がいま「ここでいい。ここがいい」(「Never Ending Jourey」)と歌う。 「タイムボッカーン」「ハレヒレホ」「お菓子と娘」など、たわいのない歌を身軽にぴょんぴょんと楽しげに歌う。 これでいい。これでいんだよ、Cocco。 このアルバムのCoccoこそがいまのCoccoだと、私は認める。 今を、世界を、なにより自分自身を肯定し、彼女はいままさしく、力強く、しかしさりげなく、歩いている。 その姿だけがここにある。 あまりにも鮮烈で、あまりにも美しかったかつてのCocco。 「ブーゲンビリア」〜「サングローズ」と続いたシークエンスはあまりにも見事であった。 ――で、あるから、彼女は、テレビ局のスタジオで「焼け野が原」を歌い終え彼方へ走り去った、その瞬間に神話となった。 わたしたちは、神話の世界に住む者ではない。 生き長らえる限り、その神話はいつか壊さなければならないものであった。 04年に、日本のポップシーンに帰ってきた彼女、Singer Songer「ばらいろポップ」「ザンサイアン」と復帰後の彼女はどこか煮え切らないアルバムをリリースしつづけたが、このアルバムでついに彼女は生まれ変わった。 禍々しい淫欲と殺意をひらめかせるような歌を、もう彼女は歌わない――歌えないだろう。 「カウントダウン」の「首」の「けもの道」のCoccoは、もういない。 それでいい。それでいいのだ。 彼女は過去を置き去りにして終わらない旅を旅していく。そしてわたしたちもまた――。 |