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風見慎吾 「涙のtake a chance」

(1984.12.21/フォーライフ/7K-168)


日本で最初にビジュアライズドされたストリート系ダンスポップスをヒットした歌手は誰か。

え、trfあたりなんじゃないの?
いや、Zooの方が先でしょ。
いや、あの系譜は「元気が出るテレビ」の「ダンス甲子園」の影響が大きい。
そしたら田原俊彦とか少年隊の立場は?

―――って全然違う、全然だよ。

日本で、ブラウン管の向こうで(――ってこの比喩ももういいかげん古いな)マジ踊りまくって、はじめてヒット飛ばしたファンキーな奴はこいつ。風見慎吾。


……。
…………。

いや、マジで、マジでそうなんだから。


だって風見慎吾って、「伊東家の食卓」で裏技を披露したり、深夜のテレビショッピングに出ている、中山秀征となんらかわらない「いてもいいけど、いなくても誰も気づかない」枠のタレントでしょう。って、や、確かに今の彼はそういえてしまうような存在かも知らん。
しかし、しかしだ。
日本で最初にストリート系ビジュアライズドダンスポップス(――このいい方もなんだかイヤだな。とにかく歌番組で歌をほとんど無視してバンバン踊りまくって、それで成立している歌よ)をヒットさせた歌手は85年に「涙のtake a chance」をヒットさせた風見慎吾おいて他になどありえないのだ。 日本人の手によるラップの最初のヒットが吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」であるのと同じくらいに日本歌謡史の隠れもない事実なのだっっ。

「涙のtake a chance」以前に、ヒット歌手で最も踊っていたのは田原俊彦と吉川晃司だと思うけれども、吉川はノリに任せて体をしっちゃかめっちゃかに動かしているだけだったし、俊ちゃんはシングルの歌唱時のダンスにおいてはあくまでまだフリの範疇だったと思う。 風見の所属していた一世風靡も結構踊っていたけれども、あれはどちらかというと、JACとか殺陣とか、あっちの系統だし。

一方、ブレイクダンスを大胆導入した「涙のtake a chance」は完全今のストリート系ダンスの系譜で、過去のVTRを今見てもさほど違和感はない。 全体が「歌唱<ダンス」なつくりで無駄に間奏が長かったり(―――そのせいか、歌番組では結構口パクが多かったような気がする)、多人数のバックダンサーを率いて一緒に踊りまくったり、とどう考えても源流としか思えない。思えないったら思えないのだっっ。 (――そういえば当時彼のレギュラー番組「週間欽曜日」でブレイクダンスを披露しておりましたな。)

このヒットに即応するように田原の俊ちゃんをはじめ、ジャニーズ系は果然踊りだすようになった(――トシのダンスは「抱きしめてTonight」あたりが、完成形かな)けれども、ただジャニーズって事務所のカラーゆえにか、どうしてもダンスが「ミュージカル」とか「ブロードウェイ」ってベクトルに向かってしまって、どうにもストリートの方向にもっていけない(――SMAPが1番その方向に再接近したかなぁ)んだよねぇ。

ということで、男性アイドル大陸はジャニーズ系という巨大な帝国の隙間に「ストリートダンス系」という自由区を得ることになるわけで(―――もうひとつの自由区はもちろん「バンド系」ね)、 その歴史の流れがあってこそ、DA PUMPもW-indもアイドルとしてブレイクできたのでは、とわたしは解釈しているのですが、そこんとこどうよ。
ともあれDA PUMPもEXILEもtrfもみんなみんなみんな、風見慎吾に足を向けて寝ちゃいかんのであるっっ。であるったらであるだ。と強引にまとめる。


2005.03.21
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