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唐沢俊一は栗本薫を読むべきだ



 唐沢俊一の書いた栗本薫死去に関するテキストを読んだ。

http://www.tobunken.com/diary/diary20090527033059.html
http://www.shakaihakun.com/vol089/02.html

 地味で目立たず友達のいない子供が、クラス一の人気者をひがんでいるみたいで、しかもそれを中年になった今でも引きずっているみたいで、なんだかおかしい。
 そしてそれは、ある面において、生前の栗本薫の姿でもあったのが、それにもまして、おかしな話だ。
 栗本薫は、自分を「クラス一の人気者」だなんて、自らの先にシンデレラのレッドカーペットが敷かれているだなんて(少なくとも彼女がまっとうな作家であった頃には)思ってや、いやしなかった。
 唐沢俊一は他人の文章(――というか、わたしの「苦い追想」)を斜め読みして知ったようなことを語るより前に、見栄や体裁を棄て、一度虚心で栗本薫の小説を読むといい。栗本薫の小説にはたえず、そのような、なにも自らを表現できず、自らの求める生を生きることのできない、小さく愚かな、しかし一心に「輝きたい」と願う者たちの苦闘と悲しみが描かれていることに気づくはずだから。
 「One night ララバイに背を向けて」でも「イミテーション・ゴールド」でも「優しい密室」でも「探偵(悲しきチェイサー)」でも 「ハ−ド・ラック・ウ−マン」でも「ライク・ア・ローリングストーン」でも、なんでもいい。いつだって彼女は、取るに足らない、必要とされない、何者でもない者の側に、心を置いていた。その中で、一番よいのが、そう、「翼あるもの」だろう。
 彼女の沢田研二への愛が結晶した一連の物語(「真夜中の天使」「真夜中の鎮魂歌」など)の裏面にある作品が、これだ。「沢田研二」というイコンへ、栗本薫が、崇拝とそれと同量の憎悪を捧げずにいられなかった、その熱塊のような想いが、森田透というひとりの人格を生み出した。
 彼は同じバンドのメンバーとして生きながら、決して「今西良=沢田研二」を乗り越えることのできない。いつしか彼への愛憎が自らの存在証明となっていく。選ばれしものに魅入られながら、自らは決して「選ばれなかった」森田透。それは栗本薫、そのものである。
 森田透の一言一句が彼女の魂の真実であり、何者たろうともがき苦しむ者全ての似姿である。
 栗本薫は森田透を生み出せた。だからこそ彼女は「小説道場」で、何者でもない少女たちのひたすらな思いをつめた作品たちに、胸襟を開いて受け止め、彼女たちをより高くへ飛躍させることができたのだ。それはただの慈善ではなかった。彼女にとってそれはかつての自らの慰撫であり、鼓舞でもあったのだ(――「小説道場」終了直後に、断崖を自由落下するかのごとく文章が劣化したのは、そういうことだとわたしは解釈している)。
 唐沢俊一が、「栗本薫」という、ミューズに、時代に、人々に「選ばれし者」をただ遠くで嫉妬まじりに望むしかなかった「何者でもない者」であったのと同じように、栗本薫もまた、「選ばれし者」に焼けつくほどの思いを焦がせるしかない「何者でもない者」であったのだ。
「あんなに輝いていた栗本薫も、俺も、みんな同じだった、泥海を必死に泳ぐちっぽけな人間だったんだ」
 そう気づいた時にはじめて唐沢俊一はつまらぬ剽窃を繰り返して自らを偽る行為から抜けだすことができるだろう。だから彼は絶対、栗本薫を読むべき人だ、と、わたしは勝手におもっているのである。

 ――ところで、なぜ彼が栗本薫を読んでいないと云い切れるかって?そんなのは簡単。

> 村崎: 近年の写真を見たら、だいぶ太っていたよね。
> 唐沢: あれは抗ガン剤の副作用で顔がむくんでたんじゃないかな

 デビュー作「ぼくらの時代」しか彼女の著作を読んでいない村崎百郎の質問への回答がこれ。栗本薫の激太りと抗癌剤治療は一切関係ない。彼女が太りだし(――しかもヘンテコなメイクやファッションに凝りだし)たのは、90年代初頭、中島梓としてテレビに出ることがなくなってからのこと。それは文庫の折り返しなどの著者近影をみれば一発でわかる。これだけで少なくとも20年近く、彼は栗本薫・中島梓の作品は読まず、webサイトなどで彼女の近況を知ろうともしなかったことは、確実だ。




2009.06.16
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